士官学校物語・春
14

 ぺったぺったぺった――
 病院の廊下にとぼけたスリッパの足音が一つ。
「あれ。高松じゃん」
「こんにちは」
 花束を抱えた高松が、ジャンとサービスに向かって愛想の良い笑みを浮かべた。彼も見舞いにやってきたのだろう。
「意外だなぁ。おまえがハーレムの見舞いに来るなんて」
 なにか企んでいるんじゃないか。
 滅多にない、高松の、普通の人がするような笑顔を見てそう考え、後ずさったサービスが云った。
「そうですかぁ。別に普通でしょ。何も不倶戴天の敵というわけじゃあるまいし」
「それはそうだが――僕はずっと君とハーレムは仲が悪いものだと思ってたよ」
「意見の合うことが少ないだけですよ。病室どこですか?」
「そこ」
 ジャンはネームプレートの入ったクリーム色のドアを指さす。
「ありがとう」
 高松がドアをノックしようとした時だった。
「ちょっと待て。高松、おまえ何か知ってるだろう」
 今まで腕を組み、壁に寄りかかって立っていたサービスは、じろりとこの食えない級友を見遣る。
「な、なんですか、唐突に」
「いいから吐け。おまえ、何か隠してることがあるんじゃないのか」
「何を根拠にそんな……」
「僕の勘だ」
 サービスは蒼い目をひたと相手に向けた。自分の確信を微塵も疑ってない様子だ。
「何にも隠してないって云ったら、どうします?」
「そりゃ、おまえなら、そう云うだろうな」
 高松は大きく溜息をついたが、やがて云った。
「確かにね――」
「ほら。怒らないからお兄さんに話してご覧」
「誰ですか。お兄さんて――」
「僕」
「たった一月早く生まれたからって、何を威張ってるんですか……」
 ぶつくさ云いながらも、高松は話し始めた。
「実は、土曜日の夜、私、ハーレムに会ってるんですよ。あの――ハーレムが刺されたという酒場のある横丁でね」
 土曜日の夜――というと、ジャン達がマジック邸に遊びに行っていた晩のことである。
「会ったのか? 見かけただけでなく?」
「ええ」
「おまえ、あの辺りを歩いてたのか? 危ないじゃないか」
「ちゃんと歩き方があるんですよ。まぁ、素人はうろうろしない方が賢明ですがね」
「自分は素人でないつもりか。それに、なんでそんなとこにいたんだ? 大人しく研究してたんじゃなかったのか?」
「あんまりひとのプライバシーを聞きほじくるもんじゃないですよ」
「まぁいい――それで、あいつ、その時なんて云ってた?」
「別に。ああ、そうそう。『俺がここにいること、絶対に兄貴達には喋るなよ』って」
「なんでだろうな」
「さあ……そこまでは訊いてませんでしたから。ハーレム絡みのゴタゴタに興味があるわけでもないし。あの人は根っからのトラブルメーカーですし」
「ふぅん。なんでだろうな。みんな心配してたのに。特にルーザー兄さんが『捜索隊を呼ぶ』なんて――」
「ルーザー様にまで心配かけてたんですか?あの人。そうと知ってれば、本人の意向なんてお構いなしに、さっさと連絡したものを」
「待ってよ。おまえの云ってること、矛盾してないか?」
「どこがです」
「えーと……つまりだな。おまえの話は、ハーレム自体はどうなってもいいけど、ルーザー兄さんに心配かけるのは許せない、って云ってるように聞こえるんだけど」
「それのどこが矛盾ですか」
「じゃあなんで見舞いなんか来たんだ? まさかルーザー兄さんに会えるからなんていう理由じゃあるまいな」
「ルーザー様、いるかどうかわからないでしょう。お暇な方じゃないんだから」
「ならなんで来た?」
「あんなことがあって、さすがにハーレムも気の毒だと思ったから」
 サービスはしばらく頭を降りやったり、天井に視線をやったりしていたが、やがて諦めたように両手を上げた。
「……やめよう。おまえと話してると、頭がこんぐらがる」
「勝手にこんぐらがっているのはそっちでしょうが」
 金属扉の重い音を響かせてドアを開き、振り向いて自分の肩越しにサービスは云う。
「ルーザー兄さんは、いるよ。僕らよりぴんぴんしてるとはいえ、怪我人を放っておくほど、薄情な人じゃないからね。満足だろう」
「まさか、つきっきりで看病してるんじゃないでしょうね」
 少し、嫉妬の響きに似たものが混じっていた。サービスは、笑った。
「そこまで暇な人じゃないよ」

