裏士官学校物語 もともと窮屈な士官学校の制服は嫌いだったので、私服に着替えていた。 私服姿でも、豪奢な髪と、あくはあるが、見る者にインパクトを与える顔立ちで、彼は目引き袖引きされていた。 それでも、裏通りに近づくに従って、人の数はまばらになる。 ハーレムが、自分でもよくはわからないが、満ち足りた気持ちで目的地に行こうとしたそのときだった。 「ハーレム!」 その声を聞いて、彼は、嫌な顔をして振り向いた。 隣のクラスのジャンだ。確か、休暇明けテストで十番台に入ったというが、ハーレムにはそんなこと、関係なかった。 だが――ここで怪我を負ったのには、ジャンが絡んでいると云えなくもなかった。結果的には、この青年のおかげで、軽い負傷で済んだのだが。ハーレムは、ナイフを持った男の気配には、全く気付かなかったからだ。ハーレムはそれを、未だに悔しがっていた。 己の思慮の浅はかさを知り、ハーレムはもっと実践を積みたいと思った。 ジャンには感謝していないわけでもないが、いまいち素直になれない。 つまり、ジャンに対しては、複雑な気持ちを抱いていたのだ。 だが、それを云ったら、ずっと前、ジャンを見てから持っていた感情かもしれない。 面倒の予感がする。ハーレムは逃げ出したくなった。 「そっちへ行くのは危ないよ」 わかっている。でも、どう行動しようが、当人の勝手だ。 「おまえ……腹の具合はどうした」 ジャンは、今日の試合で、高松の作った薬のせいで腹を下し、不戦敗になったのである。 「もう治ったよ。俺は体の丈夫さと、自然治癒力には自信があるんだ」 「俺も、強さには自信がある。この間は、油断していただけだ」 「でも、また危険な目に合ったら、兄弟が悲しむよ」 「ふん。そんときゃそんときだ」 ハーレムは、己のことを探し回っているという老人の話を思い出した。 (だが、まぁ、何とかなるだろう) 「おまえは、帰って、寝な」 「俺のことを気遣ってくれてるのか?」 ジャンは嬉しそうに笑う。 「そんなんじゃねぇけどよ」 どうも、この男と話すと調子が狂う。 「――ハーレム。本当に、また、あの横丁へ行く気か?」 「そうだが、悪いか?」 「何が目当てだ?」 「――酒かな」 酒場に行ったら、Gにも会えるかも知れない。もう、しばらく会っていなかった。 (あいつは、いい奴だ) 無口だけど、俺にはわかる。そんな自信があった。 あの男と仲良くなって、ルーザーをぎゃふんと云わせてやりたかったし。 「そこは、そんなに魅力のあるところか? 刺されてまでも、行きたいと思うような」 「まぁ、な」 少なくとも、学校で退屈しているよりはずっといい。 「俺も案内してくれよ」 「は?」 思いもかけないジャンの台詞に、さすがのハーレムも目が点になった。 「この間はさ――あそこをじっくり歩く余裕なんてなかったからさ」 「バレたら、サービスがうるせぇぞ」 「それは、ハーレムもおんなじ条件じゃないか」 「ルーザー兄貴も……」 言いかけて、ハーレムは黙った。 (ルーザーが何だと云うんだ) 「わぁった。来いよ。こっちだ」 「うんっ!」 二人は、酒場『無憂宮』に着いた。 前よりうらぶれた感じがした。 「よぉ、新しい客、連れて来たぜ」 ハーレムがそう言うと、ごま塩頭のマスターが、嘆かわしそうな表情になった。 「また来たのか……」 「Gはいねぇのか?」 「ギデオンさんねぇ。ここしばらく見えてないよ」 「そうか。残念だな」 「その代わりと言っちゃあ何だが……」 「こんにちは。お二方」 「高松!」 ハーレムとジャンは、同時に声を上げた。 「ジョージが、この人にも酒を振る舞っていたんだよ。一目で未成年とわかるのになぁ」 「ここは、大人じゃなくても酒を飲めるところがありがたいんだよな」 ハーレムが言った。 「冗談じゃないよ。それもこれも、ジョージが大らか過ぎるのが悪いんだ」 マスターは溜息を吐いた。 ジョージとは、このマスター、ポールの弟で、もう一人のマスターである。この酒場に心血を注いでいる。 ただ、悪い癖があって、相手が大人でなくても酒を勧めるのである。おかげで、一部の者にとっては、嬉しい店であるのだが―― 「たまに来るんですよ。気分転換に。それにしても、いいところで会いましたねぇ」 高松が、意味ありげに片頬笑みをした。 「なんだよ」 ハーレムは、少したじたじとなった。 「マスター、今までのツケ、全部払いますよ」 「え? 本当かい?」 「ただし、この人がね」 高松がハーレムを親指で指差した。 「なっ、冗談じゃねぇ」 「払わないと、アンタの恥ずかしい思い出、全部話しますよ。例えば、あなたが幼稚園の頃、肝試しで気絶したとか――」 「わぁっ。何でそんなこと知ってんだよ!」 「ルーザー様が教えてくれました」 「ちきしょう、ルーザーの野郎――あ、そうだ。