士官学校物語・春
5
「じゃあ、僕、ここで迎えが来るの待ってるから」
 サービスが言う。
 金曜の夜である。彼は、今度の週末は、家に帰って家族と過ごす予定らしい。
「わざわざ迎えに来るなんて。どうせ、歩いて二十分かかるかかからないかのところでしょう」
 ジャンと同じ、見送りであるところの高松が、ひょいと肩をすくめた。彼らには、帰る予定は今のところない。多分、この先もずっと。ジャンは帰れないのだし、高松は帰る気があるのかないのか、そもそも帰る家があるのかどうか、今一つはっきりしない。
「僕もそう思うけど、別にいいじゃないか。せっかく送ってくれるというのだし。断ったら断ったでいろいろうるさいからな」
「やれやれ、相変わらず甘いんですねぇ、総帥は。あなたに」
 ジャンは懐手でぶらぶらしながら植木を眺めている。煉瓦の花壇に植わったツツジだ。そろそろ花を咲かすだろう。
 彼は濃紺のパーカーを羽織っていた。ずいぶん暖かくなったとはいえ、夜になると、まだ結構冷えることがある。おまけに雨が通り過ぎた後だった。路面もまんべんなく濡れ、あちこちに電灯の明かりを受けた水溜まりが光っている。
「見送りはいいから、おまえらもう帰ったら?」
 サービスは二人に言う。
「おや、つれない言いぐさ。けど、我々が目を離した隙に、可愛い弟さんに何かあったりしたら、あなたの怖ーいお兄さん方になんとどやされるか」
「おまえに心配してもらうほど弱くはないよ。伊達に特訓を受けてるわけじゃないって」
 サービスは苦笑を浮かべながら、煩そうに手を振る。
 まぁ、たいていなら敵さんの方が伸びてしまうでしょうがね、と高松。
「サービスがいなくなったら、俺、淋しくなるなぁ」
 それまで黙って二人の会話を聞いていたジャンが、やにわに口を開いた。
 その言葉に嘘はない。この二週間、寮や学校で、何となく三人でいるうちに、あっという間にその状況に慣れてしまっていた。
 サービスがいない間、俺達は、何か物足りないという思いで過ごすことになるだろう、と思うと、今の言葉が口をついて出たのだ。
「そうですねぇ。――そうですよ」
 高松がしみじみと同意する。
「な……なんだよ。大袈裟なやつらだなぁ。どうせすぐに帰ってくるって」
「二日も会えないんですよぉ。少しは別れを惜しむ気持ちとかないんですか?」
「ない。だいたい僕はこんな所で愁嘆場を演じるつもりはないからな」
「相変わらず冷たい人ですねぇ。ジャン、こんな人ほっといて、明日は二人で強く乗り切りましょう」
「ああ。仕方ないな。サービスがああいうんじゃあ」
 そう言って、高松とジャンは手に手を取り合う。
「全く嫌になるなぁ。おまえらと来たら。ああ言えばこう言う――だいたいどこで覚えてきたんだよ。そんな台詞」
 サービスは呆れ顔だ。
「こういうの、学芸会でやったことがあるんですよ。ま、これも冗談ですので、安心してゆっくりしてきてください。なんなら、ずーっと帰って来なくても」
 一転して高松がにっこり笑う。
「ったく、おまえと来た日には――早く迎えが来ないかな。もうこれ以上おまえとくだらない話をするのは、真っ平だよ。――ジャン」
 上がり気味のイントネーションで、サービスが言った。まさか話がこっちに来るとは思わなかったジャンはびっくりし、慌てて向き直る。
「君、僕の家に来たことは一回もなかったよね?」
 ああ、とジャンは素直に頷く。
「そうだな。今日は多分無理だけど、いつか兄さんによんでもらうよ。いい?」
 ジャンが再び頷きかけたとき、ヘッドライトの白い光が彼らを眩く照らした。黒いハイヤーが夜の道路にぬっと浮かび上がり、歩道に横付けになるように、寮の門の前で止まった。後部座席のドアが開いたとき、サービスは軽く目を瞠った。
 後ろで緩く束ねた硬質の髪。夜の闇の底で冴え冴えと澄み渡る蒼い双眸。開襟シャツにベストに仕立てた黒革の上着、同じく黒革のパンツにロングブーツを履いている。今一瞬腕で光ったのは、銀の鎖か何かだろうか。だが、着ている物は問題ではない。どこかで見たことのある目だ、とジャンは思った。それは挑戦的な光を孕んでいる。
「なんだ、何か用なのか? ハーレム。君がわざわざ来るなんて」
 サービスは訝しげに首を傾げた。続いて、兄さんは?と訊く。
「今日はいねぇよ。急に忙しくなって、手が離せねぇんだと」
「そう、それで君が代わりに来たの?」
「まさか」ハーレムは低く嗤った。「わざわざ来てやるほど親切でも、暇でもねぇよ。ただ、ちょいとヤボ用があったんで、ついでに乗っけてもらったまでさ。ところで――」
 今までサービスのそばにいた、ジャンに気付いたハーレムが、車から降りて、大股で近付く。確実に頭一個分は上であろうと思われるジャンに対し、相手は覗き込むようにして言った。
「おまえ、何者だ?」
 多少掠れた、けっして滑らかとはいえない声。だが、その中にもどこか甘さがなくもない。
「俺? 俺はジャン。A組。サービスと同じクラスの」
 間髪を入れず、はっきりとジャンが答えた。相手は曖昧に何度か頷き、顎をさすりながら横を向く。眉間がきつく狭まっている。鼻筋が高い。
「ジャンか。覚えておくぜ」
 振り向きざまに言い残すと、車に乗り込んだ。
「さようなら、ジャン、高松。月曜日にまた」
 別れを告げてからサービスも乗る。発車したハイヤーはみるみるうちに遠ざかっていった。
辺りは急に静かになった。まるでさっき車が見えなくなったのを合図に、何もかもが眠りに就いてしまったみたいに。校庭の噴水だけが、電灯の光を反射するように、水飛沫を上げていた。
 二人になった彼らには、しかし、何も言うことがなかった。風が通りすぎる。底冷えのする空気に触れ、ジャンは体を震わせた。
「帰りましょうか」
 高松は、ぽつんとそれだけ言った。
「なぁ、高松。さっきの――あの人もサービスの兄さん?」
 帰る道すがら、ジャンが訊いた。
「ハーレムのことですか? そうですよ。私がさっき言った、“怖いお兄さん”の筆頭格です」
「かなり年が近いように見えたけど」
「双子ですよ。あの二人」高松がぐっとコートの襟を立てた。吐く息も白い。「一応士官学校に在籍してるはずなんですが、学校じゃあまり見かけませんね」
「ふうん――」
 ジャンは意識の底で、時として何も映し出してはいないんじゃないか、と思わせるサービスの目と、闇夜に負けないくらいの、光と生命とを放っていたハーレムの目とを比較し合わせる。
 どちらにも共通しているのは、奥底に純粋な蒼を湛えた瞳。
(似てないけど、似ている)
 青の一族というからには、またどこかで会うことになるだろう。ジャンは、彼の名前を心の端に留めておいた。

士官学校物語・春 第六話
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