士官学校物語・春
6
(一ヶ月――)
 ジャンはぽふ、と芝生に寝転がった。
(この学校に来てから、一ヶ月が経ったんだ)
「はい、ジャン」
 タオルを首に巻いた体操服のサービスが、冷えたスポーツ飲料をジャンの前に差し出した。
「サーンキュッ」
 起き上がってそれを受け取ったジャンは、ぐっと冷たい液体を喉の奥に流す。ごくりと喉を鳴らす彼の姿が、強烈な日差しを逆光にしてシルエットになる。
「旨いっ!ひとっ走りした後には、最高だよな」
 サービスはあははっと笑う。
「今日は珍しく、あいつもいたみたいだな」
 ジャン達より離れた所にハーレムが、講堂にある勇者の像よろしく、腕組みしたまま傲然と立っている。彼はB組だ。彼のクラスとは、週一回の合同体育の日以外、殆ど一緒になることはない。
 高松はいない。あいつのことだから、どこかでサボりを決め込んでいたのだろうと、サービスは言っていた。
「要領がいいからね、あいつは」
 ジャンも、そうなのか、と思い始めていた。
 体操、ランニング、グラウンド五周、1kmロードコース二周、100Mハードル、飛んで、飛んで、また飛んで…と、それらは、しなやかな脚力を持つジャンにとっては至って易々と行われていた。汗はかいている物の、息切れ一つしていない
 とうに、授業時間の終わりを告げる鐘が響いても、もう、次の授業はない。すぐさま校舎に戻って慌ただしく制服に着替える必要もなく、いくらでもゆっくりしていて、構わなかった。

「ジャン。部活、決まった?」
「ん、まだ」
 芝生の短い草を噛みながら、ジャンが答える。ガンマ団士官学校は文武両道を目指していて、学科はもちろん、課外の部活動にも力を入れている。ベースボール部、テニス部、バスケットボール部、陸上部……並外れた運動神経を誇る彼は引く手あまただった。
「思いがけない展開で、文化部に――でも、いいんじゃないか? ここ、掛け持ちも許されてるよ」
「んー……サービスは?」
「僕? 僕もまだ。やりたいことったって、今は別にないしね」
 ジャンは頷いて同意を示した。
 球技も走ることも、勉強も遊びも絵を描くことも歌を歌うことも、彼には何もかもが楽しかった。でも、何が一番やりたいか、と訊かれると、返答に詰まってしまう。
「……射撃」
「え?」
 サービスが訊き返す。
「だから……射撃だよ。そういうの、扱ってるとこって、ない?」
「え、ああ…あるけど……君、射撃得意だったっけ?」
「ううん。その反対」
 ジャンはあっさり答えた。
 一度やればどんなことでもすぐにコツを掴むことのできるジャンが、どうしても手こずっているものの一つだった。
 どんなによく狙ったつもりでも、弾は的を貫かず、いつもどこかに逸れてしまう。
 サービスは、変わったものでも見る目つきになった。
「へぇ。苦手だから選ぶのか。まぁ、苦手なものの方がかえって燃えるっていう気持ちも、わからなくはないけど―――おまえくらいなんでもできると、普通のとこじゃ、飽き足らないのかもな」
 皮肉には聞こえなかった。第一、サービスだってなんでも器用にこなす方だ。しかも、どれをとってもトップクラスの腕前だ。ジャンがそう言うと、サービスは、はにかんでいるような、多少の自負を噛みしめているような表情で答えた。
「もともとは、何もできない方なんだよ。僕はね」
「どこがだい? 頭が良くって、運動もできて、人望もある――なんでもできて、かっこいいって思うぜ」
「実力が僕より上の連中なんて、いくらでもいるさ。僕はね、ジャン。何かをしているとき、気分が浮き立ったり、熱中したり、そういうことを感じたことは、ない。はっきり言って僕は、何かができるというわけでは、ないんだ」
「じゃあ、どうして、あんなに――」
 ジャンが、首を傾げると、サービスは頷いて、答えた。
「できることがないということは、取り立ててどうということもないけど、できないことがある、というのは、イヤなんだ。苦手なことでもさ。何かができないのを、自分にその力がないせいだって、思いたくはないからね」
「それって、どういうことだ? なんでもできるように見せてるってこと?」
 ジャンは、思ったことを口に出す。
「できないことがないように、といった方が、近いかな。事実、そのためにいろいろ努力もしているしね。僕なりに。できないことをひとつひとつ減らすために」
 ジャンは曖昧な表情を敷いた。途端、サービスの目が、芯の強さを押し潜めて、ちかりと光る。
「君はそうじゃない」
 蒼い瞳が、真っ直ぐにジャンを射抜く。
「君は、本当になんだってできる。何をやるときだって、まるで呼吸でもするかのように、当たり前にしてるし、楽しそうだ。オーケー、君にだったら僕も負けを認めてもいいよ」
「おい、おい、サービス――」
「もう行くよ」
 素っ気なく言って立ち上がり、サービスは去ろうとする。
「サービス!」
 ジャンが呼び止めると、相手は「なんだ?」と言いたげに振り向く。特に言うことを決めていなかったジャンは、急にどぎまぎする。
「や、その…えっとさ、どこ行けばよかったっけ…射撃のクラブって」
 そんなことで呼び止めたのか。
 相手の眉がますます吃く顰められる。
(まずった――)
 ジャンは、自分の対応が間違えていたことを悟った。だが、今更どうしようもない。
「射撃場だよ。体育館のそばにあるだろ。他にどこがあるんだい」
 充分に棘を含んだ言葉と声。だが、答えを返してくれただけでも、ジャンにとっては有り難かった。駆けていく背中に向かって、彼は叫んだ。
「ありがとう」

士官学校物語・春 第七話
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