士官学校物語・夏
10
 サービスは、自室で写真の整理をしていた。
 机の上にあるのは、夏休み前の林間学校のものだ。 
 彼の親衛隊に撮ってもらったものが殆どである。しかし、それも、実物の美しさには及ばない。
 彼も、シャッターを押す係を引き受けた。友達――ニールや高松に頼まれて、である。
 サービスは、一枚一枚眺めながら、それをとっておこうか、始末してしまおうか考えている。
 確かに、この写真の束は、大切なものではある。だが、同時に、少し忌々しいことを思い出してしまうのだ。
 結局、サービスは、林間学校の数々の写真を、アルバムに収めようと決めた。
 今からする話は、その林間学校のときに起こった、サービスにとっては不愉快な、ハプニングの話である――。

 サービスと高松は、自由時間のとき、川辺を歩いていた。
 その川は急流で、その先には滝がある。流れが早いのは、昨日の豪雨のせいだ。
(落ちて溺れないように気をつけないとな)
と、サービスは、川から少し離れたところで、流れを観察しながらそう思った。
 ジャンが、向こう岸にいた。
「おーい、サービスー! 高松ー!」
 ジャンは、自慢の大声で、二人を呼んだ。
(全く、あいつの声ときたら、海の向こうからでも聞こえそうな胴間声だもんな)
 サービスはくすっと笑った。
 ジャンの声は大きいし、よく通るが、胴間声とは言い過ぎであろう。
 と、いきなり、ジャンが川に飛び込んだ。
「ジャン!」
 サービスと高松は、同時に叫んだ。
 ジャンは余裕で、
「大丈夫、大丈夫。俺、泳ぐの得意だから」
と水面から顔を出して言った。
 しかし、やはり、泳ぐ環境には適していない上、油断もあったのだろう。ジャンはバランスを崩し、川の流れに呑まれて行った。
 彼はあっという間に、滝に落ちて行った。
「急ぎましょう!」
 二人は崖を下り、滝壺に落ちたジャンを救助した。滝壷の流れは緩やかなので、こちらの方はまだ、さほど泳ぐのに苦労しなかった。
 ジャンは気を失っていた。
 高松が、水を吐かせるため、彼の頭を横に向かせた。だいぶ水を飲み込んでいたらしい。吐いても、まだ起きない。高松は気道を確保した。
「人工呼吸しましょう。私が心臓マッサージしますから、あなたは息を吹き込んでください」
「え?」
「え、じゃないですよ。ほら早く」
 この場の主導権は、完全に高松が握っていた。
「息を吹き込むって、まさか……」
「マウストゥーマウス、ですよ」
「冗談じゃない。おまえがやれ」
「おや。ムキになって。ファーストキスでもあるまいし」
 サービスは俯いた。
「おや! そうだったんですか! それは意外ですねぇ」
「家族とは……したことある」
「じゃあ、家族と思ってすればいいじゃないですか」
「おまえがやれよ」
「私はルーザー様に操立てていますから。それに、他に誰もいないならともかく、今はあなたがいる。ま、私がやってもいいんですけどねぇ……後で、アンタのこと、『顔に似合わずネンネなんですよ』と言いふらしてもよいんなら」
「わかった! やるよ! やる!」
 とはいえ、赤の他人と唇を合わせるのは初めてであった。
 授業で習ったやり方を反芻しつつ、サービスは、一生懸命ジャンの呼吸を促した。
 ジャンの唇は、思ったより柔らかかった。
 サービスの頭の中は、空っぽに近くなった。何をしていたかは、あまりよく覚えていない。それは、照りつける夏の太陽のせいかもしれない。
「ぷはっ!」
 ようやく、ジャンが息を吹き返した。
「あ……あれ?」
 サービスが怖い顔で睨んでいる。
「『あれ?』じゃない。僕がどんなに恥を忍んだか知りもしないで」
「え? え? 何?」
「様子から察するに、ジャンとの人工呼吸が、サービスのファーストキスみたいだったですねぇ。安心してください、サービス。このことは口外しませんから」
「へぇ……ファーストキスって……唇と唇を合わせるやつ?」
 ジャンはにこぉっと笑った。サービスはどきっとした。
「よかった。俺も初めてなんだ」
「そうか……」
 それは良かった。そう言おうとして、愕然とした。
 ファーストキス(家族除く)がジャンで良かった?
(何を考えているんだ。僕は)
「ジャン、アンタも言わない方がいいですよ。サービスの親衛隊に殺されたくなければ」
「野沢さんがいるから大丈夫だよ」
「そうですかねぇ。人気のないところでリンチも有り得ますよ」
「彼らにそんな度胸ないだろ。高松、ジャンを脅すなよ」
「おやぁ。サービスてば、怪しいですねぇ……。さては」
「何だよ」
「サービス……あなた、ジャンを意識してるんじゃありませんか」
「そ、そんなわけないだろ」
「そうですよねぇ。男同士だし、あなたは冷静屋で通ってるし」
 高松の台詞には、揶揄するような響きがあった。
「ところで、三人とも濡れ鼠ですが、どうします?」
「川辺の浅い所で水遊びしたって言うよ」
と、ジャン。
「こんなにずぶ濡れでですか?」
「まぁ、それは仕方ないだろ。巻き込んで済まないが」
「本当ですよ。全く。まぁ、困ったときにはお互い様ですが」
 迷惑そうな高松も、しかし、どこか満足げな顔である。
「ジャン。どうして、あの川を泳ごうとしたんだい?」
 サービスが尋ねた。
「まぁ、おまえらのところに早く行きたかったからかな」
「そんなくだらん理由で、あんな危険を冒すな! ミッションでもないのに!」
 サービスは怒鳴った。
「サービス……高松……ごめん……でも、ありがとう」
 ジャンの、心からの詫びと礼だった。
 サービスは、許す気になった。

 しかし、あの後、田葛にこってり搾られたのは、言うまでもない――。
「あの川は増水して危険だったんだ。冗談でも川遊びなんてもっての外だ。そういう授業でならともかく、軽い心で近づいたなんてとんでもない!」
 医務担当の先生に密かに診てもらったところ、ジャンは『異常なし』のお墨付きを頂いた。この先生には、できるだけ詳しく話す必要があったが、何故そんな事故が起きたのかは、多少ぼかしておいた。

 テントの中――。
 サービスは、自らの想いに戸惑っていた。
(ジャンがファーストキスで良かった? それは、知らない奴や、息の臭い奴よりはマシだったかもしれないけど――)
 サービスは、唇に己の人差し指をあてがった。
(あいつの唇、意外と柔らかかったんだな――)
「サービス、何やってるんですか。そんなジェスチャーなんかしなくたって、絶対言いませんから」
 高松は、そう言った後、じぃっと、何か問いたげに見ていたが、やがて、多分訊きたいこととは別のことを口にした。
「寝ましょう」
と。
 ジャンは、既に高鼾だった。どんなに落ち込んでも、すぐに眠れてしまうのが、この男の特技らしい。
 この想いさえなければ――
 この複雑な想いさえなければ、サービスの、林間学校生活は、もっと単純なものだったかもしれない。
(まぁいい。明日から、いつも通り接しよう)
 サービスは心に決め、それは、今のところ成功していた。
 あんなことがなかったかのように――。
 あいつ、後で医者にかかったかな。サービスはそのことについても気にかかっていた。

士官学校物語・夏 第十一話
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