裏士官学校物語
10
 ハーレムの怪我は、ルーザーの言う通り、跡も残らず綺麗に治った。
 だが、彼が思うのは別のこと。
(ジャンがいなけりゃ、あそこで死んでたかもしれんな)
 もちろん、それで恩に着るハーレムではなかったけれど。
 少しだけ、そう、少しだけ、見直してやってもよいかなと、思った。
 ただ、初めて会った時の得体の知れなさは、まだ感じていたが。
(悲鳴を上げただと? 確かに、あのままだと、そうしていたかもしれない。あいつはエスパーか? あいつの言うことに嘘はなさそうだったが)
「ハーレム?」
 ルーザーが彼の顔を覗き込んだ。
 まず、この天敵を何とかしなければな、と思考はそこに移った。
「何考え込んでたんだい?」
「別に。何でもねぇよ」
「出席日数の方なら、まだ大丈夫だよ」
 ハーレムはがくっと項垂れた。俺が考えてたのが出席日数のことだったとでも、思ってたのだろうか。
 それとも、ただ単に、話の継ぎ穂だったのかもしれないが。
「そんなこと、心配してねぇ」
「じゃあ、良かった」
 ルーザーは、ハーレムの台詞と、彼が返事したことによって、安堵感を持ったらしかった。
 長兄マジックは、何やかやと忙しそうだったが、時間をとって、会いに来てくれた。それが、ハーレムには、少し面映ゆいながらも、嬉しかった。
 同じ説教でも、ルーザーに感じる反発とは違う。
「若いときには、無茶をやらかすものだよ。私もそうだった。しかし、それはあくまで仕事であって、喧嘩沙汰ではなかったよ」
 口元に笑みを浮かべながら、マジックは言った。
「おまえは、もう、あの横丁に行く必要はない。話は既にジャンくんから聞いたよ」
「へぇ。じゃあ、俺を追っているという老人の話は、もう知っているわけか」
「ああ。これはギデオンくんに教えてもらったんだがな。その老人を探しているが、ひょっとすると、もう河岸を変えたかもな」
(その仕事は俺がやりたかったのに)
 だが、マジックには、有無を云わせぬ何かがあった。
「おまえも、ちゃんと学校に行って、友達でも作るんだな」
「ああ、それだったら……」
 ルーザーは、お茶を淹れながら言った。
「カワハラくんという、真面目な生徒がついているから、安心していいですよ」
(なぁにが友達だ)
 あんな奴、ただのおせっかい野郎だ。爽やかな笑顔をしやがって。だが、それに騙されてはいけない。先生に従順かと思えば、田葛和希(1-Aの担任)など、泣かされたことがあるというじゃないか。ああいうのが、一番たち悪い。
「とにかく、あの横丁にはなるべく近づくな」
「わかった」
 少しの間だけな、と、ハーレムは、黒い笑いを腹の中で、した。
 それに、マジックにいくらかは好感は持っていても、全面服従はしない。それがハーレムのポリシーだった。

「入っていいかい?」
 コンコン、とドアをノックして、ルーザーが訊いた。
(やな奴だが、仕方がない)
「入れよ。鍵はかかってないぜ」
 そう言って、ハーレムは、猫のように、笑った。自分でも、上手いことを言ったな、と思うときに、する笑いであった。
 ルーザーが入ってきた。そして、ハーレムの顔をじっと見つめた。
「父さんじゃ、ない」
 次兄ははっきりと、言った。
「おまえは、父さんじゃない」
「何わかりきったこと言ってんだよ」
 ハーレムは、今度は急に怒り出さずに、かえって笑い出した。
 今となってみれば、お笑い草だ。自分でも、どうして荒れ狂ったのかわからない。
 父のことを尊敬しているのに。父に間違われるのは、名誉なことかもしれないのに。
「まず、父さんは、こんなに硬質な髪をしていない」
 確かに。
「それから、父さんは、こんなに濃い顔をしていない」
 悪かったな。
「父さんは、もっと威厳があった」
 どうせ威厳ねぇよ。
「なんだよ。今度は親父をだしにして、俺の批判か。冗談じゃねぇ」
「だから、これからは、父さんと別にして、愛することにするよ」
「はぁ?」
「誰もいないのは、寂し過ぎるから――」
「そりゃ、俺も、親父がいないのは寂しいけど」
「ねぇ、ハーレム。今は、ハーレムとして抱きしめさせてくれないか」
「えっ」
「兄弟同士のスキンシップだよ。いいじゃないか。ね」
 ルーザーは、とびっきりの笑顔を見せる。それに抵抗するのは、大概の者にはできそうもない。
 ハーレムでさえそうなのだ。高松だったら、さぞかし鼻血を噴くだろう。
 少年は、兄にわからないように、微かに頷いた。
 次兄は、弟を抱きしめた。そして、床に座り込んだ。
 ハーレムは、何も言わない。ただ、こうしていると、幼年時代の、まだルーザーが『優しい兄』だった頃を思い出す。
(あの頃は、何の疑問も抱かずに、ルーザーによくついて回ってたなぁ)
 マジックに対してよりも、懐いていた。それが、可愛がっていた小鳥を殺されたことで、変わった。
 最初はどうしていいかわからなかった。あんなに綺麗な笑顔をする兄が、どうして――と。
 大きくなっていくにつれ、次兄への、ハーレムの評は、『偽善者』というものになった。
 その兄に、今は、抱きつかれている。怒りと、それでも残っている僅かな思慕との間で、ハーレムは体を固くしながらも、仕方ない、と一方で考えた。ルーザーとこのままでいることを――。今は、自分を見てくれているのだから。少なくとも、当人は、そう言っているのだから。
 それに――あんなに嫌っていたはずの兄なのに、不思議と、そう嫌でもなかった。寂しい者同士、心の欠落を埋めるため、結束している、と言ったらいいだろうか。
 どのぐらい時間が経ったろうか。ルーザーは、立ち上がった。
「おやすみ、ハーレム」
 そして、余計なひと言をくれた。
「学校には、ちゃんと出るんだよ」
 その一言で、ハーレムは、夢から覚めた。びしり、と二人の間に亀裂が走ったようだった。理由はわからないが。
 やはり、この兄とは合わない、と彼は思った。

 しかし、ハーレムは夏期休暇前まで、学校にはきちんと出席していた。
 まさか刺されるとは思わなかったから、ほんの一寸だけ懲りた。しかし、ほとぼりが冷めたら、また『無憂宮』へ、そして、Gの家に行こうと思っている。Gだったら、友達にしてもいいような気がした。当分会えないだろうが、それでも許してくれるだろうという、根拠の無い自信が、何故かハーレムにはあった。Gはガンマ団員だから、本部に行く、という手もある。
 田葛が小躍りする時期に、期末テストも受けた。結果は――どうにか赤点を免れた、というものである。勉強は嫌いだから、これでも上等な方だろうか。
 廊下で双子の弟とすれ違うこともある。双子の弟は――満足そうに目を細めた。
 ジャンもいる。礼は、心の中だけに留めておいた。
 高松は、相変わらず変な研究をやっているようだ。近頃では細菌やバクテリアなどを扱っているらしい。

 夏休みは、すぐそこまで来ていた。

裏士官学校物語 第十一話
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