士官学校物語・春 さすがにジャンの心はざわりと波立った。 マジックは一階の、裏口近くのロビーで待っているらしい。部屋に残るという高松に送り出され、ジャンはサービスに従って階段を下りる。 大勢の生徒の一人ではなく、個人としてマジックに向き合うのは初めてである。彼の弟、サービスの友人としてでさえ。 閑散としたロビーには、いやにあかあかと蛍光灯が点いている。赤いビニール張りの椅子が並んでいる。自動販売機の脇にある、シュロの鉢植えのそばに立っている人待ち風情の男以外には、誰もいない。 あれだ。間違いない。 後ろ姿からもわかる、手が入れられ、丹念に整えられた金髪。いつもの総帥服ではなく、珍しく私服のようだ。茶色のスーツ姿である。 「兄さん。連れてきたよ」 サービスの呼びかける声に、男が振り向く。 高く、すっきりとした、形の良い鼻梁。完璧なラインを有する顎の輪郭。何もかも見通すような、深い青を湛えた瞳。まだ若いのだろうが、彼の姿は、威厳と自信に満ち溢れている。 彼が、そうか。 ガンマ団の総帥。青の一族の若き首領。自分がここに来るきっかけとなった男。必要とあらば、いつか倒さねばならない男。 マジック。 「そちらが、ジャン君かい」 サービスの傍らにいる、ジャンに目を止めたマジックが口を開く。低くて深みのある、よく通る声。 「はい…そうです。初めまして――総帥」 「マジックでいい。なに、私はただの父兄だよ。よろしく、ジャン君。会えて嬉しいよ」 固くなっている相手をリラックスさせるように、マジックは、ジャンに向かって軽く微笑んだ。それだけで、何がなし周りの空気がふんわりと暖かくなる。そういった変化をまざまざと感じ取って、ジャンは少し、息を呑む。 「弟が、いつも大変世話になってるようだね」 「そんな、俺の方こそ…」 ジャンは、慌てて言い直す。 「サービス君には、いつもお世話になっています」 マジックは笑顔を絶やさぬまま、ジャンに向かって手を差し出す。握手を求めているのだ。 ジャンは一旦躊躇した後、その手を取った。彼の手は、大きくて力強く、暖かかった。 こんなに近くで、マジックの姿を見たことはなかった。何度か、赤いブレザーを見かけたことはあっても、遠くから警戒の念を込めて眺めていただけで。 だが、緊張も、警戒も、実際の彼の前では、みるみる無力なものに変わっていく。 そこでジャンは、いつの間にかマジックに呑まれかけている自分に気付く。 「この間の土曜、サービスを迎えに行きがてら、君を見てやろうと思ったんだが、仕事の都合で行けなくて、残念だったよ」 ジャンは、はぁ、と気のない返事をする。 「代わりにハーレムが行ってたみたいなんだが、その時、何か君に失礼なことは言ってなかったかね?」 「いいえ」 ハーレムの、自分の意志をそのままぶつけてくるような、強い光を帯びた瞳を思い返しながら、ジャンは答えた。 「別に、特にそういうことはありませんでした」 「そうか。ならいいんだ」 マジックは、ほっとしたようだった。 「何故、そんなことを訊くんです?」 「私の気の回し過ぎだったらしい。あいつも、いろいろ人に誤解されることの多いやつなんでね。それより、急に呼び立てて、済まなかったね」 「いいえ。――そりゃ、正直言って、ちょっとはびっくりしましたが」 「ほう?」 「総帥が、いったい俺に何の用なのかな――と」 「弟の新しい友人に、一度会ってみたい――それが理由には、ならないかね?」 「は、いいえ。立派な理由だと思います」 「友人ね。僕はジャンのことを友人だと言った覚えは、一度もないよ」 肩を聳やかしながら、サービスが横から口を挟む。 「俺は、友達だと思ってるぜ」 ジャンが対抗する。マジックが割って入った。 「その割には、話し振りに熱が籠もっていたようだが――他人には滅多に関心を示さないおまえが。ジャン君、サービスが君のことをどんな風に話したか、知っているかい」 「兄さん。そんなこと、他人にほいほい言わないでくれ」 「話し過ぎるか。悪かった」 マジックは弟に詫び、言葉を続けた。 「ともかく今日、ようやく望みが叶ってこうしてお目にかかれたというわけだ。ジャン君。今さっき会ったばかりでどうかと思うかもしれないが、私は君が気に入ったよ」 「ありがとうございます」 今の今まで冴えない表情だったジャンの顔から、ちらっとはにかんだような笑みが零れた。彼がマジックに与えた第一印象は、悪くなかったと見える。 マジックの言うことは率直で、小気味いい。口にする台詞のひとつひとつが、溢れる自信に裏打ちされている。自分のペースで話を進めているようでいて、何故か強引という感じはしなかった。話を聞いている内にジャンも、彼に対して好感を持つようになっていた。 もともと、人を惹きつけるなにかを持っている男なのかもしれない。なんの先入観も予備知識もなく、道端でこういう私服姿の彼と出会ったら、即座に好印象を抱いただろう。 だが、冷酷非情と噂される裏社会の帝王が、それだけである筈がない。――ないのだが、機嫌の良い時の彼を目の当たりにしていると、なかなか想像されにくい。 ともあれ、敵だと思っていた人間が、個人的には好感を抱き得る相手であることに、ジャンは驚いていた。 「いつか、我々のゲストになっておくれ。――いや、いつかでは、はっきりしないな。そうだな――今週の土曜、ジャン君を呼んでもいいかい? サービス」 「ええ。兄さんさえ良ければ。もともと僕が頼んだことですし」 「では、その日、空けておいてくれるかい? ジャン君。もし、君に特別な予定がなければだが」 「はい。ぜひ、伺います」 「けれど兄さん、仕事の方は大丈夫? 忙しいんでしょう、この頃」 サービスの問いにマジックは頷く。 「なんとかスケジュールの都合をつけるとしよう。どうしても無理な場合は、前もって連絡しておくよ。それじゃ。土曜を楽しみにしているよ」 士官学校物語・春 第九話 BACK/HOME |