士官学校物語・夏
7
(え、この声――)
 サービスは声のした方を振り向いた。
 春の日差しのような金色の柔らかい髪。優美なシルエットは白衣で覆われている。ライトブルーとマリンブルーの瞳。
 高松に唯一尊敬している人と言われた男、サービスたち四兄弟の次兄、ルーザーだった。
「ルーザー兄さん!」
「どうしたんだい! サービス、その頬は!」
「ルーザー兄さん。保健医の代わりって、今日からだっけ?」
「そうだよ。忘れていたなんて、寂しいね。今までの保健医が、妹の結婚式で休みなんで、その代わりさ。――ところで、その頬は?」
 ルーザーは弟の肩に手を置いて、少しかがんで視線を合わせ、ぷっくりと膨らんだ頬をまじまじと見つめる。
「どうしたんだい。綺麗な顔が台無しだよ」
「――なんでもありません」
 サービスはそっと目を逸らす。ジャンが左手を上げて言う。
「俺がやったんです」
「君が?」
 ルーザーが顔を上げる。
「ええ」
「君――ジャンくんだったね」
 ルーザーは、小鳥のように小首を傾げた。
「はい」
 ジャンはかちこちに固くなっているようだった。その様が、サービスには奇妙に可笑しく思われた。
(そんなに緊張しなくても良いのに――)
 サービスにとって、ルーザーは優しい人。それ以外の感想があるなんて、思いもよらない。
「午後の試合のときに、ちょっと――」
「そうか。試合でだったら仕様がないね。サービス、ちょっと見せておくれ」
 ルーザーはサービスの頬を触ってみる。
「大丈夫。見た目は派手に腫れてるけど、冷やせば良くなるよ。口の中も少し切れてるみたいだけど。待ってて。氷嚢と薬持ってくるよ」
 ルーザーはいそいそと戸棚に向かう。
「ルーザー兄さん」
 サービスは言う。
「なんだい?」
「どうしてここの保健医なんかに?」
「さっきも言った通り、代わりだよ。一週間で辞めるから。それに、弟達の様子も、見たかったしね」
「……心配してくれてたんだね。ルーザー兄さん」
 ルーザーはてきぱきと応急処置を施した。
 サービスは、渡された氷嚢を受け取った。
「僕はいいんだけどね、兄さんと一緒にいられて。でも、高松が心配するんじゃないかなぁ。ただでさえ忙しいのに、これ以上仕事が増えちゃって、兄さん大丈夫かって」
 サービスは氷嚢の気持ちよさを味わいながら、言葉にした。
「ん。大丈夫だよ。スケジュールを調整すれば」
「研究って、スケジュール通りに行かないこともあるんじゃないの?」
「そういうときのために、予め余裕を持って予定組んで、なんとかやれそうだと踏んだんだ。時間を上手に使えば、それぐらいの時間は取れるもんだよ。高松君の頑張りのおかげで、論文も早く仕上がりそうだし」
「高松は喜んでる?」
「喜んでもいる。喜ぶのと心配するのと、同時にやっているみたい」
「なんか、あいつも複雑なヤツだな」
 ジャンの言葉に、ルーザーは、はははと笑う。
「あの子は優しいからね」
「兄さんに対してだけだよ」
「あいつは、優しいやつだよ」
 ジャンはいつになく真剣な表情をする。思いがけず真顔のジャンにぶつかたサービスは俯いた。
「なんだよ、おまえまでそういうこと言うのかよ」
 怪我に響かないように、サービスは呟いた。が、すぐに気を取り直した。
「全く、あいつもさ、せっかく兄さん来たんだから、素直に喜べばいいのに。学校いる間は、いつでも会えるようになったんだしさ」
 ジンジンと熱を持つ頬に、氷嚢の冷たさはありがたい。
「高松君、来たよ。一時限目の休み時間に」
「なるほど、早速」
「それから、二次限目と三次限目、そうそう、昼休みにも訪れたよ。五時限目も来たかな」
「……へぇ……」
 ジャンが感嘆の声をもらした。
「……すごいね」
 さすがのサービスも、呆れながらも感心する他なかった。
「放課後も来るって言ってたから、そろそろなんじゃないかな」
「あ、そう」
「その前に、僕は帰るよ。お邪魔しました」
「もう行くのかい?」
「帰って休んでるよ。寮はすぐそこだし」
「もし腫れがひかなかったり、悪化するようだったら、僕に言うんだよ。病院で診察するから。――これ、鎮痛剤。服用の仕方は紙に書いてあるからね。それから、これ湿布。塗り薬も入れておくよ」
 ルーザーは、手近にあった紙袋に入れて、怪我人に渡した。
「安静にしてるんだよ。氷嚢は貸してあげるから。返すのはいつでもいいよ」
「わかった。ありがとう、兄さん」
 サービスはルーザーの頬にキスをした。親愛の情を現すため、幼い頃からそうしてきたのである。
「あ、ああああああああ! る……る……ルーザー様にキスをッ!」
 狼狽した声が聞こえた。高松だ。
「あなたねぇッ! 人のこと言えないじゃありませんかッ! さっきはあんなに失礼なことを言っておきながらッ!」
 高松はサービスに詰め寄る。
 サービスは、面白がっているのと、困惑しているのとが、ないまぜになったような笑みを浮かべた。
「なんだ、おまえ。本当は気にしてたのか」
「違いますよ。ただねぇ……」
「何かあったのかい? サービス」
 ルーザーが訊く。
「ああ、高松がジャンと抱き合っているときにね」
「そんなことしてたの。仲いいんだね」
「あ……あれは、先ほども言った通り、感謝の気持ちを込めてハグしてただけなんですよ! ちょっとジャン! あなたも何か言ってくださいッ!」
「え? お……俺?」
 急に話を振られたジャンは、自分を指差しながら、戸惑っていた。
「高松の言う通りだよ。なんだかわからないけど、そういうことなんだよ。うん」
 混乱しておろおろしながらも、ジャンは、主に高松を抑えるためであろう、そう答えた。
 サービスが、揶揄するように笑った。
「変な奴だなぁ。おまえも。ジャンには平気で抱きつけるくせに、僕と兄さんがちょっとキスしただけで、あんなに取り乱すなんて。君も兄さんにキスしたければ、すればいいじゃないか。いいよね。兄さん」
「ああ」
「そんな――そんな、ルーザー様にキスだなんて……」
(ちょっと――そろそろ危ないかな)
 高松の様子を見て、サービスは、周囲に聴こえるか聴こえないかぐらいの声で呟く。
 それを、耳のいいジャンは聞き逃さなかったらしい。
(危ないって、何が?)
 そのときだった。
 高松が鼻血を噴いた。ジャンですら被害を受けないことはなく、服が血でべっとりと濡れてしまった。
「だから、危ないって言ったじゃないか」
「だったら、もっと大きな声で注意してくれよ」
 ジャンは服を広げながら、不満顔だ。
「高松は、ルーザー兄さんを崇めてるっていうぐらい、愛しているからねぇ」
「男と男でも、愛してるっていうのかい? 男と女ならわかるけど」
「――ジャン、あっちへ行こう」
 サービスは、ジャンと連れ立って、鼻血だらけの保健室を後にした。

士官学校物語・夏 第八話
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