士官学校物語・冬
6
「よく頑張ったね、ジャン君」
 トーマス・トンプソンが、職員室で言った言葉だ。
「最初はどうなるかはらはらしていたものだが――小テストで百点取るまでに成長してくれて嬉しいよ」
「ありがとうございます」
 ジャンは頭を下げた。
「ところで、君は今、暇かね?」
「ええ。どうしてです?」
「いや。わしの部屋に案内しようと思ってね。元物置だからむさ苦しいが、お茶ぐらいはご馳走するよ」
 トンプソンは、ウィンクをした。

 トンプソンの部屋は、別世界だった。
 少し薄暗いが、大きな窓から日の光が差し込んでいるので、あまり気にならない。
 飛行機の骨組、地球儀、世界地図、たくさんの資料や本。どこか高松の部屋に似ている。
 特に、飛行機が気に入った。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの部屋はかくもあろう。そういう風格が漂っていた。尤も、あの偉人の部屋よりは狭過ぎるだろうが。
 ジャンは飛行機に触りたかったが、壊すといけないので、そうしなかった。それに、この室は、眺めているだけでも充分楽しい。
「お茶を淹れてきたんじゃが、飲むかな?」
 ドアを開けて、トンプソンが入ってきた。紅茶の良い香りが、辺りを包む。
「いただきます」
 ジャンは息を吹いてお茶を冷まし、少しずつ嚥下した。
「美味しいですね」
「ありがとう」
 トンプソンがレコードをかけた。クラシックが響く。曲の題名は、ジャンにはわからない。聴いたことはあるような気はするけれど。
 ノックがなされた。
 トンプソンが扉を開ける。高松とサービスだった。
「なんだ、ジャンも来ていたんですか」
 高松は、とぼけたような顔をして言う。
「トンプソン先生に誘われたんだ」
 その途端、サービスと高松の表情が変わった。
「ジャン。トンプソン先生の部屋に呼ばれたことが、どういうことだか知っていますか?」
「え? なんか特別な意味でもあるの?」
「トンプソン先生は、『これは!』と見込みのある生徒を部屋に招くんですよ」
「はっはっはっ、そんな大層なもんじゃない。噂が独り歩きしているんじゃろう。誰でも歓迎するよ。わしは」
(でも、ここに来たのは初めてだ――)
 火のないところに煙は立たず、原因のないところに噂は生まれない。やはり、そういう話があるからには、それなりの理由があるのだろう。
(俺は、トンプソン先生に認めてもらえたんだ)
 そう思うと、甘やかな、誇らしい気持ちが、ジャンの心を捉えた。
「トンプソン先生、こんにちは」
 開けたままの扉から、カワハラが顔を出した。続いてハーレムも。
「いらっしゃい」
 トンプソンが片手を上げる。
「あの……カワハラも、ハーレムも、もしかしてここの常連さん?」
 ジャンが恐る恐る訊く。
「うん。ときどき来るよね」
 カワハラが頷いた。
「おまえに連れられて、仕方なく、だな」
 ハーレムはそう言ったが、もし嫌なら、断固として断るのが、この男の流儀だ。ということは、案外気に入っているのかもしれない。
「そっか。俺は初めて来た。見込みのある生徒しか来れないんだろ?」
「来ることは誰にでもできるよ」
「俺は招待されたんだ」
 少し自慢げに聞こえるかな、と思いつつ、ジャンは言った。
「そう。君、トンプソン先生に認められたんだね」
 カワハラは、気のなさそうに答えた。
「君達も、紅茶はいかがかね? お茶請けもある。大したものではないが」
「はい。いただきます」
「どうせだからご馳走になるか」
 カワハラとハーレムが入ってきても、それほど窮屈には感じない。どころか、まるで宇宙のように、空間が広がって行く感じさえあった。
 こんな綺羅星の如くの時間が持てるなら、毎日でも通いたい、とジャンは思った。
 高松やサービスの部屋も好きだし、自分の部屋ではもちろんくつろげるし、教室は楽しいし――この学校には、不思議がたくさん詰まっているし。
(この時間が、ずっと続けばいいのに――)
 だが、それが無理であることを、ジャンは知っていた。彼には彼の使命がある。
 どんなことがあっても、この学校のことは忘れない。たとえ死んでも。忘れっぽい彼の誓いだった。
 ソネも、士官学校に連れて来たかったなぁ、とジャンは考えた。けれど、あの木の根っこのような足では、この人間社会で生活するには、難があるだろう。親友には違いないが。
(手紙も書けないけど――ソネ。俺は、学校が好きだ。俺のことで、おまえが心配しないといいんだけど)
 ジャンは、テレパシーでも送るように、瞼を閉じた。
 再び目を開けると、サービス達は楽しそうに、トンプソン先生と話していた。
「これを読んでみたまえ。サービス君。高松君は、読んだことあるかね?」
「はい。小学生のときに」
「先生。小説書いたんだけど、読んでくれますか?」
 そう言ったカワハラに対し、
「おうおう。おまえ、よくそんな七面倒くさい趣味を持てるな」
と、ハーレムが茶々を入れた。
「持っておいで。ありがたく読ませてもらおう」
 トンプソンは、柔和な笑顔を見せた。
「ジャン」
 サービスが隣に座った。ジャンはドキッとした。
「どうして、トンプソン先生は、おまえをここに招いたんだい?」
「んーと……漢字の小テストで百点取ったからかな?」
「へぇ、百点ねぇ」
「ジャンが漢字を書いたんですか?!」
 高松が話に割り込んできた。
「なんだよ、高松。今はジャンと話しているんだぞ」
「いや、ね。去年の春は、一、二、三しか書けなかった人ですから」
「そうなんだよ」
 ジャンは明るく笑った。
「笑うなよ。ジャン。馬鹿にされてるんだぞ」
「いやいや。高松に悪気はないよ」
「そう。私は単純にジャンの成長を喜んでいるんですよ。あなたは穿ち過ぎです。サービス」
「日頃の言動からだと、馬鹿にしてるとしか受け取れないんだよ」
 サービスは、苛立たしげに、クッキーを齧った。
 最初は面食らったが、この二人の口喧嘩は、日常茶飯事である。仲が悪いからではない。むしろ、お互いに気を使わないからこそ、できるものである。
(仲がいいほど喧嘩するって、本当なんだな)
「お茶のお代わりはいるかね?」
 トンプソン先生の声に、皆は答えた。
「はいっ!」

士官学校物語・冬 第七話
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