マジック総帥の恋人
30
 ビリーは、密かにマジックの部屋へと忍び込んだ。
 彼の部屋の位地はわかっている。子供の頃、マジックに預けられたとき、部屋で一緒に寝たのだ。
 彼の弟達は、それぞれ所用でいなくて、(会いたかったのにな……)と残念がった記憶がある。(鍵もかけないなんて――刺客が入ってきたらどうするんだろう)
 たとえば、自分のような――だが、それを気遣う必要などないと、思い当った。
 マジックは今夜、ここで死ぬのだから。
 家具や調度品は重厚で、威圧感に溢れている。
 マジックの存在感が漂っている。間違いない。彼は今も、この部屋を使っている。
 ビリーは天蓋つきベッドに近寄った。
(――いない!)
 気付いたときにはもう遅かった。
「やぁ、ビリーくん。夜這いにでも来てくれたのかね?」
 マジックが後ろから、ビリーの手首を掴んだ。
「こんな夜更けに、何の用事かね?」
「――あなたを殺しに来ました」
 そう言って、ビリーはマジックの手を、ばっと振りほどく。
「私もただで殺される気はないがな」
「何か願い事でも? 場合によっては叶えてあげないこともないわよ」
「――君に口付けを」
「……口付けだけね」
 マジックは近寄って行って、ビリーにキスをした。
 何度も何度も唇に唇で触れる。舌が入り込んで、歯列を探った。
(や、そんなところまで――)
 つんつんと軽く突かれたと思うと、思いきり吸われる。
 生まれて初めての感覚に陶然となりながら、ビリーは相手の舌を噛み切ることを思いついたが、そうはしたくない思いも湧き出ていた。
 相手に気付かれないように、ナイフの柄を探す。あった。ポケットから取り出し、バチンと刃を起こす。
 マジックは目を瞑っている。ビリーは深く深く口付けされたまま、それを相手の首筋に突き立てようとする。
(マジック――これが、私の口付け――これが、私の愛――)
 そのとき、手の甲に痛みが走り、からん、とナイフが落ちた。
(――石?)
「よぉ、ビリー」
 そう低い声で言ったのは――
「ハーレム!」
「そうだ。いつかおまえが兄貴に仇なすかもしれないてんで、役立たずの側近の代わりに、俺が寝ずの番をしていたのさ。貴様どこの回し者だ!」
「どこの回し者でもない!」
「嘘をつけ!」
「ハーレム、やめろ!」
「ほう。止める気か? 兄貴」
「私は……私のことはいいんだ」
 マジックの声には、いつもの覇気がなかった。
 長居は無用とばかり、ビリーは窓から出て行った。
「待て!」
「待つのはおまえだ、ハーレム」
 ビリーの後を追おうとするハーレムを、マジックは後ろから引き留めた。
「兄貴……あいつはアンタを殺そうとしたんだぜ」
「ああ――だが、それもいい」
 生まれて初めて、本気で殺されてもいいと思った。
「兄貴は殺されたいのか? だったら俺が殺してやろうか?」
「ごめんだな。おまえ相手ではな」
 取り敢えず、この弟のおかげで命拾いしたな、とマジックは思った。
 まだ生きていなければならない――やり残した使命と言うのがあるのだろう。

(マジック、マジック、マジック……)
 あそこで止められていなかったら、自分はマジックを確実に殺していた。
 ビリーはふらふら歩きながら返す返す思索に耽る。
 マジックを殺した後、自分も死ぬつもりだった。
 だって、彼がいない世界など、生きている意味のないものだから――。
(私は、いつだって、あなただけしか見ていなかった――)
 ビリーは一筋、ぽろっと涙を流す。
 ああ、私の人生は、マジックと共にあった――。
 マジックは、あるときには視界に現れ、あるときには完全に姿を隠しながらもなお、ビリーの中で生きていた。
 魂の恋人。ジャンはそんなことを言っていた。
 マジックを恋人と思っていたのは、昔の話だ。
 それなのに――マジックに抱きすくめられたい。マジックに口付けの続きをされたい。
(マジック――ランハのことがなかったら!)
 たとえ殺し屋軍団のボスでも構わなかった。
 私は、マジックが好きだ。
 愛していると言っても、過言ではない。憎しみに姿を変えた、歪んだ愛。それが、マジックに対する感情の全てだった。
 いつの間にか、駅の構内にいた。
 夜の駅は荘厳だった。鐘の音が、どこからか聴こえてくるような気がした。
 ビリーは覚束ない足取りで、導かれるままにそこに来ていた。
(ああ。ああ。ああ。ああ――)
 もう充分だ。
 それは、誰の声であったのだろう。ランハの声だったろうか。
 自分は赦された。そんな感覚に体が満たされた。
 地上で解かれたものは、天上でも解かれる。最早、復讐に生きることもない。
 母のいる家で、静かに暮らそうと、ビリーは思った。
 マジックは、追手を差し向けるだろうか。
 誰かが来たら、追い返そう。刺客が送り込まれたら――やっつけるまでだ。
 母に危害は加えさせない。ビリーはそう誓った。
「ビリー!」
 朝になって、帰ってくると、母が駆け寄ってビリーを抱き締めた。
「ああ。また戻ってきてくださったの。嬉しいわ」
「――僕は、ずっとここにいますよ」
「まぁ……私ね、あなたのこと、何らかの形で知っていたんじゃないかと思っていたの。だから、とても身近に思えてね……」
「ええ。母さん。僕はあなたの娘ですよ」
「え……で、では、あなたは……」
「レイチェルです。ずっと心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「レイチェル……レイチェル……ああ……」
 ロベリアは、涙に濡れた顔を天に向けた。
「何となく、そんな気もしたのだわ。大切な者はみんな私の手からすり抜けて行くとばかり思っていたけれど――こんなこともあるのね。いつか離れる日が来ても――どこかで元気に暮らしていることを知ることができたなら……私も安心して生きていくことができます。……神様、ありがとうございます」
 そう言って、ロベリアはキリスト教式に手を組んだ。
 レイチェルは、少し気が楽になった。
 母は――今はまともそうに見える。家族に死に別れ、一人で生きていかねばならない寂しさが、母を狂わせたのだ。
 これからは、ずっと一緒だ。見えない鐘の音が、また聴こえたような気がした。
 三日が過ぎた。刺客も、追手もやってこない。
 電話が鳴った。ビリーは受話器を取った。
「ワーウィックです」
「ビリーだね。その声は。ずいぶん探したよ」
「その声は――サービス?!」
「いい。落ち着いてよく聞いてくれ。マジック兄さんが死んだ」

マジック総帥の恋人 31
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