マジック総帥の恋人
6
 きゃん! きゃんきゃん!
「うるさいなぁ……」
 深崎修は、ベッドの中で、けだるげに目をこすった。
「ソフィアでしょう」
 妻の深崎良子が言った。
 彼女は、日系人だったが、男装の麗人、川島芳子の《芳子》をもじって、良子、と日本名をつけたのだ。修の過去も知っている。歳月が、彼女の腰回りに肉をつけさせていた。 
 ソフィアとは、深崎家で飼ってるプードルである。
「きっと散歩ね。声が弾んでいるもの……エレーヌね」
「エレーヌとソフィアは朝から散歩か。若いっていいねぇ」
「ふふ、そんなことを言うなんて、あなたも齢ね」
「ふつう、齢取ったら朝起きが早くなるもんじゃないか? 私は、もう今は眠くて眠くて……」
「《辣腕の深崎》の名が泣くわね」
「辣腕とはなんだ。敏腕と呼べ」
「辣腕でしょう? かなり強引なこともやったって聞くわよ」
「昔の話だ。私はもう引退してるんだ」
「――そうねぇ、マジック総帥にも頭があがらないって言うし」
「あの人はおっかないからなぁ」
「スパイを再開する目途は立たないの?」
「俺には、今は店とエレーヌがある」
「そして、私も――でしょう?」
「ああ」
 そう簡潔に返事をすると、深崎は、良子をシーツの間に敷きこんだ。
「今のあなたは、ただのオジサンね。それも、かなりスケベな」
「スケベなオジサンで悪かったな」
「――でも、そんなところも好きよ」
「おまえはオバサンだな――愛してるよ」
「私も」
 二人はベッドで睦み合い始めた。ここから先は、大人の時間だ。

「この間のパーティーはいまいちだった……」
 ルーザーと、花々や草木に囲まれた歩道を歩いている途中、マジックが不満そうに呟いた。
「どうしてです? 兄さんだって、あんなに楽しそうにしてたのに」
 耳聡いルーザーが尋ねた。
「営業スマイルだ! エレーヌの笑顔も、私に対してはよそよそしかった! 久しぶりに彼女の本当の笑顔が見たいー!!!」
「で、張り込みですか?」
「そうじゃない。私には、ある計画があるんだ。名付けて『プライベートで、エレーヌの心から笑った顔を見せてもらおう作戦』!」
「はぁ……」
「いいか。彼女がここを通りかかったとする――」
 そのとき、偶然にも、ソフィアを連れたエレーヌが近付いてきていた。彼女は、気のせいか、きらきらと輝いている。
「彼女は犬の散歩か何かで来ている。そこへ、私が『おはよう』と声をかける。こんな風にだ。おはよう!」
「お……おはようございます」
「すると彼女は『おはようございます』と私に返してくる。その後、私は、天気の話などをする。今日はいい天気ですね」
「え……ええ」
「彼女は戸惑いながら、『え……ええ』と返事をする。私はそこで初めて犬に気がついたように、こう言う。『可愛らしいわんちゃんですね』
「ありがとう。もう行かなくちゃ」
「『もう行かなくちゃ』という彼女を、引き止める。『ちょっと抱かせていただけませんか』」
「――わかりました。どうぞ」
「『どうぞ』と言って、彼女は犬を渡す。私はそれを抱き上げる。おうおう――なかなか熱烈な歓迎ぶりだ」
 ソフィアは、マジックの顔をペロペロ舐め回した。
「兄さん、僕も――」
 ルーザーが手を伸ばしたとき、ソフィアの顔付きが変わり、うう……と唸り始めた。
「どうしたの?」
 きゃんきゃんっ! きゃんきゃんっ!
