士官学校物語・夏
11
 このところ、ジャンの様子が変だ。
 点呼の時間にもいないし、お気に入りの場所だった浜辺にもいない。
 サービスがそのことを高松に言ったら、彼はあっさりと、
「女性のところでしょう」
とのたまった。
「う……嘘だろう?」
「何ショック受けてるんですか。ジャンだって健康な若い男なんだし」
「そ、そうだけど、あんな、寝とぼけた奴、相手にする女なんて……」
「おや。純朴で、たいそうな人気だと評判でしたけど?」
 高松は、サービスの心を盗み見るように、探るような目つきをした。
 サービスは、少しどぎまぎして、彼から視線を外した。
(どうしてなんだろう。何故なんだろう)
 ジャンのことが気になる。
 でも、それは、友達だからとかではなくて――。
(なんなんだ?)
 ジャンは、はっきり言って人気がある。サービスも、その美貌で女の子達を騒がせている。サービス自身には、まだ女性体験はないけれど、ジャンはどうなのだろう。
(許せない!)
 もしそうだったら許せない。ジャンに先を越されるなんて。
 でも、それには、別の感情も混じってないだろうか。
(…………?)
 サービスは、それ以上考えないことにした。考えたら、自分にとって不愉快な結論に達しそうだったからだ。
 しかし、それとなく観察したところ、ジャンの日常生活には、女のおの字もなかった。
 いつも通り、快活で、元気が良く、素朴で明るい――実に、この年頃の男子らしい男子として、健全な生活を送っているようだった。
(誰だ? 女がいるって言ったの。高松に騙されたかな)
 しかし、サービスは、いまひとつ、面白くなかった。
 あと、点呼やその後は、彼のことを追い回したくなかった。だから、一番肝心なところには、触れていないのかもしれない。
 サービスは、怖かったのだ。もし、ジャンに、自分の知らない面があったら――。
(止めよう止めよう。ジャンが僕の思ってた通りの人間じゃないとしたって、それが何だというんだ)
 しかし、秘密のベールは、いつかは剥がされるものである。彼にも、そのときは訪れた――。

 或る日、サービスは、野沢やルネ達親衛隊と、外出を楽しんでいた。
 そろそろ帰ろうという段になったとき――ジャンの姿が見えた。
 あの道の先には、ハーレムが刺されたあの横丁がある。
「おい。どうしたんや。ぼーっとして」
 サービスは、野沢に肩を叩かれた。
「ちょっと……」
 野沢は、双子の兄より断然頼りになる兄貴分だったが、このデリケートな問題には、口を挟んで欲しくなかった。
 では、どうして高松には言ったかというと――その時点では、まだこれほど心を騒がせる事柄になるとは、思いもよらなかったからである。それに、高松には、本音を吐けてしまうような、不思議な力があった。
 しかし、さすがは野沢である。ジャンの姿をちらと見たかと思うと――サービスにはそう見えたのだ――皆に向かってこう述べた。
「サービスは、何か用事があるようやから、わいらは先帰って寝ようや」
 そして、他人にはわからないように、ウィンクした。
(野沢さんにも誤解されたかな。まぁいいや)
 サービスは、皆の姿が見えなくなると、急いで、ジャンが通ったと思われる道を走って行った。

 予想通り、ジャンは、横丁に用があるみたいだった。
 そして、きょろきょろと辺りを伺うと、さっと酒場『無憂宮』に入っていった。
(馬鹿! あんなところにいるのがバレたら……)
 だが、サービスの思いとは関係なく、体は勝手に酒場へと向かった。
(何か悪い企みがあったら困るからな……それに、麻薬とかの売買に、あいつが関係してたら困るし)
 探偵のような気持ちで、サービスは酒場のドアを押した。

 店内は暗かった。
 バーテンのいるカウンターに、明かりが灯っているだけで。
 右手にはピアノ。そして、マイクなどが置かれていた。
 店の中は、意外にも混んでいた。
 女連れの、偉そうな人物。一人でしんみり飲んでいる客。粋がっている、将来は愚連隊になるであろう少年達。
(あ、あいつら!)
 高松とハーレムを見つけた。どうして、この二人が、この店に来ていたなんて、知りもしなかったのであろう。
 サービスは目立たないように、大柄な男の陰に隠れた。
 ジャンの姿は見えない。
(どこ行ったんだ。あいつ)
「レディースアンドジェントルメーン」
 どこに貴婦人と紳士がいるんだ、などと思いつつ、サービスは耳を傾けた。
「今宵も私の音楽ショーに来てくださってありがとうございます」
 大半の客は、酒がお目当てであろう。だが、サービスは、その感想を、静かに胸の奥にしまっておいた。
 バアの奥まったところで、ぱっと、スポットライトがつき、男の姿が明らかになった。
 ぱりっと三つ揃いを着こなした、ごま塩頭の中年男である。四十代ぐらいだろうか。服装のせいか、貧弱には見えない。
「初めての方もいらしゃるでしょう。私はポールと言います。この酒場で、歌わせてもらっています。よろしく!」
 ぱちぱちと、まばらな拍手が聞こえた。
「そして――ご紹介致しましょう。歌の伴奏をしてくださる、ジャンです!」
 ジャンが物陰から、ピアノの方に移動する。ライトがそれを追った。
 椅子に腰掛けると、ジャンは、実に巧みに音を奏でた。
 店内は、しんとなった。
 みな、ジャンの前奏に引き込まれてしまったようだった。荒っぽいが、どこかに光るものがある。
(曲は――僕もよく知っているはずなんだけど――)
 その疑問は、ポールが口を開いたとき、氷解した。
 amazing grace how sweet the sound……
 その歌声たるや、見事なものであった。演奏とも、マッチしている。
(こんな……こんな特技が、ジャンにもあったのか――)
 僕は、僕のライバルの、一部分しか見ていなかったのだ。それを思うと、サービスは哀しくなった。悲しいではない。どこか、切なくなるような気持ちである。
(ここは僕の場所じゃない)
 それが、サービスの心を痛くさせた。
 帰ろう。ここは僕の場所じゃない。
 サービスは忍び足で、バアを出て行こうとした。
 そのとき――
「サービスッ!」
 ジャンが呼ばわったので、サービスは慌てて走り去った。
「待ちなさい! まだ歌は始まったばかりですよ! ジャン!」
 ポールの声が、虚しく響いた。

