士官学校物語・夏
6
 リング上にトレーニングパンツ姿の男子が二人。
 一人は金髪のサービス。もう一人は黒髪のジャン。
 普段は穏やかなジャンにも、一見物静かなサービスにも、闘気が滲み出ている。
 どちらも相手の出方を伺っている。
 若者達の肌を、じりじりと太陽が灼いている。
 コロシアムを模したリングの観客席からは、さっきまでの野次や応援が聞こえてこない。ぴぃんと張り詰めたような緊張だけがある。
 士官学校のトーナメント戦だが、正式のガンマ団員や下士官も見に来ている。ちなみに、今は準決勝だ。
 この中に、彼らの部下や上司がいるのだ。
 みな、冷やかし半分、本気半分で成り行きを見ていた。今までは。
 このとき、彼らは真剣に、二人の一挙手一投足に注目していた。二人とも、一年生とはいえ、準決勝まで勝ち進んだ並々ならぬ実力の持ち主だ。
 リング上の二人は、全く隙を見せない。
(このままでは、埒があかない)
 そう考え、先に動いたのはサービスだった。
 案の定、ジャンは反撃してきた。
 サービスはそれをかわした。速い。
 だが、彼もスピードには自信があった。
 サービスが、ジャンのがら空きになった懐に、危険を承知で入ろうとした。
 そのとき、サービスの軸足がぐらついた。彼は一瞬、そちらに気を取られた。
 サービスは左頬にジャンのパンチを食らった。サービスの体は後方に吹っ飛んで――落ちた。リングアウト。
 受け身をとるのがやっとだった。リングの外の芝生が、いいクッションになってくれたのが幸いだった。
「勝者、ジャン」
 わああっ、と歓声が上がる中、レフェリーが黒髪の青年の右手を高々と上げる。
 勝ったというのに、ジャンの顔は複雑そうだった。
 困惑している、それが一番ぴったりくる表現であったろう。
 身を起こしたサービスが見たジャンは、そのような感じであった。

「大丈夫ですか? サービス様!」
 二、三人の少年達が、駆け寄ってきた。例の、栗色の髪の少年もいた。
「ひでぇや。あざになってら」
「ちくしょう! ジャンめ。俺にもっと力があったらぶちのめしてやったものを――」
 だが、サービスはそれには答えず、彼らに無言の一瞥をくれ、シャワー室へと向かおうとした。
「サービス様!」
 少年はなおも追おうとした。そのとき、
「やめとき」
という声がして、四年生かと思われる青年が、少年を制した。
 サービスの親衛隊の、長老格の生徒である。
「サービスは今、本気で腹を立てているんや。あの眼光に敵わないなら、関わるのはやめとき――さ、おまえらも、早くしないと、シャワー室の順番、なくなるで」