 ソフィアが必死で吠える。
「兄さんどうしましょう」
「『兄さん、どうしましょう』と、ルーザーが私に訊く……」
「いい加減にしてくださいよ! 兄さん」
「す、すみません! ソフィアは初対面の人には吠える癖があるから――」
「しかし、兄さんには懐いていたようですが」
 ルーザーは不満顔だ。
「私には、全ての動物が懐く。――人間以外はな」
「そうなんですか。……動物好きな人に、悪い人はいないって、言いますもんね」
 マジックの言葉に、エレーヌの顔がほころんだ。もともと美少女のエレーヌが、ますます可憐になった。
「私の作戦は、成功だったようだな」
「『私の作戦は成功だったようだな』と、兄さんは言った」
「私の真似はやめろ」
 マジックが、ルーザーの頭を軽く小突いた。
「それでは」
 マジック達にぺこっとお辞儀をすると、エレーヌは行ってしまった。
「いいんですか? 兄さん」
「何が」
「あれで帰してしまって」
「ああ。久々に、エレーヌの本当の笑顔も見れたしな」
「エレーヌさんって、彼女が幼いときから、兄さんの知り合いだったんでしょう? ――エレーヌさんから聞きましたよ」
「そうだ。昔は、もっとよく、私に笑いかけてくれたものだったがなぁ」
「あの娘は、兄さんにとって、なんなんですか?」
「それが――私にもよくわからないんだ」
「どうしてです? 兄さんも、恋はするでしょうが、しかし、ずいぶん年下な感じがしますよ」
「恋か――そうかもしれんな」
 マジックは、空を見上げた。
「私のものにできないなら、せめて他の男には渡したくない」
「そこまで入れあげておいて、まさか、まだ告白もしていないのではないでしょうね?」
「そのまさかだよ」
 マジックは、ふっと寂しそうに笑った。
(あの娘には嫌われたくない。私の本当の姿を知ったら、彼女は私から離れる。復讐に来るかもしれない。いや、復讐に来るなら、まだいい。彼女が私のことを考えている証拠だから。しかし――もし、私のランハ殺害を目撃したところを思い出されると――私は、それが怖い。と同時に待ち焦がれている。今はまだ無理だが――忌まわしい過去と私とどちらを取るか……確かめてみたい)
 黙ったままのマジックに、ルーザーは訝しく思った。
「早くしないと、あの娘を、他の誰かに奪われてしまいますよ」
「ああ、わかっている。わかっては……いるとも」
 マジックに買ってもらった傘を持って、上機嫌にはしゃいでいる、幼い頃のエレーヌが、瞼裏に浮かんでは、消えた。
(あの娘も年頃だ。いつまでも深崎に守ってもらうわけにも行くまい。せめて、姻戚にはなれるように、弟達を引き合わせたが、嫉妬心が増すばかりだった――)
 マジックは、エレーヌはサービスとパーティーの間中、仲良さそうであったと思った。初対面のはずなのに。
 恋する男の勘は鋭敏だ。
(ダメだ、サービスには……ハーレムでも、ルーザーでもダメだ。やはり、この私が許せない)
 女性など、いつでもよりどりみどりだった。それなのに、あんな年下の娘一人に、手が出ない。
(いっそ、一生『大和撫子』の歌姫になってくれれば……)
 今の状態がいつまでも続けばいい、とマジックは、本気で願っていた。
 しかし、あの娘を手に入れたいという、雄としての欲求もある。
 いつか、選択のときが来たら――己の方を選ぶように、条件付けしておきたい。
(そうだ! 婚約しよう!)
「ルーザー、指輪を買うぞ。つきあってくれ」
「はい」
(婚約指輪を見れば、真実を知っても、少しは私のことを考えてくれるだろう)
 マジックは思った。それは、少しでも希望を持っていたい、男のわがままさか、それとも、一片の藁にでも、何かにすがりたいという気持ちであったのかもしれなかった。
 少なくとも、恋人候補A、無害な男としてよりは、気にかけてくれるのではないか。
 マジックはルーザーと、目的地へ向かった。

マジック総帥の恋人 7
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