士官学校物語・冬 ガラス越しに見える魚の姿は、面白いし、美しい。 特に、熱帯魚は、ジャンの郷愁を誘った。 あの黄色い水色の魚の群れは、パプワ島でもよく見たものだ。 彼は、一度ここに来てみたかったのである。その為にお金を貯めた。幸い、大した額でもなかった。 今、学校は休みである。 客はほとんどいない。 (海を眺めるのも好きだけど、ここの魚達と過ごすのもいいなぁ) そういえば、近頃海を見ていない。 忙しい、と云うのもあるけれど、思い出すこともなくなってしまった。自分の故郷から心が離れてしまったようで、なんとなく寂しい。 (いつの間にか紛れてしまって――ガンマ団士官学校の一員になって……それでいいのだろうか。俺が俺でなくなっていくような気がする) だいぶ寒くなってきたけど、そのうち、サービス、高松を連れて、あの場所に行こうと決心した。 なんせ、彼らとは、K国に一緒に行った仲なのだから。可哀想なランハの生まれ故郷を探って。 (――――?) 気配がする。周りを見る限りでは誰も―― いや、いた。常人にはないオーラを纏って、赤い服の男が近づく。 「やぁ、ジャン君」 「お久しぶりです。マジック総帥」 思わず舌を噛むところだった。こんなに近くに来ていたのに気付かないなんて、彼は気配を消していたのだろうか。いや、そのような様子は感じられない。では、ジャンの勘が鈍くなってしまったのだろうか。 舌が上顎にひっついた。 「そうだね。ちゃんと言葉を交わしたのは、久しぶりか……でも、私はいつも君のことを見ていたよ」 「はっ。ありがとうございます」 礼を言うと、マジックが笑い出した。 「もっと、フランクでいいんだよ」 「はぁ……」 確かに、ジャンは、マジックより年上なのだ。しかし、マジックには、人を支配下に置かずにはいられない何かがあった。そのせいで、ジャンもいつものペースがつかめないでいる。 「なんせ、君は、サービスの親友なんだからね。家にまで来てくれたこともあったんだし」 ジャンは、マジック達の家に行ったことがある。しかし、マジックと二人きりになるのは、これがほとんど初めてではあるまいか。呼びだされたと云うのならともかく、こうやって、プライヴェートな場面で出くわすのは。心の準備ができていなかったジャンは、かちこちに緊張していた。 「どうして、固くなっているのかね」 「い……いえ」 「遠くから見た君は、とてもリラックスしていたね。だから、私も声をかけようと、ここに降りてみたのだが」 (あっ!) そう遠くないところに、鉄でできた階段と廊下があった。そこから、下の様子が一望できる。 (そうか。ここから俺を見てたんだ) しかし、それが何だと云うのだ。今は、番人だって休みたい。 「私はね、君に興味があるんだよ」 不躾とも思われかねない台詞はしかし、マジックが言うと、何でもない、褒め言葉のように聞こえる。彼独特のカリスマのせいだろうか。 「はっ。光栄で……あります!」 マジックは、今度は腹を抱えて笑った。 「いや、気を悪くしないで欲しい……サービスの前では、あんなにくつろいでいる君が、私の前に出ると、まるきり調子が狂うようだからなぁ」 そう言って、マジックは、笑いで目頭に溜まった涙を人差し指で拭いとった。 「その訳は――あなたが一番よく知っているでしょう」 「いやいや。これでも、私はごくごく平凡な男だよ。ささやかな幸せと、温かい家庭を夢見ている、そんな男に過ぎんのだよ」 「家族?」 そう云えば、マジックは、家族はとても大切にしていた。 「君みたいな男が家族にいれば、ますます賑やかになるだろうな」 「今だって、賑やかではありませんか?」 「サービスは、自分の籠から他の籠に飛び移り、ハーレムも、外に出たがっている、と云うのにか? 学校の寮は、彼らと私を繋ぐ最後の砦だよ。ガンマ団に入団すれば、また事情は違ってくるがね。それが、弟達の運命でもあるのだから。しかし、今までのような付き合いは望めまい。私が欲しいのは、いつまでも私と共にある者だよ」 「だけど、どんなに望んでも、家族の形が変わってしまう、と云うことは、あるのではありませんか?」 ジャンが、ひりつく喉を感じながらやっとそれだけを言った。 「私はね、私だけの家族が欲しいのだよ」 タツノオトシゴが、ふよふよと目の前を横切って行った。 マジックがひっそりと、ジャンの隣に立った。 