 さっきの青年の牽制が効いたのであろう、サービスは、予想より他人に煩わされずに、シャワーを浴びた後、保健室に行けた。
 頬をさすりながら鏡を見る。養護の先生は、不在であった。
(思いきり殴られたな)
 鏡で見ると、やはり、サービスの頬は腫れていた。痛みは、ますますじんじん熱を持つ。
 口の端から血が少し出ていた。切れたところから鉄の味がした。サービスはそれを丁寧に拭き取ると、ゴミ箱にポイ、と投げ捨てた。
 サービスは、ジャンに会ったらああも言ってやろう、こうも言ってやろうといろいろ思いを巡らせていたが、そのどれもが、虚しいような気がした。
 がらりと扉が開いて、ジャン本人が姿を現したとき、その言葉どもは、サービスの脳裏からすっかり消えてしまった。
「サービス」
 ジャンは気がかりそうな瞳を向けている。そして、
「すごく腫れたな」と言った。
「な……何の用だ」
 サービスは戸惑いながら問うた。言いたいことを忘れてしまったため、そんな言葉しか思いつかなかったのだ。ジャンはそれには答えずに、つかつかと歩み寄った。
「ごめんな」
 ジャンは哀しげにサービスを見ている。
「悪かったよ」
「いいんだ」
 サービスは静かに、だが激しい感情を込めて口を開いた。
「つっ……」
 喋ったら、痕に響いた。
 サービスはきりりと眉を上げ、鋭く睨む。ジャンはたじろぎ、思わずあとずさった。
 おざなりの謝罪や同情は、この誇り高い少年には通用しない。
 彼は、先程の試合での醜態を思い返し、悔しさを噛みしめていた。
「歯がね、折れてしまったかと思ったよ。無事だったのは、きっと運が良かったからだな」
 ようやく、頭の中でまともな文章が出来た。それを口にしながら、サービスは痛みと闘っていた。
「おまえの顔を殴っちまった。こんなに綺麗な顔なのにな」
 ジャンがすまなそうにしている。
「仕方ないよ。試合だったんだから。それに、こんな顔――」
 サービスはおしまいまで言わず、黙って背を向けた。
「腫れがひかなかったら、僕の親衛隊が、黙っちゃいないな」
 彼は故意に、話題をそらした。
「親衛隊?」
「いつも僕の周りにつきまとっている奴らがいるだろう。総帥の弟で、頭も良くて、顔も……そうするとさ、いろいろと集まってくる奴が多いんだよ。今は、野沢さんがリーダーやってくれてるから、それなりに助かってるけど。ま、どっちみち鬱陶しいには違いないな」
 サービスは、痛さを堪えながら、ゆっくり喋った。
「そんな――悪いよ。鬱陶しいなんて。みんなおまえが好きなんだろう?」
「そんなことはないよ。”総帥の弟”が目当てで来る奴も結構いるし。野沢さんやルネは、本当に僕に好意を持っているかもしれないけど」
 不思議だ。もしかしたら、憎んでいるのかもしれないジャンに、こんなことを話しているとは。痛さも構わずに。
 サービスは、自分が思っているより、ジャンを信用しているのかもしれない。
「ま、僕のとりまき達が、ぼこぼこにしようとしたとしても、恨むなよ。君相手じゃ、返り討ちに合うかもしれないけどね」
「サービス。まだ俺のこと恨んでるのか?」
「恨んでるも恨んでないも、ないよ」
「――なぁ、サービス。まだ腹が癒えなかったらさ、俺のこと殴っていいよ。俺、本当は自分で自分のことぼこぼこにしたいけど、自分で自分を殴るのって、やりにくそうだろ? だから、俺の代わりに俺を殴っていいよ」
「――本当にいいのか?」
「ああ」
 ジャンはベッドに腰をかけ、ぎゅっと瞼を閉じる。サービスは拳を握り締める。
 かちっ、かちっ、かちっ。時計の秒針はいたずらに時を刻んでいく。
「…………」
「――サービス?」
「やめた。馬鹿らしい」
 サービスは手のひらを空に向け、大袈裟に肩を竦める。アメリカ人などがよくやる、バタ臭い仕草だ。
「ここで君を殴っても、僕が君に負けたという事実は変わらないからね。――ジャン?」
 ジャンは立ち上がって、サービスの左頬に手を当てる。
「な――何してるんだよ」
「『手当て』さ。知ってる? サービス。悪いところや痛いところに手を当てると、楽になるんだ。手から力が発せられて、早く良くなるんだ。だから、怪我や病気を治療することを、『手当て』っていうんだ」
「それぐらい、僕も知ってるけど――うーん、そういえば何となく痛みが――」
「痛みが?」
「ますます増してきた」
「…………」
「やっぱり冷やした方がいいみたいだ」
「じゃ、俺、氷水用意するよ」
「自分でやるからいい」
「俺になんかできることない?」
「そこの扉を開けてね」
「うん、うん」
 ジャンは期待に満ちた目で、サービスの指示を待っている。
「さっさと部屋から出て行ってくれ。そしてもうここへ来るな」
「サービス~」
「君にできることは、そのぐらいしかないよ」
「サービスってば~」
「鬱陶しいな。さっさと行ってくれ」
 サービスの”いじめ”は、既にこの頃から始まっている。その後、約二十五年ぶりに二人が再会したときも、あまり状況は変わらないようだ。
 サービスのジャンに対するある種の苛立ちは、二十五年経っても、消えるものではなかったらしい。が、これは別の話である。
「やぁやぁ。ごめんよ。遅くなって――」
 聞き覚えのある、優雅な声が耳に入った。

士官学校物語・夏 第七話
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