士官学校物語・冬 トーマス・トンプソンが、職員室で言った言葉だ。 「最初はどうなるかはらはらしていたものだが――小テストで百点取るまでに成長してくれて嬉しいよ」 「ありがとうございます」 ジャンは頭を下げた。 「ところで、君は今、暇かね?」 「ええ。どうしてです?」 「いや。わしの部屋に案内しようと思ってね。元物置だからむさ苦しいが、お茶ぐらいはご馳走するよ」 トンプソンは、ウィンクをした。 トンプソンの部屋は、別世界だった。 少し薄暗いが、大きな窓から日の光が差し込んでいるので、あまり気にならない。 飛行機の骨組、地球儀、世界地図、たくさんの資料や本。どこか高松の部屋に似ている。 特に、飛行機が気に入った。 レオナルド・ダ・ヴィンチの部屋はかくもあろう。そういう風格が漂っていた。尤も、あの偉人の部屋よりは狭過ぎるだろうが。 ジャンは飛行機に触りたかったが、壊すといけないので、そうしなかった。それに、この室は、眺めているだけでも充分楽しい。 「お茶を淹れてきたんじゃが、飲むかな?」 ドアを開けて、トンプソンが入ってきた。紅茶の良い香りが、辺りを包む。 「いただきます」 ジャンは息を吹いてお茶を冷まし、少しずつ嚥下した。 「美味しいですね」 「ありがとう」 トンプソンがレコードをかけた。クラシックが響く。曲の題名は、ジャンにはわからない。聴いたことはあるような気はするけれど。 ノックがなされた。 トンプソンが扉を開ける。高松とサービスだった。 「なんだ、ジャンも来ていたんですか」 高松は、とぼけたような顔をして言う。 「トンプソン先生に誘われたんだ」 その途端、サービスと高松の表情が変わった。 「ジャン。トンプソン先生の部屋に呼ばれたことが、どういうことだか知っていますか?」 「え? なんか特別な意味でもあるの?」 「トンプソン先生は、『これは!』と見込みのある生徒を部屋に招くんですよ」 「はっはっはっ、そんな大層なもんじゃない。噂が独り歩きしているんじゃろう。誰でも歓迎するよ。わしは」 (でも、ここに来たのは初めてだ――) 火のないところに煙は立たず、原因のないところに噂は生まれない。やはり、そういう話があるからには、それなりの理由があるのだろう。 (俺は、トンプソン先生に認めてもらえたんだ) そう思うと、甘やかな、誇らしい気持ちが、ジャンの心を捉えた。 「トンプソン先生、こんにちは」 開けたままの扉から、カワハラが顔を出した。続いてハーレムも。 「いらっしゃい」 トンプソンが片手を上げる。 「あの……カワハラも、ハーレムも、もしかしてここの常連さん?」 ジャンが恐る恐る訊く。 「うん。ときどき来るよね」 カワハラが頷いた。 「おまえに連れられて、仕方なく、だな」 ハーレムはそう言ったが、もし嫌なら、断固として断るのが、この男の流儀だ。ということは、案外気に入っているのかもしれない。 「そっか。俺は初めて来た。見込みのある生徒しか来れないんだろ?」 「来ることは誰にでもできるよ」 「俺は招待されたんだ」 少し自慢げに聞こえるかな、と思いつつ、ジャンは言った。 「そう。君、トンプソン先生に認められたんだね」 カワハラは、気のなさそうに答えた。 「君達も、紅茶はいかがかね? お茶請けもある。大したものではないが」 「はい。いただきます」 「どうせだからご馳走になるか」 カワハラとハーレムが入ってきても、それほど窮屈には感じない。どころか、まるで宇宙のように、空間が広がって行く感じさえあった。 こんな綺羅星の如くの時間が持てるなら、毎日でも通いたい、とジャンは思った。 高松やサービスの部屋も好きだし、自分の部屋ではもちろんくつろげるし、教室は楽しいし――この学校には、不思議がたくさん詰まっているし。 (この時間が、ずっと続けばいいのに――) だが、それが無理であることを、ジャンは知っていた。彼には彼の使命がある。 どんなことがあっても、この学校のことは忘れない。たとえ死んでも。忘れっぽい彼の誓いだった。 ソネも、士官学校に連れて来たかったなぁ、とジャンは考えた。けれど、あの木の根っこのような足では、この人間社会で生活するには、難があるだろう。親友には違いないが。 (手紙も書けないけど――ソネ。俺は、学校が好きだ。俺のことで、おまえが心配しないといいんだけど) ジャンは、テレパシーでも送るように、瞼を閉じた。 再び目を開けると、サービス達は楽しそうに、トンプソン先生と話していた。 「これを読んでみたまえ。サービス君。高松君は、読んだことあるかね?」 「はい。小学生のときに」 「先生。小説書いたんだけど、読んでくれますか?」 そう言ったカワハラに対し、 「おうおう。おまえ、よくそんな七面倒くさい趣味を持てるな」 と、ハーレムが茶々を入れた。 「持っておいで。ありがたく読ませてもらおう」 トンプソンは、柔和な笑顔を見せた。 「ジャン」 サービスが隣に座った。ジャンはドキッとした。 「どうして、トンプソン先生は、おまえをここに招いたんだい?」 「んーと……漢字の小テストで百点取ったからかな?」 「へぇ、百点ねぇ」 「ジャンが漢字を書いたんですか?!」 高松が話に割り込んできた。 「なんだよ、高松。今はジャンと話しているんだぞ」 「いや、ね。去年の春は、一、二、三しか書けなかった人ですから」 「そうなんだよ」 ジャンは明るく笑った。 「笑うなよ。ジャン。馬鹿にされてるんだぞ」 「いやいや。高松に悪気はないよ」 「そう。私は単純にジャンの成長を喜んでいるんですよ。あなたは穿ち過ぎです。サービス」 「日頃の言動からだと、馬鹿にしてるとしか受け取れないんだよ」 サービスは、苛立たしげに、クッキーを齧った。 最初は面食らったが、この二人の口喧嘩は、日常茶飯事である。仲が悪いからではない。むしろ、お互いに気を使わないからこそ、できるものである。 (仲がいいほど喧嘩するって、本当なんだな) 「お茶のお代わりはいるかね?」 トンプソン先生の声に、皆は答えた。 「はいっ!」 士官学校物語・冬 第七話 BACK/HOME |