マジック総帥の恋人
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 ビリーがレイチェルだった頃、幼少期を過ごした家――。
 質素な作りは変わらない。記憶がなかった頃と違い、懐かしさで心が満たされる。
 ふと、ランハと遊んでいた幼い自分が思いだされた。それを見守る、父と母の優しい目。だがそれは、遠い日の幻影に過ぎない。
 ビリーは首を振ると、呼び鈴を鳴らす。ロベリアが出てきた。やつれても、美しい母。
 そう。エレーヌとして会ったときより、ロベリアはやつれていた。
(ごめんなさい。お母様――。あなたを忘れていて、ごめんなさい)
「ランハ――」
 ロベリアが、口に手をやった。
「まぁ、ランハ――生きてたの?」
「いいえ。私は――ビリー・ピルグリムです」
 ビリーは、喉元にまで込み上げていた熱い涙を飲み込んだ。
(私はレイチェルではない。まして、エレーヌでもない。これから、一生ビリーとして暮らすのだ――)
「あら――ごめんなさいね。あんまり息子にそっくりだったものだから――」
「ええ。知ってます」
 その息子とは、私の兄。
 ビリーが母と会うのは二度目になる。一度目は、記憶喪失の少女エレーヌとしてであったが。
 また母は涙を拭ったが、すぐに泣きやんで微笑を浮かべた。
 気丈になったのか、息子そっくりの人物が来訪してくれた喜びが勝ったのか。
 そのどちらにも当て嵌まり、と同時にそのどちらとも微妙に違う気もした。
「中に入りませんこと? 何かの用事で来たのでしょう?」
「ええ。――ロベリアさん」
「私のことをご存知なのね。どうぞ。あがってらして」
 ロベリアは微笑んだままだったが、それが妙に儚げであるのをビリーは感じた。
「どうぞ。何もないけれど」
 お茶とお菓子が出された。美味しい。どちらも母の手作りだ。
「夕食も用意できますけれど」
「あ――はい。お願いします」
 夕食――なんだろう。数々のメニューが思い出されて、無意識のうちに唾が湧いてきた。
「ミネストローネ、如何かしら?」
「大好物です」
 ビリーが笑顔を見せた。
「私もお手伝いしましょうか?」
「いいえ――あなたはお客様ですもの。そんなことはさせられないわ」
「いいんです。僕はあの――」
 あなたとは他人ではないのですから。そう言おうとして、思い留まった。
「なぁに?」
「いいえ、何でもありません」
 母にも、自分の正体を明かす訳にはいかない。そんなことをしたら、厄介なことが起こる。
 そう思い、ビリーは口を閉ざし、既に頬張っていたお菓子を嚥下した。
「ミネストローネは私、得意なのよ」
(ええ。知ってます)
 その他に、焼き立てのパンや魚介類のサラダなど、好物の何品かが、食卓に上った。
 どれも、昔通りの母の味だった。体中に、温かさが染み渡る。久々に、満足する食べ物に出会えた気がする。マジック邸でのご馳走は、あまり味がわからなかったものだから。
「たくさん食べていいのよ。男の方は、いくら食べても食べ足りないでしょう? ランハも昔はね――」
 言いかけて、母がころころと笑った。
「あら、いやだ。あなたがあまりにもランハを思わせるからつい――あら? でも、そうねぇ……」
 母は、ビリーをまじまじと見た。
「第一印象は、ランハに似ていると思ったけれど、ちょっと違うみたい。むしろ――そうねぇ、ランハより、女性的ね。あの子にはレイチェルって妹がいたんだけれど――」
「この料理、とっても美味しいです」
 ビリーは、相手の思考をわざと中断させるように、急いで言った。
「そう? お代わりいるかしら」
「はい」
(これを食べるのも、今夜が最後――)
 ビリーは、大盛りによそってもらった懐かしい味のスープを平らげた。
「今日は、泊っていってくださらない?」
「え?」
「ね、せっかく来たことですし」
「…………」
「人がいた方が、私も何かと心強いのよ。それにあなたも、どうも他人とは思えないし」
 ビリーは途端にむせた。
「あらあら。大丈夫?」
 母が背中をさすってくれた。
「この前ね――と言っても、だいぶ前だけれど、エレーヌさんと言う方が、お見えになったわ。お友達とね」
 ロベリアの考えは、ビリーの触れてもらいたくないところに行き着く。
「まだ若い美人だったわ。とっても華やかな人。私と夫グレッグは、レイチェルの小さい頃から二人して、『レイチェルはこんな美人になる』と言うような予想をしていたんだけれど、その予想にぴったりの方だったわ。あの子の方が美しかったかもしれないけれど」
 美人と言われて、ビリーも悪い気はしなくなり、途中で話に水を差すのも止めてしまった。そう言うところが、ビリーも女性である。
「もっとも――夫は、『レイチェルの方が綺麗だ』と言うかもしれないわね。あの人は、それはそれは子煩悩だったから。レイチェルは、小さい頃に行方不明になったきりで、とても心配していらした。可愛い子だった。見たと言う情報を聞けば、遠くまで足を伸ばして、一生懸命探し歩いていたわ。私も心配で、ずっと忘れたことがなかった。グレッグは亡くなったけれど、もしかしたらエレーヌさんが私達の娘なのかも、と思って、それを希望にして私は今日まで生きてきたわ」
 その娘は、私です――ビリーはどれほどそう口にしようと思ったか!
(お父様は、私の正体を見抜いていた)
 父親の本能で察したのであろうかと、ビリーは考える。
 そのグレッグも、今はもうこの世にはいないのだが。
(マジックのせいだ――)
 ビリーは拳を握り締めた。
「あら、どうなさったの? 怖い顔して。何を考えてらしたの?」
「――復讐を」
 するっと言葉が出てしまった。
「あら……まぁまぁ」
 母がおろおろし出した。
「だめよ。ビリー。それはだめ」
「何がですか?」
「復讐なんてことを考えちゃだめよ。それは、私にもいろいろあったわ。でも――復讐なんて、不毛なことはやめなさい」
「家族を傷つけられてもですか?」
「そうよ。やったことは、自分に返ってくるものなの。復讐したら、あなたにもいいことなんて起こりっこないわ。私ね、グレッグとの子供に似ているあなたには、哀しい目に合わせたくないの」
「――もう充分合いましたよ」
「え? 何?」
「ご馳走様。せめて食器洗いだけはさせてください」
「あら。もういいの?」
「はい。堪能させていただきました」
 ビリーは、レイチェルの部屋に案内された。
 久しぶりの自分の部屋。ベッドの中で輾転反側していると、どこからか声が聞こえてきた。外だ。
 ビリーが戸外に出てみると、ロベリアが月明かりに照らされながら、ふわふわしたドレスを身に纏い、可憐な歌声を上げながら踊っている。
 それを見た瞬間、ビリーは愕然とした。
(母は狂っている)
 ビリーはロベリアの体を抱き寄せ、頬をぴしゃぴしゃ叩いた。
「ロベリアさん、ロベリアさん、しっかりしてください! 僕です! ビリーです!」
「あら、ビリー」
 ロベリアはにっこり笑った。その笑顔を見た者でも、彼女が正気を失っているとは気付かないかも知れない。
 だが、母は狂っている。これからも、澄んだ鈴の音を響かせながら、ゆっくりと、しかし確実に、狂気に蝕まれていくであろう。
 ビリーは腹の底からマジックを憎んだ。
(兄を殺したことで、私達家族の運命を狂わせた男――私は、あなたを殺します)

マジック総帥の恋人 30
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