マジック総帥の恋人
六時限目が終わった後の、サービスの言葉である。 「ん。平気。私、体力あるもの――きゃっ!」 ビリーは、ほどけた靴ひもを踏んづけて転んでしまった。 「あーあ。大丈夫かい?」 「うん。大丈夫だけど――」 「ほら、背負って行ってあげる」 「いいってば」 サービスは、ビリーの前でかがんで、おんぶする準備をした。 (仕方ないなぁ。言っても聞かなさそうだし) ビリーは、背負ってもらうことにした。 が、すぐに後悔した。 (恥ずかしい――みんな見てる) 廊下をずんずんとサービスは進んで行く。 好奇の目、羨望の目、嫉妬の目――そして、少数ながら崇拝の目があった。 それにしても、サービスは華奢だと思っていたけれど、意外と背中が広いんだな、とビリーは思った。 医務室に着いたが、誰もいなかった。 「先生いないから僕が診てあげようか?」 「……お願い、します」 「どこか痛いところはない?」 「特にないけど」 「擦りむいてるところがあるかもしれないじゃないか」 サービスは、ビリーのズボンを、足首からまくり上げた。 ふくらはぎが綺麗なカーブを描いて、きゅっと引き締まっている。 「あ、ここ赤くなってる。ちょっと待っててね」 そう言うと、サービスはどこで知ったのか、オキシドールと絆創膏を棚から持ってきた。 「自分でやるよ」 「僕が手当てしてあげるよ。――そうしたいんだ」 消毒が済むと、サービスはビリーの膝に絆創膏を貼った。 「これでよし」 「ありがとう」 なんでサービスが、自分にこんなによくしてくれるのか、ビリーにはわからなかったが。 内出血もしてるとか、そんなの自然に治るよとか、そんなやり取りをしていると、 「ビリー、大丈夫か?」 がらっと戸が開いて、ジャンが入ってきた。 「ああ、邪魔だったかな」 「大いに邪魔だったよ」 サービスが、にべもなく言った。 「あんなこと言ってるけど、サービスって優しいんだな」 ジャンが、感心しているふうだ。 「ああ。サービスはいいヤツだよ」 ビリーも同感して言った。 「よさないか、二人とも」 サービスの頬に、ぱっと朱が散った。 「サービス――あのさ」 「何?」 「いや、なんでもない」 ジャンは、あまりビリーに不用意に近づかない方がいいんじゃないか、と言おうとしたのだ。自分がそれを言う資格はないので、黙っていたが。 (ビリー……何者なんだ、おまえ) 「さ、手当ても終わったし、行くよ、ビリー、ジャン」 「ああ、俺ちょっと図書室で調べ物してくるわ」 「へぇ、おまえが。珍しいこともあるもんだな」 「なんで。俺だって図書室ぐらい行くよ」 「イメージが合わないんだよ。ビリー、怪我は大したことなさそうだけど、また背負って行くかい?」 ぶんぶん、とビリーは激しく首を振った。 「でも、送ってあげることぐらいは、したっていいだろ?」 「――それは、まぁ」 「じゃあな、ジャン」 二人は医務室から出て行った。独り残されたジャンは思った。 (サービスは、ビリーに親切過ぎる) 一体何故なのかは、恋愛沙汰には疎いジャンにはわからない。 ジャンは、図書室で、あるデータを探していた。が、それはどこにも見当たらない。 (変だな――) 「あれぇ? ジャンじゃないですか」 高松の間延びした声が聞こえた。 「高松、何してるんだ?」 「園芸用の本探してたんですよ。それより、いいんですか? 部活は」 「あ、そうだ。俺、遅れるって連絡するの、忘れてた」 「私がしましょうか?」 「いやいい。それより――」 一拍おいてジャンが尋ねた。 「ビリーって、いったい何者なんだ」 「貴方も知ってるでしょう? エレーヌ・ライラ・深崎。そして、本名、レイチェル・リタ・ワーウィック」 「そんなことを聞きたいわけじゃない。おまえ、他にも何か知ってるんじゃないか?」 「知ってる、というほど知ってはいませんよ」 「彼女、レイチェルとしての記憶を取り戻したのかな。だとすれば、何でここに舞い戻ってきたのだろう……俺だったら、すたこら逃げるね」 自分のように、訳あって青の一族の元に放り込まれたのでなければ――と、ジャンは思った。 「ビリーにはビリーの、都合というものがあるのでしょう」 「――なぁ、教えてくれ。