マジック総帥の恋人
2
(レイチェル――)
 エレーヌは、ひょんなところで出会った高松と店で話をして、自分はその名を持つ女ではないかと聞かされた。しかし、レイチェルには気の毒だとは思うが、実感は湧かなかった。
(いくら、レイチェルかもしれないと言われても――私はエレーヌだもの)
 そういえば――前にも他に、『レイチェル』と呼んだ人物がいる。
 エレーヌは、水の入ったグラスを傾けながら、思い出に浸っていった――。

 話は半年前に遡る。
 そのとき、エレーヌは、店で歌を歌っていた。作者不詳の歌だが、彼女は気に入っている。
 真っ赤なイブニングドレスをまとい、客の注目をいっさんに浴びて。
 そのとき、騒ぎが起こった。
「レイチェル!」
 見ると、客席の老人が、こちらに向かおうとしていた。
「レイチェル! 私だ! グレッグだ!」
「お客様! 困ります!」
 店員に引きずられ、老人は追い出されようとしていた。
 エレーヌは、何かを感じ、咄嗟に舞台を後にした。
「いかん! エレーヌを連れ戻せ!」
 オーナーの叫び声。
 エレーヌは裏口から飛び出し、抜け道を通って、追手をまいた。
(――ちょろい!)
 エレーヌは、物陰から様子を窺った。グレッグという名の老人は、店から追い出されていた。
 ドアが閉まる。エレーヌは、グレッグのもとに駆け寄った。
「大丈夫? さぁ、起きて。早く店から離れるのよ」
 グレッグは、酒の臭いがした。かなり強い酒精を浴びたのだろう。エレーヌは、彼を支えて歩き出した。
「ああ――レイチェル? おまえはレイチェルだろ?」
「レイチェル? 知らないわ」
「じゃあ、あんたは誰だね」
「エレーヌよ。エレーヌ・椿」
「それは芸名で、本名は、レイチェルだろ?」
「そうかもしれないけど、自信がないわ。私の今の本名は、エレーヌ・ライラ・深崎」
「人違いか……」
「満更人違いでもないかもしれないけどね。私、小さい頃の記憶がないもの。そのとき、レイチェルだったかもしれないわ」
「――ありがとう。こんな老人に希望の灯をつけてくれて」
「さ、早く帰らなきゃ。タクシー用意してあげるから待ってて」
 エレーヌは、グレッグを背負い直し、タクシーを止めた。
「さぁ、早く乗って」
 エレーヌは、グレッグをタクシーに押し込んだ。
「待ってくれ。これも何かの縁だ。君に祝福をあげよう」
「そんなこといいから、早く」
「――全ての幸福は、君にあれかし!」
 グレッグは叫ぶように言った。
「全てのものが、おまえを愛するように……悪魔の試みも、おまえから遠ざかるように」
 そして、グレッグはタクシーの席でぐったりとなった。眠ってしまったのだろうか。
(――全ての幸福は君にあれかし)
 エレーヌは、グレッグの最後の言葉を、反芻した。
(神の祝福が、あなたにも及びますように)
 エレーヌは、グレッグを乗せたタクシーに向かって、そう祈った。

 なんとなく、彼はもう、ここには来ないような気がした。
 その予感は当たった。
 グレッグが、エレーヌの前に姿を現すことは、二度となかった。

(グレッグ……レイチェル……私は今までなんで思い出すことができなかったのかしら)
 高松の話を聞いてもぴんと来なかったエレーヌに、それらの名前が今、まざまざと記憶の底から甦っていた。
 高松の話によれば、グレッグは死んだらしい。でも、どうして?
 何かに巻き込まれたのだろうか。高松に会いたい。エレーヌは、切実にそう願った。

マジック総帥の恋人 3
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