「こいつに個室はもったいないよ。大部屋で充分だったんだ」
「みたいですねぇ」
 呆れ顔でサービスと高松は、互いの顔を見遣る。果物籠を抱えたジャンが、後ろ手で扉を閉めた。
「だから、もうすっかり良くなったって云ってるだろ。もういい加減動き出さねぇと体がなまっちまう」
「――気持ちはわかるけど、もう少しの間大人しくしていてくれよ。あの日、君どんな状態だったか、自分で知ってるのかい?」
 ルーザーはおろおろしながら、エネルギーと暇を持て余しているハーレムをなだめすかしている。それは、なんだかピーピー腹を空かして鳴いてる雛に餌を持ってくることのできなかった親鳥の様子に似ていた。
「あ」
 ハーレムは扉の前の三人に気が付いて、乱れた髪を耳に引っかける。
「よう。来てたのか。おまえら」
 殊更陽気に声を張り上げる。
 ルーザーがガタンと椅子から立ち上がりかける。
「ああ。ジャン君……だね。残念ながら入れ違いだったよ。――さっきまで兄さんがここにいたんだけど。兄さん、君に会いたがってたよ」
 ルーザーが陽の光に溶けそうな笑みを浮かべた。
「総帥、ジャンのこと気に入ったみたいですねぇ」
 高松とサービスは、ジャンに視線を向けた。
「ああ――うん」
 何かくすぐったい感じが、ジャンにはした。
「後で総帥によろしくお伝えください。それから――これはハーレムに」
 ジャンは果物籠を、高松は持ってきた花束をそれぞれ渡した。
「わりぃな」
 ハーレムは照れくさそうに笑った。自分を欺かず、正直な反応を返してくる。特に、打算や損得抜きに向けられた感情には、驚くほど素直だ。
「よぉし! 折角貰ったもんだ。早速食おうぜ。おまえらも食ってけよ、な」
「じゃ、僕が切ってあげる。何がいい?」
 ルーザーがテーブルの引き出しから皮の鞘に収まった果物ナイフを取り出す。ハーレムはにやっと笑って答えた。
「バナナ」
「そうかそうか。高松、ハーレムはバナナがいいそうだから、メロンは僕達だけで食べちゃおうね」
 ルーザーも負けてはいない。
「ああっ、ちょっと待て~」
「いち、に、さん、し……四人だからたっぷり食べられるね」
「兄貴、俺も勘定に入れろ。五人だろ~」
「兄さん。僕、花飾ってくるね」
 サービスが、高松の持ってきた花束と、今までドライフラワーの入っていた花瓶を携えて部屋を出た。「ずいぶん立派な花束だなぁ」と呟きながら。
 今まさに扉をくぐらんとする、淡い蜜色の髪。その後ろ姿が、ジャンには眩しく見えた。

(良かった、本当に。良かった――彼が無事で)
 青の一族――ジャン達にとっては、敵ですらある。だが、この時ジャンは、ハーレムの無事を喜ぶ気持ちの方が大きかった。
「ばぁか。なに泣いてんだよッ」 
「え? 泣いてなんかないよ。目にゴミが入ったんだ」
 ジャンと周りとを隔てていたガラスの仕切が、穏やかな微風と共に取っ払われた。
 この風景は今までと同じで、そして明らかに今までとは違う。光に満ちた幸せな肖像、いつか見た写真と同じ。この風景には彼――ジャンがいる。穏やかな幸せは、彼のためにもあったのだ。
 己を呼ぶ声。己に差し伸べられる手。己を必要としてくれる者達がいる。
 ジャンの周囲を取り巻く者。彼を嫌う者も好いてくれる者も、皆彼を見、彼を感じ、彼の実在を信じている。
 なにも選ばず、誰にも干渉せず、なにも変えることなく―――それはある種理想ではある。が、同時に無責任でもある。この世界で生きている限り、絶えずその存在は小さな変化をもたらす。そのことに、責任を負わねばならない。生きていること自体に、責任を持たねばならないだろう。
 今まで観客席で傍観していたジャンは、いつの間にか舞台に引っぱり出されようとしていた。人は皆、それぞれの踊りをそれぞれの舞台で踊り続けている。ある時は観客にもなろう。だが、舞台に立とうとせず、観ているだけというのは―――それで、自分の道を歩んでいると云えるだろうか。 
 この日、ジャンは静かな決意をした。許される限り、ここに居よう――と。
 たとえ、そのことが、どんな影響を自分や周りに及ぼそうと、自分は決してそこから逃げない。全て受け止めてみせよう、と。
風はそよぎ、カーテンがはためき、光の筋が射し込む窓。光の当たる部屋。
 己の居るべき場所。ここは仮の住まいで、いつかは離れなければならないとしても――
(今しばらくは――俺はここにいてもいいですか)
 ジャンは自分に問い、頬を一筋伝った涙を、そっとぬぐった。



士官学校物語・春 後書き
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