こうなったら目には目をだ。ルーザーに、おまえの酒場通いのことバラすぞ」 「そしたら、アンタのもっと恥ずかしいこと、皆に広めて歩きますよ」 「何ぃっ!!」 「まぁまぁ、二人とも――」 ジャンが割って入ろうとした。 「おまえはすっこんでろ!」 「口出さないでください!」 「う……」 二人の迫力に押され、ジャンは言葉を失った。 (くそ。高松め。ルーザーもどこがこいつが『無理してる』だ。元気そうじゃねぇか) ハーレムが、心の中で毒づいた。 だが、それも酒の力だということを、ハーレムは知らない。 そのとき、ジャンの目が、店にあるピアノの方に移ったようだった。 「マスター、あれは?」 「ああ。あれかい。父が好きだったから、置いてあるようなもんだがねぇ」 「ちょっと弾いてみていいかい?」 「どうぞ」 ジャンが、ピアノの蓋を開けてみる。 「なんですか。ジャン。寮のピアノは滅多に弾かないくせに」 高松がからかった。 「あそこは、いつも誰かが弾いているだろ」 確かに、寮のピアノは、高松やサービス、時には野沢なども弾いている。誰も弾いていないときには、ちょうど友達とふざけたりしていて、わざわざ弾く気が失せている。 ジャンが鍵盤に指を置くと、ポーン、と音が鳴った。 「マスター、なんか弾いてもいいかい?」 「ああ、いいよ」 「耳栓の用意をしておいた方がいいな」 ハーレムがからかい気味に言った。 ジャンの演奏が始まった。 それは、とても見事な奏楽だった。ハーレムですら、指で耳を押さえていたのをそろそろと離したぐらいである。 ジャンの演奏が一区切り終わると、ポールが握手を求めてきた。 「素晴らしい! 君はどこで習ったんだい?」 「いや、俺、聴いただけだから……」 「オリジナルもできるかい?」 「できると思います」 そうして、またジャンの演奏が始まった。 今度は、数少ない客の全員が拍手をした。 「わ、私は、歌手になるのが夢だったんだ。でも、ピアノの腕がいまひとつでね。アカペラで歌う気にもなれないし。どうだね。君。この店の専属のピアニストにならないか?」 「え……?」 「お願いだ。なんなら、この二人の酒代をタダにしてもいい」 「おお! そいつは大助かりだ!」 「頼みましたよ! 隠れたピアノの天才!」 「参ったなぁ……」 二人からも後押しされて、ジャンはぽりぽり頬を掻く。 「でも、こいつをここに連れてきたのは俺だってことを、忘れないでくれよ」 「アンタ、さっきは耳栓をしていたじゃありませんか。ほんとに恩着せがましくて調子いいったら」 ハーレムの台詞に、高松が呆れたように言う。 「なんだよ。おまえだって、偉そうなこと言えねぇだろ。こいつに毒盛ったくせに」 「毒とは何ですか! 結果が思わしくなかっただけです」 二人は、また口論を始めそうになった。だが、 「兄ちゃん、毒盛られたんだって? いい毒消しがあるよ」 さっき拍手をしていたうちの一人が、酒の入ったグラスをジャンの前に置いた。 「せっかくだから、私達も飲みますか」 「そうだな。これで手打ちにしよう」 ハーレムと高松の剣呑な空気は、取り敢えず収まった。 ジャンは、酒を全部飲み干した。 「もっとじゃんじゃん景気よく飲めよ」 ハーレムにも勧められ、ジャンは、かなりの量の酒を飲んで、酔い潰れた。 そこへ、現われたのは、Gと呼ばれるギデオンであった。 「G! 久しぶりだな!」 「……ああ」 ハーレムに挨拶され、Gは満更でもなさそうに挨拶を返した。 「ちょうどいいタイミングに来た。ちょっとこいつ、士官学校の学生寮まで送ってってくれないか?」 ハーレムのこの頼みには、ちょっとした甘えがあった。 だが、Gは、 「わかった」 と、引き受けた。 「重いだろ? そいつ」 帰る道すがら、ハーレムはGに尋ねた。 「……もっと重いものも持ったことがある」 「いや、すみませんねぇ。えっと……」 「Gでいい」 「ありがとうございますね。Gさん」 高松が礼を述べた。 「しかし、あれぐらいで酔い潰れるなんて、案外酒に弱いんだな」 「この年で貴方ぐらい強ければ、かえって化け物ですよ」 彼らは知らない。ジャンが、ヨッパライダーの晩酌に、付き合っていたことを。 「着いたぞ」 うっそりと、Gが言った。 「じゃ、ここから先は私が運んでいきます。さようなら。ハーレム――Gさん。二人とももう家に帰るんですよね」 「ああ」 「そのつもりだ」 「私は、サービスに見つからないように、この人運んで行きますから。それでは」 ハーレムとGは、高松の後ろ姿が見えなくなるまで、何となく、手持無沙汰で、それを眺めていた。やがて、彼らも、自分の居場所へと、それぞれ向って行った。 裏士官学校物語 第十四話 BACK/HOME |