裏士官学校物語
13
 ハーレムは、ぶらぶらと街を歩いていた。
 もともと窮屈な士官学校の制服は嫌いだったので、私服に着替えていた。
 私服姿でも、豪奢な髪と、あくはあるが、見る者にインパクトを与える顔立ちで、彼は目引き袖引きされていた。
 それでも、裏通りに近づくに従って、人の数はまばらになる。
 ハーレムが、自分でもよくはわからないが、満ち足りた気持ちで目的地に行こうとしたそのときだった。
「ハーレム!」
 その声を聞いて、彼は、嫌な顔をして振り向いた。
 隣のクラスのジャンだ。確か、休暇明けテストで十番台に入ったというが、ハーレムにはそんなこと、関係なかった。
 だが――ここで怪我を負ったのには、ジャンが絡んでいると云えなくもなかった。結果的には、この青年のおかげで、軽い負傷で済んだのだが。ハーレムは、ナイフを持った男の気配には、全く気付かなかったからだ。ハーレムはそれを、未だに悔しがっていた。
 己の思慮の浅はかさを知り、ハーレムはもっと実践を積みたいと思った。
 ジャンには感謝していないわけでもないが、いまいち素直になれない。
 つまり、ジャンに対しては、複雑な気持ちを抱いていたのだ。
 だが、それを云ったら、ずっと前、ジャンを見てから持っていた感情かもしれない。
 面倒の予感がする。ハーレムは逃げ出したくなった。
「そっちへ行くのは危ないよ」
 わかっている。でも、どう行動しようが、当人の勝手だ。
「おまえ……腹の具合はどうした」
 ジャンは、今日の試合で、高松の作った薬のせいで腹を下し、不戦敗になったのである。
「もう治ったよ。俺は体の丈夫さと、自然治癒力には自信があるんだ」
「俺も、強さには自信がある。この間は、油断していただけだ」
「でも、また危険な目に合ったら、兄弟が悲しむよ」
「ふん。そんときゃそんときだ」
 ハーレムは、己のことを探し回っているという老人の話を思い出した。
(だが、まぁ、何とかなるだろう)
「おまえは、帰って、寝な」
「俺のことを気遣ってくれてるのか?」
 ジャンは嬉しそうに笑う。
「そんなんじゃねぇけどよ」
 どうも、この男と話すと調子が狂う。
「――ハーレム。本当に、また、あの横丁へ行く気か?」
「そうだが、悪いか?」
「何が目当てだ?」
「――酒かな」
 酒場に行ったら、Gにも会えるかも知れない。もう、しばらく会っていなかった。
(あいつは、いい奴だ)
 無口だけど、俺にはわかる。そんな自信があった。
 あの男と仲良くなって、ルーザーをぎゃふんと云わせてやりたかったし。
「そこは、そんなに魅力のあるところか? 刺されてまでも、行きたいと思うような」
「まぁ、な」
 少なくとも、学校で退屈しているよりはずっといい。
「俺も案内してくれよ」
「は?」
 思いもかけないジャンの台詞に、さすがのハーレムも目が点になった。
「この間はさ――あそこをじっくり歩く余裕なんてなかったからさ」
「バレたら、サービスがうるせぇぞ」
「それは、ハーレムもおんなじ条件じゃないか」
「ルーザー兄貴も……」
 言いかけて、ハーレムは黙った。
(ルーザーが何だと云うんだ)
「わぁった。来いよ。こっちだ」
「うんっ!」

