マジック総帥の恋人
17
(まだ具合悪い……)
 パジャマ姿のビリーは這い出して、昨日高松が置いて行った生理用の鎮痛剤を飲んだ。
 苦い。口直しが欲しい。それに、なかなか治まらない。
(吐き気する……)
 こんなに重いのは久しぶりだと、ビリーはうつらうつらしながら考える。
 寝たい。けど眠れない。
 誰か来てくれないかな。
 でも誰か来て、万が一にも女だとバレたら困るな。用心はしていても。
 高松達だったら安心なんだけど……。
 鍵は一応かけてある。彼らだったら開けることにしよう。
 それにしても、ああ、眠いよぉ……。
 不意に、昨日の夢に出てきたミツヤの顔が思い出された。
(あの人は、人をいっぱい殺してる)
 ただ、マジックの為に――そのことを考えると、背筋に悪寒が走った。
 マジックも、人をたくさん殺している。しかし、それとは質が違うように思えた。
(マジック――あなた何者なの? どんな過去を隠し持っているの?)
「ビリーくん」
 ひゃっとビリーは首を縮めた。その声の主は、今考えていた男と同じ人間であったからである。
 コンコンと、ノックの音がした。そういえば、さっきもしたような気がする。ということは、これが二度目のノックなのだ。
「いないのかな?」
「い……います。何の御用ですか?」
 ビリーは掠れた声で言った。上手く腹に力が入らない。
「良かった。入っていいかい?」
「はい。今、鍵、開けます」
 何となく、逆らうのは気がひけて、ビリーは扉へ向かった。
 それに――話相手はマジックでもいいと思った。どうしてそういう風に考えたのか。
 懐かしい声がしたから、久し振りに彼と会話をしたかったのだ。
 自分が『エレーヌ』と呼ばれていた頃に戻って……。
(正体……知っているはずないわよね)
 あれは夢。ミツヤが言っているのも夢なのだ。そもそも、ミツヤと言う男の存在自体、夢がなした捏造だろう。ただの幻と片づけるには、妙に生々しかっただけだ。
 ビリーの内情を知っているミツヤと言う存在。それは、自殺願望から生まれてきたものなのかもしれない。
「おっと忘れてた」
 ビリーはローブを羽織る。ダボッとしたパジャマに、胸にはさらしを巻いているが、念には念を入れよだ。
 マジックは魔法瓶を持って、「失敬するよ」と上がってきた。
「総帥。何も一個人の部屋に訪ねてくることはないのではありませんか? 呼び出されたら私が行きましたのに」
 そう。生理の辛さもおして。
「まぁまぁ。この学校にいる限り、君は私の部下なのだよ。部下の部屋に、いちいち理由がないと入れないのかい? それとも、何か不都合なことでも?」
 ビリーは些かカッとした。だが、自分を抑えた。
「いえ……ただ、お仕事があってお忙しいのではないかと」
「代理の者を置いてきた。君が心配する必要はない」
 そう言って、マジックはビリーの肩をこつんと叩いた。
「似合うね。そのローブ」
 ビリーは、顔に血が上るのを感じた。それが怒りからか、恥じらいからなのか、自分でもよく解らない。
「今日は君とお茶を飲もうと思って来たんだ。ほら。これがそれだよ」
 マジックは魔法瓶をちょっと高くあげた。
「君は今日は気分が悪そうだね」
「いえ……今、話相手を求めていたところですから」
「ドアは開けたままにしておくかい?」
「いえ。結構です」
 ビリーは、密室であっても、マジックが自分を襲うはずはないことを信じていた。この男が兄を殺した、それがわかっている今でさえ。
「割合きちんとしてあるんだね。男の子の部屋は、物がないか、それとも、もっと散らかっているものだと思っていたよ」
「いいえ……」
「カップはあるかね?」
「はい。食器棚に……」
「じゃあ、勝手に淹れさせてもらうよ。私もお相伴してもいいかね?」
「どうぞ」
 ああ、やっと甘い物が口にできる。
 マジックは嬉しそうに鼻唄を歌いながら、コポコポと紅茶を二人分淹れた。
 ソーサーに載せて、ビリーが持ち込んできていたテーブルの上に置く。
 ビリーは紅茶を啜った。ストロベリーの風味がした。砂糖の匙加減も、ちょうど良い。
「どうかね? 甘過ぎないかい?」
「いいえ。とっても……美味しいです」
 ビリーは泣きそうになった。エレーヌだった頃、一番好きだったストロベリーティーだ。
「それは良かった」
 マジックも一口飲んだ。
「どうしてこのお茶を?」
 ビリーは訊かずにはいられなかった。
「君にそっくりな人がね、これを好きだったんだよ」
「わ、私に?」
「そう」
 マジックの目が一瞬きらっと光ったように思ったのは、目の錯覚だろうか。
「『大和撫子』と言う店、知ってるかな」
「はい! 有名ですものね!」
 意気込んで返答するビリーに、マジックは苦笑した。
 ビリーは、『大和撫子』を忘れたことはなかった。
 オーナー達が今、何をしているか、何度想像したことか。
 彼らもマジックとグルだったのだろうか。
 ローザの言っていたことも、結果的には正しかったのか。
 いろいろ考えると辛くなるので、普段は意識の奥に閉まっていたが、眠れずに輾転反側しているときなどに、ふとホームシックのような感情にかられ、涙した。
 修司はどうしているだろう。「エレーヌおねえちゃん、どこいったの?」なんて寂しがってはいないだろうか。
 でも、そんなことをこの男に知られる訳にはいかない。
「何か訊きたそうだね」
「いえ……」
「オーナー達は元気でいるよ。ローザもね」
