士官学校物語・春 ハーレムはそのままずるりと壁に凭れかかる。 切られた腕が、熱くて堪らない。白い壁に血の痕がべったりと付いた。 とめどなく溢れる血が、彼の腕を伝い落ちていく。出血の量の意外な多さに驚いたハーレムは、思わず傷口に手をやった。 「……ぐっ、ああっ」 掌がたちまち朱に染まる。痛さに思わず呻き声が洩れた。 額に汗の珠を浮かべ、反抗の意志を剥き出しにして、懸命に敵を睨み付けているが、その顔からはどんどん血の気が失せていった。 「ハーレム!」 ようやく駆けつけたジャンは、真っ直ぐハーレムの所へ向かう。 だが、手は貸さなかった――貸せなかった。なんとなく、そうするのが憚られる雰囲気があったからだ。 男達はにやにや笑いながらその様子を眺めている。 「どおれっ! もういっちょう――」 赤い眼をした男が哄笑を上げる。血を吸ったナイフが、凶暴にぎらりときらめく。それは相手を殺さんと狙う獰猛な肉食獣の牙を思わせた。 ジャンの中で、何かがぴしり、と亀裂を生じた。 ジャンはゆっくりと振り向き、ハーレムに怪我を負わせた張本人達を、きっと睨め付けた。 「なんだぁ。この黒髪のあんちゃん」 「きっとヤツのダチだぜ」 「よぉし。一緒にかわいがってやるぜ」 相手はナイフを大上段に振りかざし、ジャンを斬りつけようとする。ジャンは素早く男の手首を掴み、力一杯捻り上げた。 「ううっ……」 絞り出されたような、声にならぬ声。男はナイフを取り落とす。ナイフはアスファルトに当たって、チャリーンと乾いた音を立てた。 「ふざけた真似しやがって!」 そう叫んで脇から襲いかかって来た男には、みぞおちに拳を叩きつける。深々と拳を打ち込まれ、瞬間、息が止まるような衝撃を受けた男の体は海老のように丸まり、そのまましばらく、立ち直ることはできなかった。 少し強過ぎたかもしれない。訓練以外で格闘をするのは初めてなのに加え、怒りで力の加減があまりきかないのだ。そして彼は、教官も折り紙をつける程の強さの持ち主であった。 男達がハーレムのことを忘れ、ジャンに対する敵意を露わにし始めた頃だった。 ――ドウッ! 今まで彼らが背にしていた壁に、突如バスケットボール大の穴が開いた。穴は黒く焼け焦げ、ぷす、ぷす、とかすかに煙を立てている。 男達の脇を、光の球が掠めていったのだ。 ジャンへの攻撃欲も、急速に冷めていったらしい。呆然と目を瞠ったまま、そこに突っ立っていた男達に、静かな声でハーレムは云った。 「今のうちに消えな。殺されたくなかったらな」 特別な激しさのない分だけ、迫力のある怒りだった。 男達はそろりと後ずさり、やがて逃げるように立ち去っていった。 ハーレムは荒く息を吐いて壁に凭れるように座り込む。 「ちっきしょう。あんな奴ら、一人で追っ払えたものを―――」 「この傷じゃ無理だよ」 焦げ臭い空気に、鉄の匂いが混じった。 ジャンがいたわるように訊く。 「大丈夫か?」 「くたばるにはまだまだ間があるぜ――くそ、血が止まんねぇな」 ハーレムはポケットからハンカチを取り出す。幸い大判型だ。自分で傷口に当て、腕に巻き付けて結ぼうとしたが、なかなかうまくいかないようだ。 「貸して。俺がやる」 外れないように、きつめに縛ってやる。ペイズリー柄が、みるみる赤く染まった。 「こんなもんかな」 「――わりぃな」 そう云いながらもハーレムは、胡散臭げにジャンを見ている。 蒼い双眼。傷ついてなお、燃え盛る生命の炎を宿す瞳。 こいつは、狼の眼だ、とジャンは思った。人間の中にも、こんな眼をしたやつにお目にかかれるなんて、思いもよらなかった。ジャンは、わくわくするのを抑えきれなかった。 狼――島にも一匹いた。 しなやかな毛皮を持つ、美しい狼だった。後脚に小枝を引っかけて傷を負ったその獣を、ジャンが発見した。怪我が治るまでの間、看病したジャンに最後まで懐かなかった。