士官学校物語・春
1
『用意はいいですね。ジャン』
「――はい」
 ジャン、と呼ばれた青年は、いつになく神妙な面持ちで頷いた。
 薄暗い洞窟の中、並々ならぬ緊迫感が漂い、七色に変わる光の球が、その中心で回り続けている。細かく光を放射しながら、宙に浮いて。
 ジャンは微かに目を細めながら、それを眺めている。
 すぐ真下、岩の台座の上に鎮座している赤の秘石に目を移す。強烈的な光の影にあるせいか、必然的に薄暗がりになっている岩の上で、秘石は謎めいた鈍い輝きを放っている。その様子はまるで彼に、心の準備を促しているようである。
 ジャンは汗をかいている掌を握りしめた。覚悟を決めたように、真正面を向いて眉間に皺を寄せ、唇を引き締める。
(大丈夫だ。すぐにここに帰ってこられる。大丈夫だ)
 ジャンはしばし瞼を閉じ、思い返す。長い間、相棒も同然だったソネ。森に隠れて過ごしている彼に、不便のないようにと、何くれとなく世話をしてくれた長老。今まで支えてくれたヨッパライダー。
 すぐに――またすぐに会える。数年か、十数年か、はたまた、ひょっとすると数十年かかるかもしれないが――。だが、そのぐらいの時間なら、永遠を生きている赤の番人、ジャンにとっては“すぐ”である。
「では、行って来ます」
 彼はそう言って、一歩、また一歩と歩を進め、やがて、光の球に吸い込まれていった。光の球は、一際大きく、眩く白く輝くと、段々と小さくなって消えていった。
『行ってらっしゃい。ジャン』
 洞窟には、いつもの闇と沈黙が訪れていた。秘石は虚空に呟くと、再び沈黙にかえった。

 めまいがする――。
 どこへ行っても足場がない。無重力の恐怖。
 光の作る幻が、形を変えて襲いかかってくる。やがて自分自身の形すら、判然としなくなる。
 叫びだしたくても、叫び出せない。声が出ない。
 何かの力に押し出され、大気の中に出た。
「う……うわああああああぁぁぁ――!!」
 やっと声が出せるようになったと思ったら――空中から真っ逆様に落ちていった。


 虫が、鳴いている。
 草むらの中に、彼は、落ちていた。
「……はぁ」
 ジャンは頭を振りながら起き上がる。髪にくっついた土くれがぱらぱらと落ちた。
「むちゃくちゃしやがって……心臓に悪いぜ、こりゃ」
 だが、使い心地はともかく、一瞬にして遠くに飛べることは確かなようだった。海の向こうまでも。
(この格好で良かったかな)
 ジャンの格好は、無地のTシャツに紺のパーカー、深緑のジーンズ。黒のバスケットシューズ。必要な物の入ったボストンバックを肩で背負っている。秘石から渡された、紙幣や小銭の入った財布もある。
 周囲には誰もいないようだ。もし出てきた所を誰かに見られていたら、一巻の終わりである。
 ジャンは歩き出した。どこをどう行ったらいいのかわからないが、とにかく人のいる所に出られたら、なんとかなるだろう。
(島ではまだ、昼なのに――)
 ジャンはきょろきょろと辺りを見回し、木の枝を払いながらくぐり抜けていく。
 濃藍の夜空には、半分欠けた月が出ていた。星は見えない。
(これが時差というやつか。……着くのは夜の方が、目立ちにくいからな。――よっと)
 林を抜けて道路に出た。
 夜道に一人は退屈だからと、口笛を吹き、歌を歌いながら、コンクリートの道を足音高く歩く。そのうち気分がのってきて、歩き方を変えてみたり、スキップしてみたり。満月でないのが不満だが、月光浴としゃれこむつもりになった。
「うわっ!」
 クラクションを鳴らしながら、いかつい外装の車がジャンの前を通り過ぎていく。ジャンは慌てて飛びずさる。もう少しでひかれる所だった。
 彼は走り去った車の後を見送った。
(危ない危ない。――そっか。ああいうのもあったんだっけ)
 人間達の世界の知識は、島にいた時、赤の秘石から教わった。とにかく、島とは何もかもが違い過ぎる。
 彼は、あの車が行ったと思われる道を行こうと考えた。この何もない山道から抜け出すには、それが一番手っ取り早そうだったからだ。


