マジック総帥の恋人
パジャマ姿のビリーは這い出して、昨日高松が置いて行った生理用の鎮痛剤を飲んだ。 苦い。口直しが欲しい。それに、なかなか治まらない。 (吐き気する……) こんなに重いのは久しぶりだと、ビリーはうつらうつらしながら考える。 寝たい。けど眠れない。 誰か来てくれないかな。 でも誰か来て、万が一にも女だとバレたら困るな。用心はしていても。 高松達だったら安心なんだけど……。 鍵は一応かけてある。彼らだったら開けることにしよう。 それにしても、ああ、眠いよぉ……。 不意に、昨日の夢に出てきたミツヤの顔が思い出された。 (あの人は、人をいっぱい殺してる) ただ、マジックの為に――そのことを考えると、背筋に悪寒が走った。 マジックも、人をたくさん殺している。しかし、それとは質が違うように思えた。 (マジック――あなた何者なの? どんな過去を隠し持っているの?) 「ビリーくん」 ひゃっとビリーは首を縮めた。その声の主は、今考えていた男と同じ人間であったからである。 コンコンと、ノックの音がした。そういえば、さっきもしたような気がする。ということは、これが二度目のノックなのだ。 「いないのかな?」 「い……います。何の御用ですか?」 ビリーは掠れた声で言った。上手く腹に力が入らない。 「良かった。入っていいかい?」 「はい。今、鍵、開けます」 何となく、逆らうのは気がひけて、ビリーは扉へ向かった。 それに――話相手はマジックでもいいと思った。どうしてそういう風に考えたのか。 懐かしい声がしたから、久し振りに彼と会話をしたかったのだ。 自分が『エレーヌ』と呼ばれていた頃に戻って……。 (正体……知っているはずないわよね) あれは夢。ミツヤが言っているのも夢なのだ。そもそも、ミツヤと言う男の存在自体、夢がなした捏造だろう。ただの幻と片づけるには、妙に生々しかっただけだ。 ビリーの内情を知っているミツヤと言う存在。それは、自殺願望から生まれてきたものなのかもしれない。 「おっと忘れてた」 ビリーはローブを羽織る。ダボッとしたパジャマに、胸にはさらしを巻いているが、念には念を入れよだ。 マジックは魔法瓶を持って、「失敬するよ」と上がってきた。 「総帥。何も一個人の部屋に訪ねてくることはないのではありませんか? 呼び出されたら私が行きましたのに」 そう。生理の辛さもおして。 「まぁまぁ。この学校にいる限り、君は私の部下なのだよ。部下の部屋に、いちいち理由がないと入れないのかい? それとも、何か不都合なことでも?」 ビリーは些かカッとした。だが、自分を抑えた。 「いえ……ただ、お仕事があってお忙しいのではないかと」 「代理の者を置いてきた。君が心配する必要はない」 そう言って、マジックはビリーの肩をこつんと叩いた。 「似合うね。そのローブ」 ビリーは、顔に血が上るのを感じた。それが怒りからか、恥じらいからなのか、自分でもよく解らない。 「今日は君とお茶を飲もうと思って来たんだ。ほら。これがそれだよ」 マジックは魔法瓶をちょっと高くあげた。 「君は今日は気分が悪そうだね」 「いえ……今、話相手を求めていたところですから」 「ドアは開けたままにしておくかい?」 「いえ。結構です」 ビリーは、密室であっても、マジックが自分を襲うはずはないことを信じていた。この男が兄を殺した、それがわかっている今でさえ。 「割合きちんとしてあるんだね。男の子の部屋は、物がないか、それとも、もっと散らかっているものだと思っていたよ」 「いいえ……」 「カップはあるかね?」 「はい。食器棚に……」 「じゃあ、勝手に淹れさせてもらうよ。私もお相伴してもいいかね?」 「どうぞ」 ああ、やっと甘い物が口にできる。 マジックは嬉しそうに鼻唄を歌いながら、コポコポと紅茶を二人分淹れた。 ソーサーに載せて、ビリーが持ち込んできていたテーブルの上に置く。 ビリーは紅茶を啜った。ストロベリーの風味がした。砂糖の匙加減も、ちょうど良い。 「どうかね? 甘過ぎないかい?」 「いいえ。とっても……美味しいです」 ビリーは泣きそうになった。エレーヌだった頃、一番好きだったストロベリーティーだ。 「それは良かった」 マジックも一口飲んだ。 「どうしてこのお茶を?」 ビリーは訊かずにはいられなかった。 「君にそっくりな人がね、これを好きだったんだよ」 「わ、私に?」 「そう」 マジックの目が一瞬きらっと光ったように思ったのは、目の錯覚だろうか。 「『大和撫子』と言う店、知ってるかな」 「はい! 有名ですものね!」 意気込んで返答するビリーに、マジックは苦笑した。 ビリーは、『大和撫子』を忘れたことはなかった。 オーナー達が今、何をしているか、何度想像したことか。 彼らもマジックとグルだったのだろうか。 ローザの言っていたことも、結果的には正しかったのか。 いろいろ考えると辛くなるので、普段は意識の奥に閉まっていたが、眠れずに輾転反側しているときなどに、ふとホームシックのような感情にかられ、涙した。 修司はどうしているだろう。「エレーヌおねえちゃん、どこいったの?」なんて寂しがってはいないだろうか。 でも、そんなことをこの男に知られる訳にはいかない。 「何か訊きたそうだね」 「いえ……」 「オーナー達は元気でいるよ。