士官学校物語・春 マジックが帰った後だった。 熱いコーヒーの入った紙コップを二つ携えて、ジャンが戻ってくる。 自動販売機で買ってきたのだ。 そのうちひとつを椅子に腰掛けているサービスに渡す。 「これ、昼間のお礼」 「――ありがと」 ジャンはサービスの隣に座る。 彼はコーヒーを飲み下す。コーヒーの熱がじんわりと喉に沁み通る。 「マジック総帥に、会っちゃったんだよなぁ。俺」 脚を組んでいたサービスは、壁に寄っかかるように肘をつき、首をねじ曲げる。 「兄さんも、君のこと、気に入ったみたいだよ。話が合ってたみたいだもの。君、兄さんと友達になれば?」 まるで、どうでもいいことのように言い、目の前で手をひらひらさせる。 それをよそにジャンはふと、真顔になった。 「あの人…すごいな」 ジャンは思った通りのことを口にする。 彼が出てくるだけで空気が変わり、他の全てが霞んでしまう。 あの時、場の主導権は彼にあり、ジャンにはなかった。 (サービスは、あの人の弟なんだよな) 改めて、そう考える。 あの人の弟では、辛かろう。 たくさんの心ない者が、彼とサービスとを比べて冷酷に評価を下してきただろう。自分の中でだって、ずっと比較してきたのに違いない。 非凡に過ぎる者を身内に持った者は、感情の上で、その人をどう扱っているのだろう――急に、そのことが気になった。 「昼間のこと、まだ怒ってる?」 ジャンが言う。 「昼間のこと? なんだい?」 「放課後のことさ」 「――ああ。あれか」 サービスは、天井の方に視線を泳がせながら、言った。 「まぁ、あの時は……悪かったよ。あんな態度とって、大人げなかった」 「サービス……」 我知らず、ジャンの唇は動いていた。 「ごめん」 相手はびっくりしたように体を起こした。 「な…どうしたんだよ、なんでおまえが謝るんだよ」 「わからない。ただ、おまえに謝らなければいけないような気がした。俺は……何にもわからなかったから。おまえのことも、何もかも」 高松は、あなたが悪いわけじゃない、と言ってくれた。 けれど、やはり謝るべきは自分だと、ジャンは思った。 自分が自分であることに、初めて引け目を感じた瞬間。それは理屈ではない。 (許してくれ。サービス。俺は…本当に俺は、何にも知らない。何にも知らないヤツなんだ――) その時、妙に間延びした声が聞こえた。 「何やってるんですかぁ、あんたら」 「高松…」 さっき相談に乗ってくれた級友が、そこにいた。 どことなくとぼけた口元に、何ともいえない愛嬌すら漂わせて。 高松は自動販売機に歩み寄った。 その前でコーヒーとココア、どっちがいいでしょうかねぇ、などとのんきに迷っている。 「決めた。やっぱりココアにしましょう」 出てきたココアをふうふう言いながら、おいしそうに飲む。 「何しに来たんだ? 高松」 そう言ったサービスの声は、いつもより苛立っているようだった。 「飲み物買いに来ちゃいけませんか?」 紙コップに口をつけながら、高松は上目でサービスを見る。 「ジャンがあなたのこと、ずいぶん気にしてましたよ」 「だから、なんだ。おまえには関係ないだろう」 「まぁ、ね。それより、さっさと認めちゃったらどうですか。ジャンを羨ましがってるだけだってこと」 「なん……!」 今度こそサービスは、我を忘れて立ち上がった。 「少なくとも、私はそう思いますよ。彼には、あなたのように偉大すぎるお兄さんに対するコンプレックスは、ありませんしねぇ」 「高松! 何馬鹿なことを言ってるんだ!」 サービスが声を荒げる。 「違いますか?」 問うように高松が言い、サービスの目をじっと見る。 居たたまれなくなったサービスは、ふいと相手から顔を背けた。 「――帰る」 彼はロビーを突っ切って、階段へ向かう。 固い床に、足音だけがやけに高く響いた。 去っていく金髪を目で追うジャンに、気付いた高松が振り向く。 「サービスが心配ですか?」 ジャンは、正直に頷く。 「なに、あれぐらい、はっきり言ってやった方がいいんです。彼には」 「――詳しいことはよくわかんないけど、サービスは苦しんでいるんだな」 高松は、多分ね、と答え、同意を示すようにちょっと肩を揺らす。 サービスの、さっきのあの様子。 ずばっと言った高松の台詞は、確かに彼の急所を突いたのだろう。 恐らく高松も、相手を怒らせることは百も承知だった。 それは、長い付き合いであり、相手のこともよくわかっているこの友人だから出来ることで、他の者では難しかっただろう。 ジャンは自分に問うた。俺には、いったい何ができる? サービスを助けたい。 そう、強く思った。 もしサービスを苦しめているものがあるのなら、一刻も早くその軛から解き放ってやりたい。 (どうして――? あいつは、俺の友人だから。俺が、そう思っているから) 例え、青の一族でも――? ジャンは自問自答した。 己には、赤の番人としての使命がある。 だが、この世に苦しんでいていい、不幸であっていい人間など存在しない。 そう教えてくれたのも、赤の秘石だった。 赤の秘石は、皆の幸せを望んでいる。 要は、バランスを崩そうとする青の一族の行為が許せないだけであって、それさえなければ、彼を助けようとした所で、何が悪いだろう。 それでもこれは、命令違反になるのだろうか。 どうすれば、いいのだろう。 こうして出てきた以上、今までのように秘石に訊ねるわけにも行かない。 自分の道は自分で選ばなくてはならない。彼は今、岐路に立たされていた。 進むも、退くも、自分次第である。 成功すれば新たな道が開けるかもしれないが、後悔する羽目に陥る危険もなくはなかった。 「なぁ、高松、どうしたら、サービスを救える?」 そう訊いたジャンに対する高松の返答は、だが案に相違して、冷ややかなものだった。 「さぁね。――私には彼を手助けするつもりはないですからね」 相手の返答にジャンは驚き、慌てて相手に詰め寄った。 「ちょっと待てよ。それってずいぶん――冷たいじゃないか」 「そうですよ。私は冷たいんです。それに、私じゃ多分彼の力になれません。私がこれ以上何やかややったら、かえってサービスを追い詰めてしまいますよ」 高松は、ジャンの肩をぽんと叩いた。 「あなたに任せます。あなたは、私やサービスとは違う。彼の問題は、けっきょく彼が解決する他ないですが、あなたならうまく行けば、彼を導くこともできるかもしれない」 ジャンの黒い眼は、揺るぎない決意を湛えて光る。 だが、その裏に不安とためらいの色、迷っている心が見え隠れする。 どこまでできるかわからない。けれど、俺は、俺のできることだったら、なんだってやりたい。 そう言っているように己を凝視する視線を受け止め、高松はふっと穏やかに微笑する。 「ま、焦ることはありませんよ。あなたはまだ、何も知らないんですから。さしあたっては彼らについて私が知っていること、一通り話しておきますよ」 高松は、取り敢えず私の部屋に来てください、とジャンに告げた。 士官学校物語・春 第十話 BACK/HOME |