やがて、森に帰っていったのだ。 ハーレムは、自分で指圧止血を始めた。 救急車を呼ぼうと、ジャンが動き始めたときだった。 「訊きたいことがあるんだが――」 ハーレムが唇を湿しながら云った。 「おまえ、どうしてあそこでタイミング良く――いや、悪くかな?――現れたんだ?」 「声が聞こえたんだ。あんたの」 「俺の?」 「ああ。悲鳴に似てた」 「悲鳴なんざあげた覚えないぜ」 「とにかく俺は、行かなけりゃ、と思ったんだ」 ハーレムは、くっと肩を揺すって笑った。束ねられた硬い黄金の髪が揺れる。 「おまえって――変なヤツだな」 「変?」 いささか気を悪くして、ジャンは訊き返した。確かに彼は、周りとは、何かが、どこかでずれているのかもしれない。――それにしても、変とは! 「…………」 ハーレムの表情が、変わった。心の奥底から、相手を覗いているような表情だ。 (ほらほら。なんてドジなヤツなんだ、おまえさんは) 唐突に、故郷の友人、ソネの言葉が甦る。 (なぁ……本当に、俺がいなきゃどうしようもないんだからな。おまえは……) ジャンの眉根が微かに寄った。 似ている。そう云った時のソネの表情に。 本当にしょうがないなと思いつつ、どこか、見守っているような暖かさを含んだ目。 その他、ハーレムには、相手がどんな人間かを見極めようとする様子があったのだが。 彼らの間に、暖かい、静かな空気が流れた。二人とも、何も言わなかった。言葉を発さなくても、構わなかったのだ。 だが、それは長くは続かなかった。出血から来る貧血のためか、目眩を感じたハーレムがぐらりと前につんのめったからだ。 それを支えるようにして、ジャンが云う。 「――大丈夫か?」 「ああ」 ハーレムの額には、びっしりと汗の珠が張り付いている。止まらなかった血が、道路に血溜まりを作っていた。 「とにかく、救急車を呼ぼう。その後、家に連絡しよう――あっ」 ハーレムがジャンの手を、はたくように振りほどいた。 戸惑っているジャンに、ハーレムは、普段より数段掠れた声で云った。 「余計な真似は、するな……」 怒鳴ったつもりなのだろうが、いつもの声の張りがない。 本当は、動かない方がいいというのに――。 (ハーレム――俺のせいだ) あんな所で、不用意に大声を上げなかったら、ハーレムも気をとられることなどなく――そうだ。危険を知らせるには、他に何か、もっと手はあったかもしれないのに。 (全く……馬鹿な俺。引っかき回すだけ引っかき回して。俺が首を突っ込んだことは、何もかもうまくいかない。俺がそうしたばっかりに――) 「すまない。ハーレム。おまえが受けた傷は、俺の責任だ。あそこで声をあげなかったら――」 「――ばぁか。誰も、謝れなんて云ってねぇだろうが」 ハーレムが苛ついた声を出す。 “変なヤツ”の次は、“馬鹿”か。相手の憎まれ口に、ジャンは苦笑した。怒る気にはなれなかった。 「――こんな所にいてもあれだな。救急車呼ぶまで、ここで待っててくれる?」 「このぐらい、平気だ……」 ハーレムは立ち上がろうとする。辛そうだ。 ジャンは相手の体を支えてやった。 「ちっきしょう。こんな傷さえなければ、てめぇなんぞに――」 「もういい。喋るな」 ジャンがぶっきらぼうに遮った。 「どうしたんだよ、ジャン。急に血相変えて――」 後から駆けつけてきたサービスはぎょっとした。 「ハーレム――」 「手を貸してくれないか。サービス。こいつ、腕に怪我を負ってるんだ――」 ジャンが訴えた。 その後の経過をざっと説明すると―― ジャンは表通りに出て、救急車を呼んだ。ハーレムはすぐさま病院に連れていかれた。 サービスが家に連絡をして、マジック達に事の次第を、ジャンが話した範囲で伝えた。 以下は後日談――。 士官学校物語・春 第十四話 BACK/HOME |