ローザもね」 (どうして、この人は私にこんな話をするのだろう。私の過去なんて知らないはずなのに) 「修司くんは?」 思わず尋ねてしまった。 「うん。懇意にしていたお姉さんがいなくなったので、ぐずるときがあるそうだよ。そのお姉さんは、エレーヌと言う名で、私の婚約者だった……結婚しないうちに逃げられたがね」 「それは……気の毒に」 なるべく慎重にビリーは答えた。 「いやいや。この地球上に彼女がいると思うだけで、私の心は慰められるのさ」 「恨んでいないのですか?」 「恨んでなどいないさ」 「じゃあ、もし――もし、彼女が死んでいたりしたら? 例えば、何者かによって殺されたとしたら……」 「そんなことはない」 マジックは静かに、だが力強く断言した。 「彼女は今も元気に暮らしている――案外私の近くにいたりしてね」 どきん、と心臓が高鳴った。 「では――では、あなたは彼女をまだ愛していると」 「無論だ」 二人は黙って紅茶を啜った。 時計の秒針の音が響く。 貴重品入れの中の指輪が、ビリーには気になった。 「その彼女が、あなたを憎んでいたとしたらどうします?」 「仕方がないね。私も人に恨まれるような仕事をしているからね」 「彼女に謝るとか、そういうことはしないんですか?」 「謝ったら許してくれるのかね?」 「いえ……」 ビリーは、喋り過ぎたと舌打ちした。 「ただ、私でしたら、一生許さないと思います」 「君は私を憎んでいるかね?」 「いいえ!」 ビリーは嘘をついた。 「大切な人を傷つけられたりしたら、憎みもしましょうけど」 「ほう」 マジックの目に、いたずらっ子めいた光がのぞいた。 (なんてヤツ――) ビリーは、腹の中で憤った。生理のことも今は忘れた。 さっきから、全てを知られていて嬲られているような感覚が、ビリーにはした。 (私の身近な人はあなたによって傷つけられています。殺された兄、自殺した父、やもめになった母――) そして、記憶をなくし、天涯孤独だと思っていた自分。 けれど、結構のんきに暮らしていた。記憶が戻るまでは。 マジックのことも好きだった。 (好き、だったのに――) もう元には戻らない。 ビリーは涙をこらえた。女として、男として、一人の人間として、この男にだけは涙を見せてはいけない。 (どうしたらこの男をぎゃふんと言わせられるか考えよう) そのとき、一人の男の顔が頭に浮かんだ。 (サービス!) サービスは、自分に好意を持っている。 しかし、彼を巻き込みたくない。そんなことをしたら、自分は最低な女になってしまう。 (あの人の兄だって、最低の男なのだから――私だって、これ以上は墜ちようがないし――) しかし、サービスには、彼を愛している人がたくさんいる。彼の双子の兄や高松、ジャン――。 (やっぱりいけない! そんなことをしたら、私は友を裏切ることになる) ビリーは紅茶をガブガブ飲んだ。 「もう一杯いかがかね?」 「いえ……今日はもう……帰ってください。お願いですから……総帥……」 ビリーは切れ切れに言った。 「じゃあ、今日はもうお暇するよ。体、大事にしたまえ」 「はい……あの……」 ビリーは呟いた。 「眠れないんです……あの男、ミツヤが夢に現れてから……」 ビリーは、知らずにマジックの弱点を突いた。 マジックの顔は途端に険しくなった。 「ミツヤ……」 「知ってるんですか?」 「いや……」 マジックは顎を撫でた。 (マジックは知っている!) あの男のことを、知っているのだ。 「知っているのなら、教えてください! ミツヤとは、何者なんですか?!」 「君は知らなくていいことだ!」 「しかし……」 「忘れてくれ。このことは誰にも言うな。わかったな!」 「はい!」 ようやく見つけた! マジックのウィークポイント! 「睡眠薬を処方するように言っておこう。よく眠りたまえ」 「はい……」 ミツヤはもう故人だ。できることはあまりない。それに、ビリーの為に何かをしてくれるなどということも、おそらくないだろう。相手がマジックならどうかわからないが――いや、ミツヤもマジックに殺されたと聞いた。 (それに――あの人の行動といえば、夢枕に立つことぐらいだろうしねぇ……) ビリーは、さっきの自分の閃きをあっさり捨てた。調べるだけは調べておこうとは思ったが。 (あの男は狂っている) そう言うビリーも、それからマジックも狂っているのかもしれないが、ミツヤの狂気とは、何かが違う。 (深入りすると危ないかも――いや、私にはもう残されているものは何もないんだった。危険も何もない――) ぼんやり思索に入れば入るほど、紅茶の余韻が消えていくようだった。 「カップとソーサー、洗っておくかい?」 マジックが尋ねた。 「いえ、自分でやりますから――そのままにしておいてください」 「わかった――水筒は置いておくから、好きなときに飲みたまえ」 マジックが立ち上がった。 「じゃあ、お大事に」 光に目が眩んで、マジックの顔が見えなくなった。 ビリーは乱暴にカップとソーサーを台所に置くと、鍵もかけずに布団をかぶって泣き始めた。生理の辛さもぶり返してきた。 今だけは――ミツヤにとり殺されてもいいとさえ思えた。だが、そういうときに限って、遠い昔の亡霊は、姿を現すということがないようだった。 マジック総帥の恋人 18 BACK/HOME |