士官学校物語・春
12
 ヘッドライトの光が交錯する。
 河のように流れる車の群をジャンはちらりと見遣った。
 最初のうちはいちいち面食らっていたが、慣れてしまえばそう驚く程のことでもない。ネオンサインの灯りを眺め、しみじみと夜の街に見惚れる心の余裕が、彼にも出てきていた。
 ジャンが一人で歩くことはもう少なくなっている。彼のそばには、いつも誰かがいた。学校でも友人が多い。
 今、彼の隣で歩いているのは、サービスである。
「明日、学校まで送っていってあげよう」
というマジックの申し出を断り、ジャンと一緒に歩いて寮に帰る方を選んだ。やはりマジックは、この末弟に甘いらしい。
(高松は、もう寮に帰っているだろうか)
 高松は昨日、ジャンと一緒に総帥邸には、行かなかったのだ。
「高松君、今回は来てないのね」
 ルーザーが、サービスにそう言っていた。サービスが新しい友人を連れて来たのだ。当然、高松も来るものと思っていたらしい。
 ジャンはもちろん、総帥邸に行く旨を前もって高松に話してある。
 高松は直接招かれたわけではない。だが、遊びに行こうと思えばいつでも行ける立場だろう。あらかじめ、サービスにほんの二、三言、伝えてもらうだけで済む。
 来なかったのは、来年一月に提出する、論文のための研究にとりかかるため――それが一番大きな理由だろうが、サービスに対する遠慮も少し、手伝ったのかもしれない。
「ジャン」
 しばらく歩いていた無言で歩いていた二人だった。その沈黙を破るように、サービスが口を開く。
「この間高松に言われたこと、自分なりに考えてみたんだけど――確かに僕は、あいつのいう通り、おまえのことが羨ましかったのかもしれない。僕はおまえと違い、今までああいう風に、育ってきたのだから――」
 ここまで喋って、サービスはふと、ジャンの様子を窺った。
「ジャン?」
 ジャンの表情が、いつになく硬くなる。警戒が顔中に漲っている。戦闘態勢に入っていると言っても、おかしくない。
 それは、耳の聡いジャンにしか聞こえなかっただろう。雑踏にまぎれて耳に飛び込んできた、微かな、異質な音。
 それは悲鳴に似ていた。
 何より、この声は――どこかで聞いたことがある!
 頭で何を思うより早く、ジャンはやにわに駆け出していた。
「ジャン、どこへ行くんだ」
 サービスに呼び止められ、ジャンは我に帰る。
「サービス―――ごめん。俺、行かなきゃ」
 そう言い残し、彼は再び、その場を離れた。
「ジャン!」


 行かなければ。
 行かなければ。
 どこに?
 何のために?
 早くなる鼓動に合わせて自問自答しながら、人ごみの中を突っ切って、ジャンは進む。
 夜の繁華街は人が多い。
 雑多な空気。いろんな匂い。いろんな音。――そして人。殆ど無意識に、ジャンはすいすいと障害物を避けて走った。破れたちらしをくしゃりとシューズで踏んで通り過ぎる。
 あっという間に大通りから外れ、深閑とした場所に出る。こちらはうってかわって、不気味なほど静かだ。犬がウォウォ、と吠える声だけが響く。
 あっちだ――
 本能に命じられるまま、角を曲がって横丁に入る。
 柄の悪いことで有名で、士官学校の生徒達ですら、入るのをちょっとためらう場所だった。
 ジャンはそんなことなど知りもしなかったが、そこに足を踏み入れた瞬間、闇が一段と濃さを増したように感じられた。
 うらぶれた店や下宿が軒を並べている。灯りも、全くといっていい程なかった。せいぜい電灯が道の脇にぽつんぽつんとあるくらいで。
 夜なのに、光の洪水に溢れていたメインストリートと比べて、ここはなんて淋しい所だろう。
 いるとしたら、ここらへん。
 ジャンはきょろきょろと辺りを見渡す。
 いた。
 ジャンの視線が真っ直ぐ伸びた先。
 ジャンの目には、まるで豆粒のように映る男達。
 三人の屈強な男達に取り囲まれようとしている、鮮やかな金の髪の若者。その様子はまるで、狩りの獲物か、罠にかかって反抗を試みる獣か。
 古ぼけ、くすんだ壁。閉まった酒場の扉の前。電灯が冷ややかに彼らを照らしている。
 ここに辿り着く前から、既に、ジャンの頭の中で再現されていた光景である。
 ジャンは走り続ける。細かい所までまざまざと掴めるのに、実際の彼らは、何と遠くに離れているのだろう。
 足が急に重くなる。周りの時間の進みが、途端に遅くなった。何かわけのわからないものに足を取られているようだ。ジャンはもどかしく思った。
 真ん中の男が若者に殴りかかる。
 若者はいちはやく見切って体をかわし、拳は空しく空を切る。
(あっ!)
 ジャンは息を呑んだ。
 後ろに控えている男が、ポケットからナイフを取り出す。最初に殴りかかった男は、囮だったのだ。
 鈍く光を反射する、銀色の刃。その動きは、まるでスローモーションでも見ているようだった。
 盲点になっているのか、狙われている当の相手は気付いた様子もなく、今も男の攻撃をからかうようにかわし続けている。
 細い刃身が、さっきの男のパンチを軽々と避けた若者を狙う。
 ―――間に合わない!
「ハーレム!」
 ジャンは思わず叫んでいた。
 ハーレムはこちらを向き、驚愕したように目を瞠る。彼の一瞬動きが止まる。
 彼に隙が出来た。その隙を、男は逃さなかった。
 ナイフは間隙を縫って攻撃を仕掛けてくる。鋭い刃が白く輝いた。
 ハーレムは咄嗟に身体を反転させたが、完全にはかわし損ねた。勢いあまって、彼はダァン!と壁にうちつけられる。
 ―――袖のない黒革の繋ぎから露わになっていた、腕の皮膚は切り裂かれていた。


士官学校物語・春 第十三話
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