「君が欲しい」 「――――?!」 ジャンは目を見開いた。 「いやいや。変な意味でなく。君のような弟や息子がいたら、どんなに幸せかと思ったんだよ」 ジャンが驚いたのは、それが『可能』だと思ったからであった。 いつまでも年を取らず、マジックの言うことをきく、人形みたいな彼。 マジックが息を引き取る際には、今と寸分たがいもない、若い姿で看取ることができるだろう、彼――ジャンには、可能なのだ。マジックの、理想の家族になることが。 「いやぁ、びっくりさせてしまったかな。済まない」 大して済まなさそうにもなく、マジックが言った。 「それに、家族の候補なら、あてがあるんだ」 (何ッ) ジャンの眉間の動きから、何かを感じ取ったのだろう。マジックは、急に能面のような顔になった。 「君には、それを話さない方がいいみたいだね」 ジャンは、ほっとした。 知れば、その候補を殺さなければならなくなるとも限らない。知らなければ、知らないで通すことができる。 「やっぱり言ってしまおう」 マジックは、どこかで自分の運命を試しているような、そしてそれを興がるような顔になった。 「君と同じ黒い髪を持つ乙女だよ――これでは、君も探しようがあるまい」 なるほど。黒い髪を持つ乙女なんて、ごまんといる。マジックのことだから、行動範囲も広いだろう。 「結婚したら――君のような息子が欲しいな」 あなたの敵ででもですか――そんな言葉が出かかったが、結局飲み込んだ。 自分の運命を賭けにして弄ぶほど、ジャンは命知らずでも、酔狂でもない。 「まぁ、私が花嫁と目している相手は、おいおいわかるとは思うが――彼女に何かしたら、私は君を許さないからね」 「はい……」 「私がふられるという可能性もなきにしもあらずだが」 「そんなことありませんよ!」 ジャンはつい力を込めて言ってしまった。 人をひれ伏せることのできるカリスマ性があり、冷酷さと優しさを同時に持っていて、人間的魅力も存分に備わっている――そんな男に一度でも憧れない女性はいるのであろうか。 「では、私が君にプロポーズすれば、承諾してくれるかい?」 「ご冗談を」 自分のこととなったら話は別だ。ジャンは、一度どして、マジックをそんな目で見たことはない。 「だろう。これは相手あってのことだからな」 「そうですね、確かに」 ジャンは微苦笑した。 「最高の男より、その辺のつまらない男の方がいいと云うこともあるんだよ。――君に言ったのは、冗談だ。気にしないでおくれ」 どこからどこまでですか――そう訊きたかったが、やめにした。深入りはしたくない。 「君のおかげで、楽しい時間を過ごせたよ。ありがとう。これからも、弟達をよろしく」 (弟達と云うのは、ハーレムも入っているんだろうな) ジャンはハーレムを嫌いではなかったが、どちらかと云うと、サービスの方に、親しみを感じていた。何があっても、サービスだけは傷つけたくないと思う。もちろん、事情が許せば、ハーレムのことも大切な友人として、付き合っていきたいと願うのだが。 ルーザーは……あまり接したことはないからよくわからないが。高松の話や、噂だと、とても慈悲深い人だとか、反対に、あんな恐ろしい奴はいない、という意見がある。 ジャンは、初対面の時の微笑みに感じた違和感から、ルーザーを警戒してもし足りない、と云う思いはある。 しかし、ジャン自身が、ハーレムにそう思われていたとは、後々になるまで知ることはなかった。ハーレムが、自分と話すときは、何かに用心しているとは勘付いてはいたが、だんだん仲良くなるにつれて、それも薄れて行った。ハーレムの方も、事情は同じだと思う。 (わかりましたよ。あなたの弟達、俺の方こそ、確かによろしくされました) 我ながら変な文章だなと気付いたが、これは、ただの独白で、国語のテストの問題ではない。 マジックが、ジャンのいる水族館の部屋から出て行こうとする。後ろ姿に、ジャンは一礼した。 マジックは自分だけの家族を持ちたいかもしれないが、ジャンは自分だけの時間が欲しい。赤の秘石に動かされている限り、それは不可能だ。 (マンボウを見てこよう) そう決めると、マンボウの水槽に駆けて行った。 マジックが何故、この水族館にいたのか、ジャンは考えもしなかった。あの男も、総帥という役目から離れて、一人で魚達と向き合いたがっていた、とは。 士官学校物語・冬 第二話 BACK/HOME |