(どうして、この人は私にこんな話をするのだろう。私の過去なんて知らないはずなのに)
「修司くんは?」
 思わず尋ねてしまった。
「うん。懇意にしていたお姉さんがいなくなったので、ぐずるときがあるそうだよ。そのお姉さんは、エレーヌと言う名で、私の婚約者だった……結婚しないうちに逃げられたがね」
「それは……気の毒に」
 なるべく慎重にビリーは答えた。
「いやいや。この地球上に彼女がいると思うだけで、私の心は慰められるのさ」
「恨んでいないのですか?」
「恨んでなどいないさ」
「じゃあ、もし――もし、彼女が死んでいたりしたら? 例えば、何者かによって殺されたとしたら……」
「そんなことはない」
 マジックは静かに、だが力強く断言した。
「彼女は今も元気に暮らしている――案外私の近くにいたりしてね」
 どきん、と心臓が高鳴った。
「では――では、あなたは彼女をまだ愛していると」
「無論だ」
 二人は黙って紅茶を啜った。
 時計の秒針の音が響く。
 貴重品入れの中の指輪が、ビリーには気になった。
「その彼女が、あなたを憎んでいたとしたらどうします?」
「仕方がないね。私も人に恨まれるような仕事をしているからね」
「彼女に謝るとか、そういうことはしないんですか?」
「謝ったら許してくれるのかね?」
「いえ……」
 ビリーは、喋り過ぎたと舌打ちした。
「ただ、私でしたら、一生許さないと思います」
「君は私を憎んでいるかね?」
「いいえ!」
 ビリーは嘘をついた。
「大切な人を傷つけられたりしたら、憎みもしましょうけど」
「ほう」
 マジックの目に、いたずらっ子めいた光がのぞいた。
(なんてヤツ――)
 ビリーは、腹の中で憤った。生理のことも今は忘れた。
 さっきから、全てを知られていて嬲られているような感覚が、ビリーにはした。
(私の身近な人はあなたによって傷つけられています。殺された兄、自殺した父、やもめになった母――)
 そして、記憶をなくし、天涯孤独だと思っていた自分。
 けれど、結構のんきに暮らしていた。記憶が戻るまでは。
 マジックのことも好きだった。
(好き、だったのに――)
 もう元には戻らない。
 ビリーは涙をこらえた。女として、男として、一人の人間として、この男にだけは涙を見せてはいけない。
(どうしたらこの男をぎゃふんと言わせられるか考えよう)
 そのとき、一人の男の顔が頭に浮かんだ。
(サービス!)
 サービスは、自分に好意を持っている。
 しかし、彼を巻き込みたくない。そんなことをしたら、自分は最低な女になってしまう。
(あの人の兄だって、最低の男なのだから――私だって、これ以上は墜ちようがないし――)
 しかし、サービスには、彼を愛している人がたくさんいる。彼の双子の兄や高松、ジャン――。
(やっぱりいけない! そんなことをしたら、私は友を裏切ることになる)
 ビリーは紅茶をガブガブ飲んだ。
「もう一杯いかがかね?」
「いえ……今日はもう……帰ってください。お願いですから……総帥……」
 ビリーは切れ切れに言った。
「じゃあ、今日はもうお暇するよ。体、大事にしたまえ」
「はい……あの……」
 ビリーは呟いた。
「眠れないんです……あの男、ミツヤが夢に現れてから……」
 ビリーは、知らずにマジックの弱点を突いた。
 マジックの顔は途端に険しくなった。
「ミツヤ……」
「知ってるんですか?」
「いや……」
 マジックは顎を撫でた。
(マジックは知っている!)
 あの男のことを、知っているのだ。
「知っているのなら、教えてください! ミツヤとは、何者なんですか?!」
「君は知らなくていいことだ!」
「しかし……」
「忘れてくれ。このことは誰にも言うな。わかったな!」
「はい!」
 ようやく見つけた! マジックのウィークポイント!
「睡眠薬を処方するように言っておこう。よく眠りたまえ」
「はい……」
 ミツヤはもう故人だ。できることはあまりない。それに、ビリーの為に何かをしてくれるなどということも、おそらくないだろう。相手がマジックならどうかわからないが――いや、ミツヤもマジックに殺されたと聞いた。
(それに――あの人の行動といえば、夢枕に立つことぐらいだろうしねぇ……)
 ビリーは、さっきの自分の閃きをあっさり捨てた。調べるだけは調べておこうとは思ったが。
(あの男は狂っている)
 そう言うビリーも、それからマジックも狂っているのかもしれないが、ミツヤの狂気とは、何かが違う。
(深入りすると危ないかも――いや、私にはもう残されているものは何もないんだった。危険も何もない――)
 ぼんやり思索に入れば入るほど、紅茶の余韻が消えていくようだった。
「カップとソーサー、洗っておくかい?」
 マジックが尋ねた。
「いえ、自分でやりますから――そのままにしておいてください」
「わかった――水筒は置いておくから、好きなときに飲みたまえ」
 マジックが立ち上がった。
「じゃあ、お大事に」
 光に目が眩んで、マジックの顔が見えなくなった。
 ビリーは乱暴にカップとソーサーを台所に置くと、鍵もかけずに布団をかぶって泣き始めた。生理の辛さもぶり返してきた。
 今だけは――ミツヤにとり殺されてもいいとさえ思えた。だが、そういうときに限って、遠い昔の亡霊は、姿を現すということがないようだった。

マジック総帥の恋人 18
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