士官学校物語・冬
2
(ただ今)
 ジャンは、以前足繁く通い、また、頻繁に訪れるようになった海に、心の中で挨拶をした。
 潮の匂いのする空気に包まれた体が心地よい。
(やはり、ここは、いつ来ても懐かしい。今だって……)
 初めて来た時の感慨を、彼は思いだそうとしていた。
 ここはちっとも変わらない。少し塩辛い味の空気も、波の音も。
 ただ、変わっているのは――。
「アンタ、いいところに連れてってやるってここのことだったんですか?」
 高松の、ちょっと不服そうな声に、
「いいじゃないか。高松。僕は、ここ好きだよ」
 サービスのなだめる声。
 高松は、いつぞや過労で倒れてしまった後、
「少し休養をとって、自分の体調をコントロールしなさい」
と、ルーザーに言われたらしく、それ以降、大抵は時間外労働を避けるようになった。
(それにしても、なんでこんなに懐かしいんだろう……)
 風に髪を嬲られ、ジャンは体が浮くような感じを覚えた。
 そう、これは大昔の――
(大昔?)
 大昔に何があったと云うのだろう。とても気になるのだが、思い出せない。何か思い出があるのだろうか――。
 たとえば、これは前世の記憶というやつか。けれども、ジャンに、前世の記憶などあり得ない。一旦肉体が死んで、生き返ったときの、蘇生する前のその記憶が、前世のものに当たるのだろうか。自分のような、永遠の命を持つ者に、前世と云うものがあれば、だが。肉体の死はただの区切りである。彼は基本的に、不老不死なのだ。
 だから、大昔に、何があったとしても、不思議ではない。
 ただ単に頭に浮かんでこないだけで、死せる者の魂は、ジャンの周りを漂っているのかもしれない。或いは、記憶を持たずとも、転生しているのか。
 サービスも高松も、どこか懐かしい。マジックやハーレムも、「なんとなくこういう奴いたなぁ」とデジャヴを感じてしまうこともある。初対面のときは、全然そんなことは思わなかったのだが。
 彼らにはどこかで会っていて、今でも縁が深いのかもしれない。
 彼らがいない生活を、想像することはできない。どうして、パプワ島では、あんなに孤独に耐えられて、それを幸せだ、と想うことができたのだろう。いや。自分が幸せか不幸せかなんて、考えもしなかった。
 今は――この友人達がいないとだめだ。
 守りたい。この人達を。
 本来、赤の秘石を護る目的で作られたこの自分。これは、マリオネットの造反ではないだろうか。
(けれど――それにしても、想うことだけは許されるはず)
 この感情を持たせたのも、赤の秘石に与えられたのなら。
「ジャン」
 高松が声をかけた。
「何?」
「いえ。ただ、あなたが追憶の中に浸っているような顔をしていたようなので」
「追憶か。当たらずといえども遠からず……かな」
「何考えていたんですか?」
「いやいや、何にも」
「怪しいですねぇ。彼女のことでも考えていたんですか」
 そして、高松は、「おっと、これは下司の勘ぐりでしたかね」と付け加えた。
「高松! そんな下らないこと言うなよ!」
 サービスが声をあらげた。
「冗談ですよ。ムキになって」
 しかし、高松は、にやにや笑いはやめなかった。
「この人がそんなにモテるとは思えませんしね」
「失礼だな。高松」
 ジャンが言った。
「こう見えても、昔は様々な動物にモテたんだぜ」
「動物……ね」
 高松は、呆れた顔で息を吐いた。
「人間もちゃんといたぞ」
「人間?」
 サービスの眉がぴくりと動いた。
「へぇー、どんな人です」
「んーと……忘れた」
「隠さなくてもいいですよ」
「いや、ほんとに忘れたんだって」
 高松とジャンのやり取りを聞いていたサービスの顔が、凄みを増してきた。
「うわぁ……怖い顔してますねぇ、サービス」
「本当だ。どうしたんだろう」
 二人の話を、幸か不幸か、サービスはしっかり聞いていた。
「もう帰るとするか。お先に。ジャンと高松は外泊ということで」
「待ってください、サービス。アンタ、ジャンと私を置いて行って、何しろと言うんですか?」
「高松は研究所に行けばいいんじゃない?」
 ジャンの思いつきに、
「そうか、その手がありましたね」
と、高松も乗り気で答えた。
「わかってないなぁ。僕が、ルーザー兄さんにどれだけ信頼されてるかってことを。『高松が病気だ』と一言いえば、研究所には足を踏み入らせないよ。寮に帰って休みなさいと注意されるのがオチさ」
「あなたは、私の行くところを、悉く狭くしますね」
「あーっ!」
 ジャンがぽんと手を叩いた。
「どうしたんだ? ジャン」
 サービスが特に驚きもせずに訊いた。
「俺、思い出した。確か、ものすごく綺麗な奴が、昔いたんだよ。サービスに似てたなぁ」
「野郎に綺麗と言われても嬉しくない。ほら、もう帰るよ。ジャン。高松」
「あれ? 私達のことは、置いていくつもりじゃなかったんですか」
「真に受けるなよ……ジャンじゃあるまいし」
「――どういう意味だよ」
 そのとき、ジャンがくしゅんとくしゃみをした。
 寒風にさらされたからだ、風邪にやられないうちに、さっさと部屋に帰ろう、とサービスが言った。

 帰りしな、高松が、海辺ではつけなかったペンライトのスイッチを入れた。
 黄色がかった光が、道を淡く照らし出す。
 そこへ、反対方向から来た、それよりも一回り大きい光がよく見知った顔を映す。
 クラスメートのニールだった。
「何やってんだよ。おまえら。点呼に出なかったろ」
「え? まだ十分ほど余裕がありますが」
 高松がニールに腕時計を差し出した。
「その時計、壊れてるんじゃねぇの?」
「そうですかねぇ。しばしば遅れるんですよね。時々メンテはしているんですが」
「とにかく、さっさと戻らないと。田葛がかんかんだぜぇ」
「わかりましたよ。ジャン、サービス、急ぎましょう。怒られたくはないですからね」
「ああ。サービスにも迷惑かけるな」
「心配しなくていいよ、ジャン。ぼくは少し遅くなるって連絡入れておいたから」
 あらかじめ先生に言っておけば、少しはお目溢しを頂けるのである。
 ジャン達が酒場に行っていた件が公になってから、監視の目が光るようになっていたが、海辺で散歩くらいは、許してもらえるはずであった。――先に説明しておけば。
「ねぇ、サービス。私達、友達でしたよね」
「なんだよ、高松。いきなり」
「遅くなるって――伝えたのはアンタ自身のことだけですか?」
「ああ」
「どうして私達の分も許可取ってくださらなかったんですか」
「それぐらい、自分でやれよ」
「もしかして、説教されんの、俺と高松だけ?」
「そうだろうね」
 ジャンと高松は、顔を見合わせてから、サービスに向かって同時に叫んだ。
「裏切り者ッ!」

士官学校物語・冬 第三話
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