士官学校物語・夏
3
(ここに来るのも、久しぶりだな)
 陸風に黒い髪を靡かせながら、ジャンは思った。
 この海岸に来るのは、久しぶりだ。ジャンの中で、自分のことが何やら吹っ切れたと同時に、ここに来なくなったような気がする。
 波の音は、いつもと同じ様にジャンを迎え入れてくれる。
 ジャンは浜辺を歩き回り、足元に落ちていた石を拾って投げた。石はかなり遠くまで飛んだ。波に浚われて、どこまででも行くのだろう。
 どうして、またここに戻ってきたのか。理由はわかっていた。
(この波の音を、あいつにも聞かせてやりたい)
 ジャンは一つの顔を思い浮かべていた。
 ここは、ジャンだけの秘密の場所だった。
 その場所を共有したいと思う相手が、彼にはいたのである。
 たとえば、今日、やけに元気のなかったあいつ。たとえ自分では力不足でも、あいつを励まし、元気づけてやりたい。
 善は急げだ。ジャンは早速踵を返した。

 サービスはベッドに伏せっていた。
 一番いいのは、起き上がって、テストの復習でもすることだろう。わかってはいるのだが、何もする気になれない。
 サービスは、落ち込んでいた。この暑さ、風がひたとも吹かない部屋に苛立っていたし、天井がやけに白く見えることにも、苛立っていた。何か訳のわからない焦りが、サービスを苛立たせていた。
(どうした――たかが少し、テストの成績が落ちただけじゃないか)
 そう思ってみるが、どうも気分がのらない。
 と、その時、ドアにノックの音がした。ジャンである。
「サービス。今、ちょっと出られるかな」

「何か用かい。ジャン。こんな所で」
「ああ。お前にも、聞いて欲しくってさ。この波の音。おまえ、今日、なんか元気なかったからさ」
「え?」
 サービスは戸惑い気味に己を指さした。
「俺さ、困ったこととか、わけわからないことがあると、ここに来るんだ。波の音を聞いてると、悩みなんか全部、綺麗に溶け去ってしまうんだよ」
「すごいな。まるで全てを洗い流すような勢いだ」
 全てを洗い流す―――単調な波の音。まるで地響きにも似た―――
 水飛沫が、ここまでかかってきそうな勢いで迫り来る。
 訳もなく、心が落ち着く。ここにいると、とても安心出来る。
 ああ、そうか―――
 サービスは、泣いていた。
 なんで今までこんな簡単なことがわからなかったのだろう。
 こんな当たり前のこと―――
 何がわかったのか、自分でもわからぬままに、サービスはそう思っていた。
「ジャン、よくここに来る?」
「ああ。ここに来た当初は、よく来ていたよ」
「へぇ。知らなかった」
「何が?」
「おまえでも、悩みとか、あったんだな」
「おまえね、俺が全く悩まないとでも思ってたわけ?」
「うん」
 サービスはうなずいた。
「ずっとそうだと思っていたよ」
 ジャン。
 悩みなど、知らないように見えたジャン。
 彼も、不可解なことを心に抱いて、それでも立ち上がって歩いていこうと、密かに誓った夜があったのだろうか。
(ジャン)
 サービスは心の中で礼を云った。
(ありがとう)
 サービスは、膝の間に頭をうずめた。
 取り敢えず、今はただ、この波を聞いていよう。何も考えずに――。

士官学校物語・夏 第四話
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