士官学校物語・冬
3
「えー、今までのがサインコサインのおさらいだ。テストに出るから覚えたまえよ、諸君。これからやるタンジェントだが……」
 二ールが、前から三列目の席ですやすやと眠りこけている。隣の席のジャンは、気が気でなかった。
 田葛も、この、勉強大嫌いな生徒の居眠りに気付いて、こめかみに青筋を立てた。
「起きんかーい!」
 田葛のチョークが、ニールの額に命中した。
「……何するんですかー。痛いじゃないすかー」
 ニールが不満そうな声を上げる。
「うるさいッ! 授業中に寝ている方が悪いんだ! 先生の授業は、子守唄じゃないんだぞ!」
「なにーっ?!」
 ――今度は黒板消しが飛んできた。
「いってぇ~。これ以上頭が悪くなったら、どうすんですかー」
「ほうほう。それ以上悪くなりようがあるとは、思わなかったな」
 ジャンは、はらはらしていた。それに気付いた高松が、
「ほっときなさい。日常茶飯事なんだから」
と小声で言った。
「それはそうだけどさー……」
 この喧嘩は、今日に始まったことではない。週に一度は、繰り広げられる光景である。
 でも、ジャンは、ニールももうちょっと素直に授業受けることができたらな、と思っていた。

「ちくしょー。絶対ヒイキしてるよなぁ。田葛のヤツ」
「あなたにですか?」
「んなわけねーだろ。バカヤロ」
 数学の時間が終わって、移動教室のとき、ニールと高松は、ジャン達と一緒に廊下を歩いていた。
 サービスは、また始まった、という顔をした。
 ニールも、最初は高松を毛嫌いしていたが、いつの間にか慣れ合う仲になっていた。酒場の一件以来、そういうところにも出入りするのかと、密かに見直したのである。それ以来、ニールは、高松達の味方だ。先生には内緒のことも、こっそり教えてくれる。
「じゃ、誰が贔屓されてるというんですか?」
「うーん……」
 ニールは、腕を組んで考え込んだ。言った方がいいのか、言わない方がいいのか、迷っている口ぶりである。
「あのな、ちょっといいか?」
 ニールが、ちょいちょい、と他の三人を集めた。
「高松あたりは、知っているかもしれないんだけど――田葛のヤツ、ハーレムが寝てても怒らないんだよな」
 これは、隣のクラスのヤツの証言だけど、と、前置きして、ニールは話し出す。
「総帥の弟だから、遠慮してるんでしょう」
「まぁね、それしか考えられないね。僕は、そんな特別扱い大嫌いだけど」
 高松とサービスが言う。
「いやいや。高松。知らないふりはいけないぞ」
「知らないふり?」
 ジャンが、高松とニールを交互に見渡す。
「あまりコメントしたくありませんねぇ。……そのことに関しては」
「おまえだって、ルーザーにホの字のくせに、今更何かまととぶってんだよ」
「なんだよ」
とジャンが割って入った。 
「……実は、田葛、ハーレムに片思いしてるんだってさ」
「えええええ?!」
 ジャンが大きな声を出す。
「……ニール、冗談なら、もっと面白いこと言わないか」
 サービスは、比較的冷静を保っていたが、口の端の辺りが引きつっている。
「お望み通りのリアクション、ありがとう、ジャン。サービスは初耳だったか?」
 男子校だから、それは、男同士のいろいろな噂も飛び交うが。
 先生の片恋の相手が、あのハーレムだなんて。
 ハーレムが誰かに惚れるのならわかる。一時期カワハラとも話題になった。尤も、それはすぐ立ち消えてしまったが。
 でも、ハーレムが惚れられるなんて――惚れられるなんて――。
 可笑しくなったのか、サービスが声を潜め、向こうを向いて腹を抱えた。
「へーえ、田葛先生がハーレムをねぇ……ちっとも知らなかったなぁ」
 ジャンは意外に思い、少し落ち着いてから、そうコメントした。
「ジャン。もうちょっと驚けよ。さっきみたくさ」
「わり。でも、人の恋に口を挟むのは野暮だよなぁ」
 その台詞がサービスの笑いのツボに入ったのか、彼はまた肩を震わせた。
「俺のダチがね、ハーレムをぼんやり見ている田葛を目撃したんだってさ。それがさぁ……恋する乙女のようだったって」
「た……田葛先生が恋する乙女?」
「私も最初聞いたときはびっくりしたんですけどねぇ」
「俺達、田葛の弱味握っちゃってるんだもんねぇ。それとなく水を向けたら、うろたえたし。うぎゃあ! ホモッ!」
 サービスは笑い止めた。
「――ホモのどこが悪いんだ?」
 ジャンが訊いた。サービスの心を知らぬジャンだが、図らずも、彼の言葉を代弁する形となった。サービスが、ジャンに淡いときめきを抱いたことがあるということなど、ジャン自身は知らない。純粋に疑問に思ったことを言ったまでである。
「だって……田葛とハーレムだぜ。絵になると思うか?」
 それについては、諸説紛々あると思うが、「少なくとも俺はイヤだ」と、ニールははっきり宣言した。
「そうですねぇ……おぞましいですしねぇ」
「それに、何となくえげつない」
と、ニール。
「えげつないはないだろう? 先生とハーレムに失礼だよ」
 ジャンは反駁した。
「ハーレムに惚れる方が悪い」
 サービスは、一刀両断した。
「私も同じ意見です。……でも、まぁ、この辺でやめときましょ。こういった話題自体、えげつない訳だし」
「そうだな。聞いてて楽しい話でもなし」
 高松とサービスの意見を聞いて、
「えーっ?! なんでだよー」
と不服そうに言うニールは、男に恋をしたことのない、幸せな少年であるのか。はたまたゴシップ好きなだけなのか。
 ジャンは、話題を変えようと、もう家庭科の時間だぞ、と皆に教えた。
「いっけね。早く行かなきゃ」
 二ールが腕時計を見た。
 ジャン達は、慌てて、次の時間の教室に向かった。

士官学校物語・冬 第四話
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