光の中の道
2
「よぉ」
 ノックもせずに。いきなり入ってきた見舞い客を見て、カワハラはにっこり笑った。
「やぁ、ハーレムくん」
「なんだ、おまえ、本当に病人だったのか」
「そうだよ。――誰から聞いたの?」
「高松だ」
「そう」
「あー…高松は、ちゃんと医者やってるか?」
 カワハラは軽く目を見開き、それからくすくす笑い出した。
「面白い言い方をするね。君は。うん。高松くんはよくしてくれているよ」
「なら、いい」
 目の前のカワハラは眼鏡をかけていないところ以外は、記憶の中の彼とあまり違わなかった。
 ハーレムはぐるりを見渡す。オレンジ色のカーペット。高級そうな、金の飾りのついた白いテーブルの上には花瓶。ピンクと白のカーネーションとかすみ草。白い壁にはカレンダーと風景画、それからなんだかわからない図形の書かれた絵。レコーダーとスピーカーまである。これで音楽を聴けるのだろう。クロゼットにバスルームまである。およそ病室らしくない。ハーレムは、ここらあたりは特別室のエリアだったことを思い出した。知らなければ、ここがカワハラの部屋であると言われても信じただろう。
 これは、死に行く者への最後のサーヴィスなのだろうか。それとも――。
(サンプルケース様々か)
 急に苦いものが込み上げてきて、ハーレムは唾を吐きたくなった。が、彼はそうする代わりに、カワハラに向き直って言った。
「おまえは、ここで満足か?」
「え?」
 カワハラは、一瞬何を言われたかわからなかったようだが、すぐに笑って答えた。
「うん。みんな親切にしてくれるしね。それにこんな綺麗で立派な部屋を持つの、初めてだよ」
 人々の善良さを、微塵も疑っていないようなカワハラ。
 ハーレムに、怒りに似た気持ちがさした。
 こいつは嘘をついている。いくらこいつがお人好しでも高松たちに――この病院のスタッフたちに何か思惑があることぐらい見抜けないほど、馬鹿ではないはずだ。
「なんでそんなに笑っていられる。おまえはな――」
(サンプルケースなんだぞ――)そう言おうとして、口を噤んだ。
が、カワハラは頷いてこう言った。
「わかるよ。――わかる、と思う。君の言いたいことは。入院してきた最初の日、高松くんに、『あなたは観察用の動物なんですよ。私はそのつもりで接しますから、忘れないでください』と言われたんだ。驚いたけど、あれだけズバリとはっきり言い切れる人って、なかなかいないだろ? だから、僕は彼を信用する気になったんだ」
「ふん」
 ハーレムは鼻白む思いだった。
 カワハラ、という人間は、時々ハーレムには思いもつかない思考をする。それが何であるかを言えるほど、奴を深く知っちゃあいない、とは思うが。
「おまえには、プライドというもんがないのか。そんなこと言われて、どうして怒らない」
「プライド。あることはあるよ。ただ、プライドと言っても、人それぞれだからね。それに抵触しない限り、僕には怒る理由が無いよ」
 それを聞いて、ハーレムは首を横に振った。
「――で、本当なのか? おまえがそんな不治の病だってことは」
「本当だよ」
 カワハラはあっさり言った。そして、何かハーレムの聞いたことのない言葉を早口で言う。
「え? 何? なんだって?」
「僕の病名。まぁ、こんな名前には、何の意味もないよ」
 カワサキはまたにこっと笑った。ハーレムの中には、なんだか割り切れない、カワハラに対する疑問のようなものがふくらんできた。
「それで、おまえは本当に平気なのか? 高松のようなやつらに、そんな扱いされて。それに――そうだ。おまえは、こんな病気になったことを、『どうして自分だけが』と思わないか?」
「思うよ。すごく思う」
 カワハラの目に、大きい黒い目が、諦めに似た色を帯びた。
「でも、仕方ないじゃないか。そんなことを思ってみたところで。そうである運命を恨んでみたところで。僕は生まれてきたことを後悔なんてしてないし、世界がいつも僕に優しかったことを感謝している。僕はここにいて、生きていることを愛している。この病気になった運命を呪い、否定することは、僕の存在そのものを否定することになるんだよ」
 カワハラの目元が和らいで、まるで女性のような柔和な表情になった。
「さぁ、そんな顔しないでよ。ハーレムくん。そんな顔されると、僕もどうしていいかわからなくなってしまうから」
「俺は、別に――」
「少なくとも、今死ぬわけじゃない。明日はどうなるかわからないけど。でも、みんなそうでしょう? ハーレムくんだって、明日のことはわからないわけだし。――でもね、僕は、死ぬまでは生きていられるんだ、と思うんだ」
 ハーレムは、複雑な気持ちで、まだ少年めいた顔の男を見やった。
 カワハラ。こんな病気になるなどとは、思いもしなかっただろうカワハラ。
 やっと、医者になる、という夢が叶う、と思っていたであろう。人を生かしたい、そんな想いを持っていたカワハラ。彼にとって、未来は光の中にあったであろう。やがて、一人の女性と出会い、結婚して家庭を持つ。彼はきっと浮気などしないに違いない。ずっとその女性を愛し、子供も何人かできるかもしれない。趣味の良い音楽とインテリア。午後の温かいお茶。優しさと慈しみに溢れる家――だが、それらは、今のカワハラから、とても遠いところにあった。
(同情しているのだろうか。俺は――)
 ハーレムは自問した。
 世界は果たしてカワハラに優しかっただろうか。カワハラは戦災孤児という話だったし、通いたくもない学校に――その後その状況から抜け出せたとはいえ――一年も通わなければいけなかった。普通、多少なりとも屈折していてもおかしくはないはずだが、太陽に向かうひまわりのように、いつでもまっすぐでいるカワハラが、ハーレムには理解できない。
 それだけだったら、「世の中変わったヤツもいる」というだけで済んだだろうが、それだけでは片づけられない何かが、彼にはあった。
 カワハラはいつでも直球勝負なのだ。たまに、牽制球やカーブを投げるとはいえ、彼の本領はやはり、ストレートにある。彼の本質は、異様なまでの素直さであったかもしれない。もしふりや誤魔化しがあるのなら、ハーレムは即座に見抜き、それはただただ怒りと蔑みを誘うだけのものであったかもしれない。
(こいつは大馬鹿者だ――)
 その証拠に、怒ることすら知らない。
 彼らはその後も話をした。カワハラが喋って、合間にハーレムが答える、という形でではあったが。
 カーテンがふわりとはためく。窓の外では、太陽がいたずらに輝いていた。

光の中の道 第三話
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