裏士官学校物語 AM 9:45 ハーレムは手元の腕時計に一瞥をくれた。時計には寸分の狂いもない。この場合は、無駄な正確さだったが。 とっくに授業の始まっている時刻だったが、彼は、いまからでも遅くはないと、いそいそと教室に向かうより、木の上に一人寝そべって退屈している方を選んだ。 ここは地上より空が近い。雲のまばらに散っている青い空に一本の白い筋が引かれていく。 (ああ、飛行機が飛んでいる――) 昔は飛行機と飛行機雲が大好きで、現れるたびに歓声を上げていた。兄が飛行機をたくさん持っていたので、飛行機を飛ばしてくれとせがみ、よく兄にたしなめられていたものだ。 今もまだ、その名残があるのだろうか、あの独特の、キーンという音を聞くと、わくわくするというか、心の底に火がついたように、ぽっと暖かくなる。 (ここにいるのも、少し飽きたな) ハーレムは幹を伝ってするすると木を降りていく。地面に降り立つと、制服姿でグラウンドに向かうサービス達が見えた。野外の授業でもあるのだろうか。 その中に、見慣れない顔を発見した。 ハーレムは少し首を傾げてみせる。 サービスや高松より、頭一つ分抜きん出た、黒髪の男。何をするにしても、人々の驚嘆の声を上げさせずにはおかないのに、そのことを鼻にかけないので、クラスメートからの人気と注目を集めている男――ジャン。 その彼が、後にハーレムとも深く関わって来ようとは、どちらもまだ、知る由もない。 ただ彼は最初から、人目をひかずにはおかなかった。ハーレムでさえ、彼を注視した。 滑らかな曲線を描いて動く、色は違うが、どこか春の芝生を思わせる髪。図体はでかいくせに、子供の様な無邪気な笑顔を浮かべながら歩いている。光の中を。 ほっとする気分と、いらいらする気分とを同時に味わわせる男だ――それが彼、ジャンの第一印象だった。 わけのわからないいらいらは、ハーレムを戸惑わせ、不愉快にさせた。ハーレムは彼の存在など、ふんと鼻先で一蹴したかったが、そうさせない何かが、その男にはあった。 (だいたい、なんであんなヤツがサービス達と一緒にいるんだ?) 面白くない。予定を変えて、ハーレムは悠然と校庭を後にする。 ハーレムには、小さくとも、自分の世界があった。プライドの高さからか、滅多な者は寄せ付けず、学校にもあまり出ていないので、友人と呼べる者は殆どいなとい――どころか、同級生達からそういう生徒がいるのかどうか認識されているかも怪しい有様であった。 多分、そういう所が、ジャンの形成する世界と相容れなかったのであろう。 とかく、初めて見た時には、好印象と悪印象がないまぜになった変な感情が、ハーレムの中に飛び込んで来たのである。 彼を二度目に見たのは、その夜のこと。 仕事で手が離せないらしいマジックに代わって、サービスを迎えに行った。先に研究所にいるルーザーに忘れ物を届けて来たのだが、そのついで、といった風に、末弟のところに来たのだ。 その時にも、あの男は、サービスと高松と、一緒にいた。 「おまえ、何者だ?」 不躾にそう云って、男を近くでよく見ようと、彼の顔を覗き込んだ。非常に悔しいことだが、見上げるようにしてでないと、彼の顔を見ることはできない。 男ははっきりと、ジャン、という自分の名とクラス名をはっきりと告げた。 (ジャン――か) ジャンの真っ黒な瞳は――底が知れなかった。宇宙の深淵というのがあるなら、多分ああいうものであろう。ハーレムは目を反らし、突然襲ってきた得体の知れなさからさっさと足を洗った。 昔から人を見る目には、ひとかどの自信がある。もしそれが当たっているのであれば――彼は何者でもあった。万能の神でも、悪魔の知能を持った大悪党と云われていようとも、彼なら違和感はない。あの瞳の持ち主なら。それとも、それとも―― 人間ではない。 ハーレムは、思わず身を震わせた懸念をうち払うように、踵を返し、足早に車に向かった。 (ばかな。そんなはずあるわけないじゃないか。疲れているんだ、俺は……) 事実、そう感じたのは、その時が最初で最後だった。だが、彼は間違っている。そう否定出来る者は、どこにもいなかった――。 裏士官学校物語 第三話 BACK/HOME |