「サービス! 待てよ!」
 酒場よりほど近い道端で、サービスはジャンに捕まった。
「離してくれ!」
「どうしたんだよ。急に。俺、サービスも俺の演奏聴きに来たのかと、嬉しく思ってたとこなんだよ!」
「馬鹿! ぼんくら! こんなとこでバイトしたら、停学ものだぞ!」
「えっ?! そうだったのか。知らなかったなぁ」
 どうやら、教えてくれる者がいなかったらしい。
(高松もハーレムも、人が悪い)
 サービスは、ジャンの手をとった。
「いいか。ジャン。おまえのこの手は、もっと大きなことを成し得る手なんだ。それをむざむざ無駄にする気か。それとも、おまえは一生、酒場のピアノ弾きで終わるのか」
「サービス……でも、俺の演奏で、楽しんでくれる人がいるんだ。そういう人がいるなら、俺はその人を大切にしたい」
 サービスは、ジャンのまっすぐな目から、顔を背けた。ジャンといい、ハーレムといい、真実を明るみに出そうとするような男は、どうして、あんなに目が大きいのだろう。
「ふん。確かにおまえには、人殺しより、場末の酒場のピアノ弾きが似合っているだろうさ」
 サービスは、自嘲するように、口の端を上げた。
「俺は……俺は……皆に幸せになってもらいたかっただけなんだ」
 ジャンは、しょげた声でそう言った。
「でも、俺の使命ではなかったんだ、それは。今、初めて気付いたよ。ピアノももう止める」
 ジャンの使命のことは、サービスは当然のことながら、知らなかった。
「さっきの台詞と矛盾してるだろう! それに、ピアノなら学校で弾けばいい」
「サービス……」
「おまえ、あんな特技があるなんて、僕に一言も言わなかったな」
「え? だって、サービスが俺の音楽、聴きたいと言ったことなかったし」
「馬鹿野郎! 僕にだけ秘密にしていたなんて」
「もっと上手くなってから、聴かせるつもりでいたよ」
「……ジャン。僕も、おまえの『アメージング グレイス』の続きを聴きたいよ」
 ジャンの才能をもってすれば、世界中を魅了することができるだろう。
(ジャン。さっきの僕との会話で、そのことを諦めてもいいとさえ表明してくれた)
 だが、それは、サービスの望むところではなかった。相手も本気ではなかったろう。つい、口が滑ったというところなのではあるまいか。
(おまえの世界から弾き出されるのはご免だ)
 ジャンはライバルだ。彼の心の中に、ライバルという地位を占めていたい。
 敵でもいい。嫌われてもいい。ただ、秘密がなくなればいい。
 しばらく、サービス達は、お互いを吸い込むかのように、見つめ合っていた。

 それを、物陰から見つめていた人物が二人。
 高松とハーレムだった。
「驚きましたねぇ。ちょっと突つけば、何か出るかも、と期待してたんですが、まさかこんなに本音を喋るとはねぇ。まぁ、まだわかっていないところもありますけど」
「…………」
「帰りますか? ハーレム」
「ふん」
 ハーレムは、燃えるような目で、サービスとジャンを見ていた。
「あなたには、別の人が現れますよ。だから、もう、サービスからは卒業なさい」
「うるせぇ。俺は、気にしてねぇ」
 だが、目が、裏切っていた。
 高松は仕方なさそうに肩を竦め、それでも、ハーレムと一緒にそこにいた。

「戻ろう。『無憂宮』へ。今日は、野沢さんが何とか誤魔化してくれると思うから。だけど、見逃すのは今日だけだからな」
 サービスがジャンの手をとって、歩きかけたときだった。
 一人の男が現れた。明らかに酔っ払いとわかる。
 ぼろぼろの服、酒臭い息。
 男は、一回、ひっくとしゃっくりをした。
「ほぉ、少年が二人。こんなところで何をしておるのじゃね?」
「行こう。関わらない方がいい」
「まぁ、そう言いなさんな。わしは酔って、足元がふらふらだ。肩を貸してくれんかね」
「いいですよ。さぁ」
 ジャンがおぶっていこうと、体勢を整えた。
「いや、こっちの美人さんの方がいいな。この年になってもな」
 サービスは気が乗らなかったが、右肩を、男の方へ突き出した。
 突然――。
 男が、サービスを捕らえ、小型銃をこめかみに突きつけた。
「な、何をするっ!」

士官学校物語・夏 第十二話
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