高松。ビリーはなんでここにいるんだ?」 「そうですねぇ……明日、学食でおごってくれるなら、少し教えてあげてもいいですよ」 ジャンの財布も、かなりお寒いのであるが、そんなことを言っている場合ではなかった。 「わかった。今はどんな情報でも貴重だ。何せ、エレーヌのことも、手がかりなしと言った状態だからな」 「ビリーは……と言っても、当時はエレーヌでしたがね。マジック総帥と婚約してたんですよ。非公式にね」 「マジック総帥と婚約……?」 だが、そういう話が出ても、一向におかしくはないのかもしれない。マジックは、まだちょっと若い気がするが。 その時、唐突に、いつぞやの彼の言葉が思い出された。 (黒い髪の乙女――) 確か、己の想い人のことを、彼はそう呼んでいた。 ということは、エレーヌこそが、 マジック総帥の恋人。 (こりゃ、ますます、ビリーをサービスに近付けるわけにはいかなくなったな――あれ? でも、今はエレーヌはビリーなんだから……) 「高松。総帥は婚約を破棄されたのか?」 「逃げられたんですよ。婚約発表の前に。これも表沙汰には出ませんでしたがね」 「おまえ、そういうことはよく知ってるなぁ」 「どういう意味です。まぁ、情報があまり入って来ないから、推理もありますけどね」 「でも、なんでエレーヌはビリーとなって、士官学校に潜入してきたのかなぁ」 「さぁね」 「教えてくれないか?」 「おんぶに抱っこですか。嫌ですよ。余計なこと言って、ビリーに恨まれるのは」 「ということは、おまえ、他にも何か知ってるんだな」 「知りませんね」 高松はからっとぼけた。 「いいのか? マジック総帥が、彼――彼女か、に、どんな目に合わされても」 「むしろビリーがマジック総帥にひどい目に合わされそうですけれどねぇ。まぁそれを覚悟で、彼女もここに入って来たんでしょうし、はっきり言って、ルーザー様に累が及ばなければどうだっていいんですよ、私は」 「あやめさんは?」 「彼女はこの件に関わりないでしょうが。でも――そうですねぇ。あやめさんにまで災難が及ぶようだったら、私も考えますよ――って、なんでそんなこと訊くんですか?」 「いや、別にちょっと気になっただけ」 取り敢えず、ルーザーとあやめが、高松にとって、大切な存在だということはわかった。 「わるかったな。高松」 「いや、いいですよ。これで一食浮きましたから」 そう言って、高松は不敵な笑いを浮かべた。 やっぱりこいつも食わせ者だな、とジャンは思った。 (ビリー……) サービスは、眠れぬ夜を、輾転反側で過ごした。 (彼は、マジック兄さんにとってなんなのだろう――……) 自分がビリーを意識していることを知って、マジックの存在が俄かに疎ましく感じられたのだった。 こんなに気になる異性に出会ったことはない。 一方、眠れぬ夜を送っていた者がもう一人いた。他ならぬ、ビリーである。 サービスの様子が気になる。彼は、初々しくて可愛い。 だが、だからと言って、性質まで善であるとは限らない。マジックだって彼女がレイチェルとしての記憶を取り戻さないままの『エレーヌ』であったとき、あんなに鷹揚で紳士然としていたのであるから。 だが、それでも―― マジックがいなかったら、恋に落ちていたかもしれない。 マジック総帥の恋人。 そんなのは、ただの肩書きでしかない……はずだ。 「…………」 マジックが魅力的なのは確かだ。だが兄の敵、そして間接的には父の敵と知った以上、彼には殺意しか抱けない。 だが――それならどうして自分は婚約指輪を捨てられないのだろう。 彼から貰った指輪は貴重品を入れる金庫にしっかりと保管されている。 (マジック……どうして兄さんを殺したりしたの……) そんなことがなかったら自分はもっとマジックを好きになれたかもしれない。そして今頃はマジックの婚約者として幸福な眠りにつけたかもしれない。彼と婚約を交わしたことを後悔することはなかっただろう。 (眠れない……) これからどうするかはっきりしたあてはなかった。ただ、チャンスがあれば喉笛に食らいついてやる。そのぐらいの恨みがビリーにはあった。 マジック総帥の恋人 16 BACK/HOME |