Sweet sorrow 1

「ミカエル、朗報はあったか?」
「すみません。景吾坊ちゃま。まだ――」
「そうか」
 金茶色の跳ねた髪の男は失望を隠す為に老齢の執事長に背を向けた。
 男の名は跡部景吾。今年で二十四になる。
 ――ということは越前リョーマは二十二になるのだ。
 ウィンブルドンで優勝を収めた後、リョーマは姿を消した。その後、行方は杳として知れない。
 その居場所は跡部財閥の機動力で持ってしても掴めない。
 跡部は自分の部屋に帰った後、怒りを湛えながらシャンパンを注ぐ。――もう、とっくにノンアルコールでなくても良くなった。彼らの上には年月が流れたのだ。ここでは跡部も素顔を隠そうとしない。
(どこにいる、リョーマ。オレの心を盗んだままで――)
 窓の外ではネオンサインが煌めく。跡部は綺麗な夜景を全部踏み潰してやりたくなった。

「あっ」
 白金色の髪の少年のサーブがネットに遮られた。
「うーん、難しいなぁ」
 上手く打球がネットを越えていかない。スポーツ音痴というほどではないにしても。
 自分が下手なのは知っている。だから、誰も来ないうちにひっそりとストリートテニス場で練習しているのだ。
 いいんだ。もう。テニスは僕には向かないんだ。
 少年がラケットを捨てようとすると、少年に声をかけた青年が。
「いつもいるよね。君。――ねぇ、テニス、教えてあげようか……」

「あなたー、電話よー」
「誰からぁ?」
「跡部さんから」
「――ちっ、あの男もマメなこった。そんなにうちのクソガキがいいかねぇ」
「あなた、リョーマももう――」
「わあってるよ。電話貸せ。――ああ、景吾?」
 越前南次郎は受話器を取った途端弾んだ声になった。
「リョーマか……相変わらず連絡は来ねぇよ。全く、大したクソガキだ。俺にも電話一本寄越さねぇで――」
「――心配ではないのですか?」
「こら、タメ口でいいって言ったろうが。おめえだって本当は口悪いくせに……リョーマだったらそのうち帰ってくるさ」
「わりぃな。仕事上の言葉遣いが抜けなかったんだ」
「ははは、素が出たな。――あいつにはあいつなりの考えがあるんだよ。きっとな」
 カルピンが傍らでホアラ、と鳴いた。
「ほら、あいつはいつだって人の話を聞きゃしねぇ。だけど――あいつだってもう子供じゃねぇ。そのうちひょっこりどっかから現れるって思ってるんだ、俺は」
「だといいが――」
「景吾を困らせた罰だ。リョーマのヤツには帰ってきたら思いっきり折檻してやるぜ。今度またテニスしような。でも景吾、何だってうちのクソガキにそんなに入れ込むんだ? あーん?」
「……俺の口癖を真似するんじゃねぇよ」
「まぁいい。リョーマからかかってきたら絶対電話入れさせる」
「そのリョーマがまだ見つからない」
「あいつは昔からかくれんぼが得意だったからな」
「かくれんぼじゃねぇぜ。たくよー」
「元・青学のメンバーからも消息をよく聞かれる。こんなクソガキの為にみんな振り回されて可哀想だなぁ」
「アンタもな。南次郎」
「俺は当たり前だよ。親だもの。振り回される資格があるってもんだ。でも、アンタみたいな坊ちゃんが――」
「うーん、あいつは俺の友達だからな」
「よっぽど友達いねぇんだな。お前」
「――そういうところ、リョーマにそっくりだぜ。南次郎」
「馬鹿言え。俺様はいつでも品行方正よ。連絡ひとつ寄越さねぇでフケてしまったアホとは全然違うぜ」
「時々エッチな本を読みますけどね」
「母さん、しーっ、しーっ」
「ははは。しっかり聴こえたぜ」
「坊ちゃんは耳がおよろしいようで」
「俺達も全力をあげて探してるが――どこにいるんだろうな」
「ま、少なくとも死んじゃいないと思うぜ。簡単にくたばるタマじゃねぇ」
「どうしてわかる」
「――親としての勘だ。もういいか。切るぞ」
 南次郎は電話を切った。
「あなた――」
「母さん、風呂に入る」
「もう湧かしてありますよ」
「ふーっ」
 南次郎は目元を拭った。
「おっと、目にゴミが入っちまった。母さん、着替え頼む」
「もう出来てますよ」
 泣くのは風呂でいいか――南次郎は思った。

「跡部さん。今日のスケジュールですが……」
「ん」
「午前十時より石英学園への訪問――聞いてますか? 跡部さん」
「全然」
「それから今月のジュネーブでの会談は――」
「もういい。樺地」
 跡部は車の窓から動く景色を何とはなく眺めていた。
「全て頭に入っている。後はお前に任せる。樺地」
「――ウス」
 樺地崇弘は大人になって跡部の秘書を務める今も昔通りの返事をする。そうしろと跡部が言うのだ。
「――また、越前さんの……」
「仕事中にその名を軽々しく呼ぶな」
 自分のポカを自覚したらしい樺地は、
「ウス」
 と小さく答えた。
 跡部の頭の中には姿を消した越前リョーマのことしか頭にないらしい。跡部は自分を笑ってやりたくなった。忠実な部下より我儘勝手な想い人の方が大事だなんて。
 積年のライバルと互いに目してきてマスコミもそう取り上げて来た。二人の交情はお互いにしか知らない。樺地辺りにはもしかすると勘付かれているかもしれないが。
「昨日は眠れましたか?」
 樺地が本気で自分を心配しているのがわかったので、跡部はにやっと相手に笑いかけ、
「ウス」
 と返事してやった。

「おう、手塚」
「何の用だ、跡部」
 国際電話の向こうの手塚国光は相変わらず堅い声で話す。生真面目なのも変わらないらしい。
「元気にしてるか」
「変わりはない。この前、不二の弟が恋人を両親に紹介したらしい」
「そうか――もうあいつもそんな年か……。お前はいないのか? 好いたヤツとか」
「俺には周助がいる」
 周助ね――。こいつらもファーストネームで呼び合う仲になったんじゃねーの。尤も、跡部も越前リョーマのことを名前呼びしているのだから人のことは言えない。
 手塚と不二が親しくなったことについては彼らの為に良かったと思う。男同士の恋愛は今でも大変だと聞くが。
 不二周助も越前リョーマと同じ青春学園のテニス部のチームメイトで、手塚はその時部長をやっていた。彼らと跡部が通う氷帝学園は宿敵同士だった。
 跡部はふと、会いたい時に会える手塚と不二を羨ましく思った。

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2016.3.27

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