「すごいなー、こりゃ」
 ジャンは呆然として呟いた。
 またたくネオンサイン。『あなたの必要な物は、全てここにあります!』宣伝文句を流す電光掲示板。密林の樹木のように秩序なく立ち並ぶビル群。あふれる人、人、人――。交差点で信号が青に変わった瞬間、人の群がぞろぞろと歩き出すのは壮観だった。
「おっと、俺も行かなきゃ」
 我が物顔に道路を走っている自動車、バス、トラック、ワゴンその他も、ひとたび信号が変わると、ストップをかけられたようにぴたりと止まる。他の人達にとっては当たり前のことでも、ジャンにとっては物珍しい光景だ。故郷の島には、信号すらなかったのだから。
「――腹減ったな」
 ジャンは食事を求めるように鳴るお腹を押さえた。無理もない。出発前には何も食べてこなかったから。
「何か食べるモン探すか」
 ジャンは手近な店に入った。いくら世間知らずでも、買い物ぐらいは知っている。――知識だけだが。
 パンを焼くいい匂いがしている。店内には何人かの客がいて、思い思いのパンを選んでいる。
「どれもうまそうだな。あっ。これ、面白い形」
 ジャンは縦長の渦巻き型のパン――チョコロールを手でむんずとつかんだ。
 後ろで吹き出す誰かの声が聞こえた。続いて声を潜めた笑いも。
 不審に思ったジャンが振り返る。
「あっと、すみません……その……」
 何か喋ろうとした相手は、しかしまた笑い始めた。
 さしものジャンも、さすがに気を悪くした。相手もその視線に気付き、
「いや、ね。それは手でつかむものじゃなくて、ほら――これで挟むものなんですよ。一応商品ですから、ね」
 そう言った、垂れ目で口元にほくろのある、十五、六ぐらいの少年は、トレイとパンを挟む道具をジャンに渡す。
「ふーん」
 ジャンは曖昧な返事をして、さっき渡された手元のものをカチ、カチと鳴らす。
「これで挟んだパンを、こっちに乗せるんだな?」
「そうそう」
「おっと、うまくつかめねぇな。とっとっ」
「私がやりましょうか?」
「いいッ! とっとっ……」
「……落とさないように気をつけて下さいよ」
「あっと、できた。これでいいんだろ?」
 チョコロールの乗ったトレイを得意そうに上げながら、ジャンは嬉しそうに笑った。
 その後、メロンパン、カレーパン、バターロール、チーズサンド、アンパン、ピザパン、黒パン、食パン、コロッケパン、アップルパイを選んだジャンは、「そんなに買うんですか?」とさっきの少年に呆れられながら、ほくほく顔でレジに向かう。
 ジャンはトレイと一緒に何枚かの紙幣を差し出す。
 レジにいたのは気の良さそうなおじいさんだったが、紙幣を出されると、怪訝な顔をして首を捻り、気の毒そうに言った。
「悪いけど、ここじゃこのお金は使えないよ」
「そう……なのか」
 まさかとは思うのだが、金を渡すときに、秘石が間違えたのだろうか。
「ここは私が払いますよ」
 そばにいたあの少年が、自分の分とジャンの分の金額を払う。
(あ、全然違う)
 紙幣も小銭もジャンが持っていたのと、全然違うのである。
(やっぱり間違えたんだ――)
「出ましょうか」
 枝だけの木がいくつも影のように並んでいる並木道を、二人は歩いている。
「さっきはありがとうな。後で必ず返すから」
「そうですねぇ。思いがけない出費でしたから」
「なぁ、それよりさっきの紙幣、見せてくれないか?」
 ジャンが言った。自分のもっていた金とどう違うのか、確かめたかったのだ。
「これですか?」
 ガードレールに腰掛けた相手は目を細め、言われるままにさっきの紙幣を取り出す。
 過ぎゆく車のヘッドライトが、二人を照らした。
 ジャンは珍しそうにじろじろ眺める。
「千円札ですよ。これ、私の国――日本で使われてる紙幣です。ここで使えるのも、ドルじゃなくて円なんです」
「へぇ」
 日本って、なんだろう。聞いたことも――いや、多少なりとも島の内外の情報に通じているカムイと一緒に世界の国名をさらったときに、ちらと出てきたような気がする。
 どうやらこの少年は日本から来たらしい。
「さっさと両替しちゃった方がいいですよ。私、いい両替屋知ってるんですがね」
 そう言って、なかなかに抜け目のなさそうな少年は、片手でOのサインを作り、ジャンに向かって軽くウィンクした。
「そんな所があるのか。なんか、さっきから世話になりっぱなしだな。なんてお礼したらいいんだろう」
「なに、慈善行為じゃありませんからね、タダではありません。後で紹介料いただきますよ。ピザパイ分けてもらえますね?」
 少年は楽しそうにジャンの前を歩く。ジャンが初めて来て戸惑っている街に、この少年はすっかり溶け込んでいる。まるで自分のテリトリー内のように、自由に闊歩している。
「この街にはずっと?」
 ジャンが訊く。
「ええ。日本を発ってすぐでしたから――どうして?」
「ずいぶん慣れてるようだったから」
「二年も住んでいればね。あなた、旅行者ですか?」
「いや。ずっとここに住むつもりだ」
「そうですか。じゃ、またどこかで会うことがあるかもしれませんね」
 この少年の言葉は、後に的中することになる。ジャンが、自分も名乗り、相手に名前を尋ねた時、彼はこう答えた。
「私ですか? 私は高松と言います。以後お見知りおきのほどを」


士官学校物語・春 第二話
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