Sweet sorrow プロローグ

「樺地さん」
 樺地崇弘に声をかけたのは越前リョーマだった。
「越前さん……」
「ちょっと話できない? Pontaおごるからさ」
 樺地には自分は『朝の紅茶』の方が好きだとは言えなかった。せっかくおごってくれるというのに。けれど、
「気を……遣わなくていいです」
 とは言ってみた。
「Pontaぐらい何でもないっスよ。樺地さんこそ人に気を遣い過ぎっス」
 そんなことはない。気を遣っているように見えるのは周りの人達が皆いい人だから――。
 樺地は本気でそう思っているが、周りからはこう評価されるだろう。
 樺地崇弘は人に気を遣いすぎだ、と。
 樺地が口を開こうとするとリョーマはスタスタと歩いて行った。仕様がないので樺地もついて行く。
「はい、Ponta。オレンジだけどいいかな」
「――ウス」
 樺地はリョーマから缶ジュースを受け取った。炭酸の粒が喉の奥で弾けるのが気持ちいい。
「ねぇ、樺地さん。樺地さんは跡部さん好きなんだよね」
「――ウス」
 周知の事実である。
「性の対象として見たことはなかった?」
 樺地は口内の液体を吹き出しそうになった。
「――ウス、ウス」
 樺地はそう言って首を横に振った。
「俺さぁ……跡部さんのことをそういう目で見てるんだよね」
「越前さん……」
 それぐらいは樺地も気が付いていた。リョーマは跡部に恋をしている。そして、跡部もまた……。
「気持ち悪いとか、思わない?」
 リョーマが言った。
「思いません。俺だって、跡部さんが女性だったら……と考えたことがあります」
 樺地の台詞にリョーマが明らかに失望した顔をした。
「そういう意味じゃないんだけどな……。俺は跡部さんが男でも抱くことできるから」
「…………」
「まぁ、跡部さんが男で良かったよ。樺地さんは強敵だもんね。――樺地さんは跡部さんの兄みたいなもんだよね」
「――自分は、年下ですから……」
「じゃあ、よく出来た弟だ。――あのね、樺地さん、俺ね、昔は跡部さん嫌いだったんだ」
 話がどこに落ち着くのかわからない。でも、取り敢えず話は聞いてみよう。樺地は、
「――ウス」
 と、頷いた。
「キングと呼ばれて悦に入っている王様。そう思ってたんだ。所詮はサル山の大将だって。今だってちょっとそう思ってるけど――」
 リョーマさん、跡部さんはサル山の大将ではありません。
 そう反駁しようとしたが、リョーマの次の台詞で遮られた。
「俺もさ――周りから王子様と呼ばれていい気になっていたから、だから跡部さんを見ていると同族嫌悪っていうの? そういうの感じて嫌だったんだ」
「ウス」
 樺地も納得した。
「俺は人の為には動かないけど、あの人は人の為にも動くもんな。俺に対してだって――俺、跡部さんに酷いことしたのに」
 いつぞやの跡部の断髪のことだろう。リョーマは容赦なく跡部の自慢の髪をバリカンで刈った。丸坊主ではなく、ベリーショートだったけど。
「越前さん、跡部さんは喜んでましたよ」
「はぁ? 喜んでた?」
「『どんな髪型でも俺様はかっこいいな』と言ってました」
「冗談でしょ? そりゃ、俺もかっこいいなとは思ったけど。――喜んだフリをしただけじゃないっスよね?」
「俺にはわかります。跡部さんはそんな冗談は言いません」
「仕方ないなぁ。あの人と来たら」
 リョーマはくすっと笑った。
「そういうとこ、嫌いで好きなんだよ、俺」
 アンビバレントな感情というわけか。樺地は思った。
「俺、跡部さんが跡部さんだからこそ好きなんです」
 日光に照り映えたリョーマの笑顔は爽やかだった。

「――はぁ? リョーマが行方不明?」
 跡部が電話を手に大声を出した。
「……ウ?」
「ああ、すまん樺地。本当なんだろうな。それ」
 リョーマはウィンブルドンで優勝した後である。そんな時に姿を消すなんて考えられない。
 もしや誘拐……?
「誘拐か?」
 跡部も同じ結論に達したようだった。
 だが、どうも違うらしい。『探さないでください』と書き置きがあったようだ。
 リョーマの家族は捜索願を出したらしい。
「まさか、自殺……?」
 跡部は茫然自失としたまま言葉を紡いでいた。でも、それはないだろうと樺地は思った。リョーマは自殺をするような性格ではない。
 それに、最後に会ったあの日。越前リョーマのあの顔は自殺なんか考えているようには見えなかった。
「とにかく探せ! 俺も力を貸してやる!」
 跡部は自分の持てる力を使ってリョーマを探すだろう。樺地は思った。
「跡部さん、仕事のことは俺に任せてください。跡部さんは越前さんの探索を」
「おう、悪いな。樺地。――数日で戻る。ふっ、俺も貴族のはしくれだ。仕事ぐらいちゃんとしたかったんだが」
「仕方ありません。緊急事態です」
「――だな。行って来るぜ」
 跡部はコートを羽織った。
 ――跡部の努力も虚しくリョーマはなかなか見つからなかった。

 跡部がソファで寝ている。
 無理もない。跡部は寝る間も惜しんでリョーマの探索に出かけ、その合間に仕事を入れる。
 樺地は傍で見ているから知っている。リョーマが姿を消した後の跡部は並の忙しさではなかった。
 いつも一生懸命なんだから――。跡部は妥協するということをしらない。
 樺地は跡部が愛しくなった。
 少しは休ませてあげよう。樺地は毛布を持ってきて跡部に掛けようした。跡部はぴくっと動いた。
「リョーマ……」
 跡部は呟いた。――樺地は少しリョーマのことが羨ましくなった。
 けれど、リョーマの恋も応援したいから。
(大丈夫です。跡部さん。必ずリョーマさんは無事でいますから)
 それよりも、樺地は跡部が風邪をひかないか心配だった。
 樺地が毛布を掛けると、跡部が瞼を開けた。
「……ん?」
「お目覚めですか?」
「ああ。これお前か。ありがとな」
 毛布を掴んで跡部はあどけなく笑った。
 もし跡部が女だったら――。リョーマとあの話をしてからそんなに時間は経っていない。もし跡部が女だったら、樺地は決して引かなかったろう。例え手酷く失恋したとしても。
「跡部さん、休んでいてください。仕事は俺が片づけますので」
「ありがとう。お前になら存分に甘えられるな」
 跡部は素直にそう言った。樺地はせめてこれぐらいは、という気持ちで微笑んだ。
 樺地は祈った。――越前さん。早く元気な姿を見せてください。跡部さんの為に。……俺の為に。

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2016.3.25

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