 二人は、酒場『無憂宮』に着いた。
 前よりうらぶれた感じがした。
「よぉ、新しい客、連れて来たぜ」
 ハーレムがそう言うと、ごま塩頭のマスターが、嘆かわしそうな表情になった。
「また来たのか……」
「Gはいねぇのか?」
「ギデオンさんねぇ。ここしばらく見えてないよ」
「そうか。残念だな」
「その代わりと言っちゃあ何だが……」
「こんにちは。お二方」
「高松!」
 ハーレムとジャンは、同時に声を上げた。
「ジョージが、この人にも酒を振る舞っていたんだよ。一目で未成年とわかるのになぁ」
「ここは、大人じゃなくても酒を飲めるところがありがたいんだよな」
 ハーレムが言った。
「冗談じゃないよ。それもこれも、ジョージが大らか過ぎるのが悪いんだ」
 マスターは溜息を吐いた。
 ジョージとは、このマスター、ポールの弟で、もう一人のマスターである。この酒場に心血を注いでいる。
 ただ、悪い癖があって、相手が大人でなくても酒を勧めるのである。おかげで、一部の者にとっては、嬉しい店であるのだが――
「たまに来るんですよ。気分転換に。それにしても、いいところで会いましたねぇ」
 高松が、意味ありげに片頬笑みをした。
「なんだよ」
 ハーレムは、少したじたじとなった。
「マスター、今までのツケ、全部払いますよ」
「え? 本当かい?」
「ただし、この人がね」
 高松がハーレムを親指で指差した。
「なっ、冗談じゃねぇ」
「払わないと、アンタの恥ずかしい思い出、全部話しますよ。例えば、あなたが幼稚園の頃、肝試しで気絶したとか――」
「わぁっ。何でそんなこと知ってんだよ!」
「ルーザー様が教えてくれました」
「ちきしょう、ルーザーの野郎――あ、そうだ。こうなったら目には目をだ。ルーザーに、おまえの酒場通いのことバラすぞ」
「そしたら、アンタのもっと恥ずかしいこと、皆に広めて歩きますよ」
「何ぃっ!!」
「まぁまぁ、二人とも――」
 ジャンが割って入ろうとした。
「おまえはすっこんでろ!」
「口出さないでください!」
「う……」
 二人の迫力に押され、ジャンは言葉を失った。
(くそ。高松め。ルーザーもどこがこいつが『無理してる』だ。元気そうじゃねぇか)
 ハーレムが、心の中で毒づいた。
 だが、それも酒の力だということを、ハーレムは知らない。
 そのとき、ジャンの目が、店にあるピアノの方に移ったようだった。
「マスター、あれは?」
「ああ。あれかい。父が好きだったから、置いてあるようなもんだがねぇ」
「ちょっと弾いてみていいかい?」
「どうぞ」
 ジャンが、ピアノの蓋を開けてみる。
「なんですか。ジャン。寮のピアノは滅多に弾かないくせに」
 高松がからかった。
「あそこは、いつも誰かが弾いているだろ」
 確かに、寮のピアノは、高松やサービス、時には野沢なども弾いている。誰も弾いていないときには、ちょうど友達とふざけたりしていて、わざわざ弾く気が失せている。
 ジャンが鍵盤に指を置くと、ポーン、と音が鳴った。
「マスター、なんか弾いてもいいかい?」
「ああ、いいよ」
「耳栓の用意をしておいた方がいいな」
 ハーレムがからかい気味に言った。
 ジャンの演奏が始まった。
 それは、とても見事な奏楽だった。ハーレムですら、指で耳を押さえていたのをそろそろと離したぐらいである。
 ジャンの演奏が一区切り終わると、ポールが握手を求めてきた。
「素晴らしい! 君はどこで習ったんだい?」
「いや、俺、聴いただけだから……」
「オリジナルもできるかい?」
「できると思います」
 そうして、またジャンの演奏が始まった。
 今度は、数少ない客の全員が拍手をした。
「わ、私は、歌手になるのが夢だったんだ。でも、ピアノの腕がいまひとつでね。アカペラで歌う気にもなれないし。どうだね。君。この店の専属のピアニストにならないか?」
「え……?」
「お願いだ。なんなら、この二人の酒代をタダにしてもいい」
「おお! そいつは大助かりだ!」
「頼みましたよ! 隠れたピアノの天才!」
「参ったなぁ……」
 二人からも後押しされて、ジャンはぽりぽり頬を掻く。
「でも、こいつをここに連れてきたのは俺だってことを、忘れないでくれよ」
「アンタ、さっきは耳栓をしていたじゃありませんか。ほんとに恩着せがましくて調子いいったら」
 ハーレムの台詞に、高松が呆れたように言う。
「なんだよ。おまえだって、偉そうなこと言えねぇだろ。こいつに毒盛ったくせに」
「毒とは何ですか! 結果が思わしくなかっただけです」
 二人は、また口論を始めそうになった。だが、
「兄ちゃん、毒盛られたんだって? いい毒消しがあるよ」
さっき拍手をしていたうちの一人が、酒の入ったグラスをジャンの前に置いた。
「せっかくだから、私達も飲みますか」
「そうだな。これで手打ちにしよう」
 ハーレムと高松の剣呑な空気は、取り敢えず収まった。
 ジャンは、酒を全部飲み干した。
「もっとじゃんじゃん景気よく飲めよ」
 ハーレムにも勧められ、ジャンは、かなりの量の酒を飲んで、酔い潰れた。
 そこへ、現われたのは、Gと呼ばれるギデオンであった。
「G! 久しぶりだな!」
「……ああ」
 ハーレムに挨拶され、Gは満更でもなさそうに挨拶を返した。
「ちょうどいいタイミングに来た。ちょっとこいつ、士官学校の学生寮まで送ってってくれないか?」
 ハーレムのこの頼みには、ちょっとした甘えがあった。
 だが、Gは、
「わかった」
と、引き受けた。

「重いだろ? そいつ」
 帰る道すがら、ハーレムはGに尋ねた。
「……もっと重いものも持ったことがある」
「いや、すみませんねぇ。えっと……」
「Gでいい」
「ありがとうございますね。Gさん」
 高松が礼を述べた。
「しかし、あれぐらいで酔い潰れるなんて、案外酒に弱いんだな」
「この年で貴方ぐらい強ければ、かえって化け物ですよ」
 彼らは知らない。ジャンが、ヨッパライダーの晩酌に、付き合っていたことを。
「着いたぞ」
 うっそりと、Gが言った。
「じゃ、ここから先は私が運んでいきます。さようなら。ハーレム――Gさん。二人とももう家に帰るんですよね」
「ああ」
「そのつもりだ」
「私は、サービスに見つからないように、この人運んで行きますから。それでは」
 ハーレムとGは、高松の後ろ姿が見えなくなるまで、何となく、手持無沙汰で、それを眺めていた。やがて、彼らも、自分の居場所へと、それぞれ向って行った。

裏士官学校物語 第十四話
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