士官学校物語・春
9
「サービス」
 マジックが帰った後だった。
 熱いコーヒーの入った紙コップを二つ携えて、ジャンが戻ってくる。
 自動販売機で買ってきたのだ。
 そのうちひとつを椅子に腰掛けているサービスに渡す。
「これ、昼間のお礼」
「――ありがと」
 ジャンはサービスの隣に座る。
 彼はコーヒーを飲み下す。コーヒーの熱がじんわりと喉に沁み通る。


「マジック総帥に、会っちゃったんだよなぁ。俺」
 脚を組んでいたサービスは、壁に寄っかかるように肘をつき、首をねじ曲げる。
「兄さんも、君のこと、気に入ったみたいだよ。話が合ってたみたいだもの。君、兄さんと友達になれば?」
 まるで、どうでもいいことのように言い、目の前で手をひらひらさせる。
 それをよそにジャンはふと、真顔になった。
「あの人…すごいな」
 ジャンは思った通りのことを口にする。
 彼が出てくるだけで空気が変わり、他の全てが霞んでしまう。 あの時、場の主導権は彼にあり、ジャンにはなかった。
(サービスは、あの人の弟なんだよな)
 改めて、そう考える。
 あの人の弟では、辛かろう。
 たくさんの心ない者が、彼とサービスとを比べて冷酷に評価を下してきただろう。自分の中でだって、ずっと比較してきたのに違いない。
 非凡に過ぎる者を身内に持った者は、感情の上で、その人をどう扱っているのだろう――急に、そのことが気になった。


「昼間のこと、まだ怒ってる?」
 ジャンが言う。
「昼間のこと? なんだい?」
「放課後のことさ」
「――ああ。あれか」
 サービスは、天井の方に視線を泳がせながら、言った。
「まぁ、あの時は……悪かったよ。あんな態度とって、大人げなかった」
「サービス……」
 我知らず、ジャンの唇は動いていた。
「ごめん」
 相手はびっくりしたように体を起こした。
「な…どうしたんだよ、なんでおまえが謝るんだよ」
「わからない。ただ、おまえに謝らなければいけないような気がした。俺は……何にもわからなかったから。おまえのことも、何もかも」
 高松は、あなたが悪いわけじゃない、と言ってくれた。
 けれど、やはり謝るべきは自分だと、ジャンは思った。
 自分が自分であることに、初めて引け目を感じた瞬間。それは理屈ではない。
(許してくれ。サービス。俺は…本当に俺は、何にも知らない。何にも知らないヤツなんだ――)


 その時、妙に間延びした声が聞こえた。
「何やってるんですかぁ、あんたら」


「高松…」
 さっき相談に乗ってくれた級友が、そこにいた。
 どことなくとぼけた口元に、何ともいえない愛嬌すら漂わせて。
 高松は自動販売機に歩み寄った。
 その前でコーヒーとココア、どっちがいいでしょうかねぇ、などとのんきに迷っている。
「決めた。やっぱりココアにしましょう」
 出てきたココアをふうふう言いながら、おいしそうに飲む。
「何しに来たんだ? 高松」
 そう言ったサービスの声は、いつもより苛立っているようだった。
「飲み物買いに来ちゃいけませんか?」
 紙コップに口をつけながら、高松は上目でサービスを見る。
「ジャンがあなたのこと、ずいぶん気にしてましたよ」
「だから、なんだ。おまえには関係ないだろう」
「まぁ、ね。それより、さっさと認めちゃったらどうですか。ジャンを羨ましがってるだけだってこと」
「なん……!」
 今度こそサービスは、我を忘れて立ち上がった。
「少なくとも、私はそう思いますよ。彼には、あなたのように偉大すぎるお兄さんに対するコンプレックスは、ありませんしねぇ」
「高松! 何馬鹿なことを言ってるんだ!」
 サービスが声を荒げる。
「違いますか?」
 問うように高松が言い、サービスの目をじっと見る。
 居たたまれなくなったサービスは、ふいと相手から顔を背けた。
「――帰る」
 彼はロビーを突っ切って、階段へ向かう。
 固い床に、足音だけがやけに高く響いた。


 去っていく金髪を目で追うジャンに、気付いた高松が振り向く。
「サービスが心配ですか?」
 ジャンは、正直に頷く。
「なに、あれぐらい、はっきり言ってやった方がいいんです。彼には」
「――詳しいことはよくわかんないけど、サービスは苦しんでいるんだな」
 高松は、多分ね、と答え、同意を示すようにちょっと肩を揺らす。
 サービスの、さっきのあの様子。
 ずばっと言った高松の台詞は、確かに彼の急所を突いたのだろう。
 恐らく高松も、相手を怒らせることは百も承知だった。
 それは、長い付き合いであり、相手のこともよくわかっているこの友人だから出来ることで、他の者では難しかっただろう。
 ジャンは自分に問うた。俺には、いったい何ができる?
 サービスを助けたい。
 そう、強く思った。
 もしサービスを苦しめているものがあるのなら、一刻も早くその軛から解き放ってやりたい。
(どうして――? あいつは、俺の友人だから。俺が、そう思っているから)
 例え、青の一族でも――?
 ジャンは自問自答した。
 己には、赤の番人としての使命がある。
 だが、この世に苦しんでいていい、不幸であっていい人間など存在しない。
 そう教えてくれたのも、赤の秘石だった。
 赤の秘石は、皆の幸せを望んでいる。
 要は、バランスを崩そうとする青の一族の行為が許せないだけであって、それさえなければ、彼を助けようとした所で、何が悪いだろう。
 それでもこれは、命令違反になるのだろうか。
 どうすれば、いいのだろう。
 こうして出てきた以上、今までのように秘石に訊ねるわけにも行かない。
 自分の道は自分で選ばなくてはならない。彼は今、岐路に立たされていた。
 進むも、退くも、自分次第である。
 成功すれば新たな道が開けるかもしれないが、後悔する羽目に陥る危険もなくはなかった。


「なぁ、高松、どうしたら、サービスを救える?」
 そう訊いたジャンに対する高松の返答は、だが案に相違して、冷ややかなものだった。
「さぁね。――私には彼を手助けするつもりはないですからね」
 相手の返答にジャンは驚き、慌てて相手に詰め寄った。
「ちょっと待てよ。それってずいぶん――冷たいじゃないか」
「そうですよ。私は冷たいんです。それに、私じゃ多分彼の力になれません。私がこれ以上何やかややったら、かえってサービスを追い詰めてしまいますよ」
 高松は、ジャンの肩をぽんと叩いた。
「あなたに任せます。あなたは、私やサービスとは違う。彼の問題は、けっきょく彼が解決する他ないですが、あなたならうまく行けば、彼を導くこともできるかもしれない」
 ジャンの黒い眼は、揺るぎない決意を湛えて光る。
 だが、その裏に不安とためらいの色、迷っている心が見え隠れする。
 どこまでできるかわからない。けれど、俺は、俺のできることだったら、なんだってやりたい。
 そう言っているように己を凝視する視線を受け止め、高松はふっと穏やかに微笑する。
「ま、焦ることはありませんよ。あなたはまだ、何も知らないんですから。さしあたっては彼らについて私が知っていること、一通り話しておきますよ」
 高松は、取り敢えず私の部屋に来てください、とジャンに告げた。


士官学校物語・春 第十話
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