士官学校物語・夏 机の上にあるのは、夏休み前の林間学校のものだ。 彼の親衛隊に撮ってもらったものが殆どである。しかし、それも、実物の美しさには及ばない。 彼も、シャッターを押す係を引き受けた。友達――ニールや高松に頼まれて、である。 サービスは、一枚一枚眺めながら、それをとっておこうか、始末してしまおうか考えている。 確かに、この写真の束は、大切なものではある。だが、同時に、少し忌々しいことを思い出してしまうのだ。 結局、サービスは、林間学校の数々の写真を、アルバムに収めようと決めた。 今からする話は、その林間学校のときに起こった、サービスにとっては不愉快な、ハプニングの話である――。 サービスと高松は、自由時間のとき、川辺を歩いていた。 その川は急流で、その先には滝がある。流れが早いのは、昨日の豪雨のせいだ。 (落ちて溺れないように気をつけないとな) と、サービスは、川から少し離れたところで、流れを観察しながらそう思った。 ジャンが、向こう岸にいた。 「おーい、サービスー! 高松ー!」 ジャンは、自慢の大声で、二人を呼んだ。 (全く、あいつの声ときたら、海の向こうからでも聞こえそうな胴間声だもんな) サービスはくすっと笑った。 ジャンの声は大きいし、よく通るが、胴間声とは言い過ぎであろう。 と、いきなり、ジャンが川に飛び込んだ。 「ジャン!」 サービスと高松は、同時に叫んだ。 ジャンは余裕で、 「大丈夫、大丈夫。俺、泳ぐの得意だから」 と水面から顔を出して言った。 しかし、やはり、泳ぐ環境には適していない上、油断もあったのだろう。ジャンはバランスを崩し、川の流れに呑まれて行った。 彼はあっという間に、滝に落ちて行った。 「急ぎましょう!」 二人は崖を下り、滝壺に落ちたジャンを救助した。滝壷の流れは緩やかなので、こちらの方はまだ、さほど泳ぐのに苦労しなかった。 ジャンは気を失っていた。 高松が、水を吐かせるため、彼の頭を横に向かせた。だいぶ水を飲み込んでいたらしい。吐いても、まだ起きない。高松は気道を確保した。 「人工呼吸しましょう。私が心臓マッサージしますから、あなたは息を吹き込んでください」 「え?」 「え、じゃないですよ。ほら早く」 この場の主導権は、完全に高松が握っていた。 「息を吹き込むって、まさか……」 「マウストゥーマウス、ですよ」 「冗談じゃない。おまえがやれ」 「おや。ムキになって。ファーストキスでもあるまいし」 サービスは俯いた。 「おや! そうだったんですか! それは意外ですねぇ」 「家族とは……したことある」 「じゃあ、家族と思ってすればいいじゃないですか」 「おまえがやれよ」 「私はルーザー様に操立てていますから。それに、他に誰もいないならともかく、今はあなたがいる。ま、私がやってもいいんですけどねぇ……後で、アンタのこと、『顔に似合わずネンネなんですよ』と言いふらしてもよいんなら」 「わかった! やるよ! やる!」 とはいえ、赤の他人と唇を合わせるのは初めてであった。 授業で習ったやり方を反芻しつつ、サービスは、一生懸命ジャンの呼吸を促した。 ジャンの唇は、思ったより柔らかかった。 サービスの頭の中は、空っぽに近くなった。何をしていたかは、あまりよく覚えていない。それは、照りつける夏の太陽のせいかもしれない。 「ぷはっ!」 ようやく、ジャンが息を吹き返した。 「あ……あれ?」 サービスが怖い顔で睨んでいる。 「『あれ?』じゃない。僕がどんなに恥を忍んだか知りもしないで」 「え? え? 何?」 「様子から察するに、ジャンとの人工呼吸が、サービスのファーストキスみたいだったですねぇ。安心してください、サービス。このことは口外しませんから」 「へぇ……ファーストキスって……唇と唇を合わせるやつ?」 ジャンはにこぉっと笑った。サービスはどきっとした。 「よかった。俺も初めてなんだ」 「そうか……」 それは良かった。そう言おうとして、愕然とした。 ファーストキス(家族除く)がジャンで良かった? (何を考えているんだ。僕は) 「ジャン、アンタも言わない方がいいですよ。サービスの親衛隊に殺されたくなければ」 「野沢さんがいるから大丈夫だよ」 「そうですかねぇ。人気のないところでリンチも有り得ますよ」 「彼らにそんな度胸ないだろ。高松、ジャンを脅すなよ」 「おやぁ。サービスてば、怪しいですねぇ……。さては」 「何だよ」 「サービス……あなた、ジャンを意識してるんじゃありませんか」 「そ、そんなわけないだろ」 「そうですよねぇ。男同士だし、あなたは冷静屋で通ってるし」 高松の台詞には、揶揄するような響きがあった。 「ところで、三人とも濡れ鼠ですが、どうします?」 「川辺の浅い所で水遊びしたって言うよ」 と、ジャン。 「こんなにずぶ濡れでですか?」 「まぁ、それは仕方ないだろ。巻き込んで済まないが」 「本当ですよ。全く。まぁ、困ったときにはお互い様ですが」 迷惑そうな高松も、しかし、どこか満足げな顔である。 「ジャン。どうして、あの川を泳ごうとしたんだい?」 サービスが尋ねた。 「まぁ、おまえらのところに早く行きたかったからかな」 「そんなくだらん理由で、あんな危険を冒すな! ミッションでもないのに!」 サービスは怒鳴った。 「サービス……高松……ごめん……でも、ありがとう」 ジャンの、心からの詫びと礼だった。 サービスは、許す気になった。 しかし、あの後、田葛にこってり搾られたのは、言うまでもない――。 「あの川は増水して危険だったんだ。冗談でも川遊びなんてもっての外だ。そういう授業でならともかく、軽い心で近づいたなんてとんでもない!」 医務担当の先生に密かに診てもらったところ、ジャンは『異常なし』のお墨付きを頂いた。この先生には、できるだけ詳しく話す必要があったが、何故そんな事故が起きたのかは、多少ぼかしておいた。 テントの中――。 サービスは、自らの想いに戸惑っていた。 (ジャンがファーストキスで良かった? それは、知らない奴や、息の臭い奴よりはマシだったかもしれないけど――) サービスは、唇に己の人差し指をあてがった。 (あいつの唇、意外と柔らかかったんだな――) 「サービス、何やってるんですか。そんなジェスチャーなんかしなくたって、絶対言いませんから」 高松は、そう言った後、じぃっと、何か問いたげに見ていたが、やがて、多分訊きたいこととは別のことを口にした。 「寝ましょう」 と。 ジャンは、既に高鼾だった。どんなに落ち込んでも、すぐに眠れてしまうのが、この男の特技らしい。 この想いさえなければ―― この複雑な想いさえなければ、サービスの、林間学校生活は、もっと単純なものだったかもしれない。 (まぁいい。明日から、いつも通り接しよう) サービスは心に決め、それは、今のところ成功していた。 あんなことがなかったかのように――。 あいつ、後で医者にかかったかな。サービスはそのことについても気にかかっていた。 士官学校物語・夏 第十一話 BACK/HOME |