マジック総帥の恋人
エレーヌは、ひょんなところで出会った高松と店で話をして、自分はその名を持つ女ではないかと聞かされた。しかし、レイチェルには気の毒だとは思うが、実感は湧かなかった。 (いくら、レイチェルかもしれないと言われても――私はエレーヌだもの) そういえば――前にも他に、『レイチェル』と呼んだ人物がいる。 エレーヌは、水の入ったグラスを傾けながら、思い出に浸っていった――。 話は半年前に遡る。 そのとき、エレーヌは、店で歌を歌っていた。作者不詳の歌だが、彼女は気に入っている。 真っ赤なイブニングドレスをまとい、客の注目をいっさんに浴びて。 そのとき、騒ぎが起こった。 「レイチェル!」 見ると、客席の老人が、こちらに向かおうとしていた。 「レイチェル! 私だ! グレッグだ!」 「お客様! 困ります!」 店員に引きずられ、老人は追い出されようとしていた。 エレーヌは、何かを感じ、咄嗟に舞台を後にした。 「いかん! エレーヌを連れ戻せ!」 オーナーの叫び声。 エレーヌは裏口から飛び出し、抜け道を通って、追手をまいた。 (――ちょろい!) エレーヌは、物陰から様子を窺った。グレッグという名の老人は、店から追い出されていた。 ドアが閉まる。エレーヌは、グレッグのもとに駆け寄った。 「大丈夫? さぁ、起きて。早く店から離れるのよ」 グレッグは、酒の臭いがした。かなり強い酒精を浴びたのだろう。エレーヌは、彼を支えて歩き出した。 「ああ――レイチェル? おまえはレイチェルだろ?」 「レイチェル? 知らないわ」 「じゃあ、あんたは誰だね」 「エレーヌよ。エレーヌ・椿」 「それは芸名で、本名は、レイチェルだろ?」 「そうかもしれないけど、自信がないわ。私の今の本名は、エレーヌ・ライラ・深崎」 「人違いか……」 「満更人違いでもないかもしれないけどね。私、小さい頃の記憶がないもの。そのとき、レイチェルだったかもしれないわ」 「――ありがとう。こんな老人に希望の灯をつけてくれて」 「さ、早く帰らなきゃ。タクシー用意してあげるから待ってて」 エレーヌは、グレッグを背負い直し、タクシーを止めた。 「さぁ、早く乗って」 エレーヌは、グレッグをタクシーに押し込んだ。 「待ってくれ。これも何かの縁だ。君に祝福をあげよう」 「そんなこといいから、早く」 「――全ての幸福は、君にあれかし!」 グレッグは叫ぶように言った。 「全てのものが、おまえを愛するように……悪魔の試みも、おまえから遠ざかるように」 そして、グレッグはタクシーの席でぐったりとなった。眠ってしまったのだろうか。 (――全ての幸福は君にあれかし) エレーヌは、グレッグの最後の言葉を、反芻した。 (神の祝福が、あなたにも及びますように) エレーヌは、グレッグを乗せたタクシーに向かって、そう祈った。 なんとなく、彼はもう、ここには来ないような気がした。 その予感は当たった。 グレッグが、エレーヌの前に姿を現すことは、二度となかった。 (グレッグ……レイチェル……私は今までなんで思い出すことができなかったのかしら) 高松の話を聞いてもぴんと来なかったエレーヌに、それらの名前が今、まざまざと記憶の底から甦っていた。 高松の話によれば、グレッグは死んだらしい。でも、どうして? 何かに巻き込まれたのだろうか。高松に会いたい。エレーヌは、切実にそう願った。 マジック総帥の恋人 3 BACK/HOME |