Sweet sorrow 8

 越前リョーマはガウンを着てソファに座っていた。
 風呂上がりにシャンパンを飲むのはあの人の癖。いつの間にか真似するようになった。質素な生活が板についてもこの癖だけは抜けない。
 リョーマはグラスを手にしながらくすっと笑った。
 人影が現れた。
「何だ、そんなところで立ってないでこっち来いよ。――跡部」

 忍足のガラケーが鳴った。
「はい。忍足探偵事務所です」
 その途端、電話の向こうで大爆笑が起こった。
「何や。跡部かいな」
『お前の改まった声おかしいぜ! 探偵事務所と言ってもどうせ事務所ねんだろ?』
「気分の問題や。アンタからギャラもろたら立派な事務所立てたる」
『リョーマを見つけられなかったらギャラは払わんぞ』
「ちっ、金持ちのくせにケチやんなぁ。よう言わんわ」
『期待して待ってるぜ、忍足』
「その言葉に弱いやンなぁ。そういや、面白いこと聞いたわ」
『何だ?』
「リョーマがいなくなる直前、『リョーマの兄を名乗る男が現れた』と言ってたな」
『……越前リョーガか……』
「多分リョーマがいなくなったのと関係あるんやないかと思うんやけど」
『何で跡部財閥が総力をあげて探してんのに見つからなくてリョーガは突き止めたのか。くそ、負けた気がするぜ。ま、リョーガはリョーマの理解者らしかったからな……』
「リョーガが現れた後、リョーマは姿を消したんや」
『忍足、リョーガとコンタクトは取れないか?』
「無理やな。リョーガがどこにいるのか俺だって知らん」
『そうか……』
 跡部の声がワントーン落ちた。
「跡部……そんな声出さんと……リョーマは必ず探し出すさかい」
『ありがとう』
「ええて……俺達の仲やろ」
『ああ……その代わりお前がピンチの時は必ず助ける。それが友達ってモンだろ?』
「――そうやな」
 忍足がふっと笑った。
 俺は跡部の笑顔の為だったらどんな危険でもおかそう。――だから、落ち込むな。跡部……。
「樺地はどうしとる?」
『俺様の仕事を助けてる。あいつがいなかったらほんの少しでも日本を離れることはできなかったな』
「少ない友達や。大事にしたったれや」
『む、少ないだけ余計だ。それにお前にも友達はいねぇだろうが』
「――がっくんが俺の心配してくれたで」
『そうか……じゃあな。元気でな』
「元気でな、なんて永の別れみたいに言わんといてくれるか? またすぐ会えるやん」
『――だな』
「今度リョーマを交えて飲もうや。――いや、今の時点でこんなこと言うのはよすわ。夢ばっかり見てたら夢中毒にならないとも限らない」
 忍足は電話を切った。
 忍足はボストンへ来たばかりだった。
「しんどいなぁ……」
 まずリョーマがボストンのどこに潜んでいるかもわからない。――ボストンの夜は暗かった。
(まぁ、まずはどこかに落ち着こう。腹減ったわ……)
 忍足の姿は夜に紛れて行った。

「どうした? 跡部」
 跡部と呼ばれた青年がリョーマの前に立った。
「いや……」
「こっち来いよ」
「はっ、俺様に命令するとはいい度胸だな」
 相手のその言葉にリョーマは目を細めた。
 跳ねた金茶髪に青い目。しなやかな肢体。この青年を見た誰もが跡部だと信じて疑わないだろう。彼はそれ程跡部に似ていた。
 リョーマは微かな失望を押し隠して『跡部』を見た。
「跡部のフリがなかなか板についてきたじゃない。清浦君」
「その名前で呼ぶなと言っただろうが」
「――その台詞、本気じゃないんだよね」
「本気だ。俺が演技下手みたいに言われたようでな」
 リョーマは大きなアーモンドアイを見開いた。
「そうだったね。ごめん」
「――俺、ちょっと跡部に妬けるな。……大切なヤツだったんだろ?」
「そうだね――大切な……」
 でも、もう会うことはないだろう。
 俺はこんなイミテーションまで用意する程に跡部さんのことが忘れられない。
(跡部さん――)
 この世界に跡部景吾がいる。それだけで、今のこの寂しさを紛らわすことができるような気がした。
 この世に、跡部景吾はただ一人。
 では何で清浦某を傍に置いているかと言えば、それには訳がある。

 このボストンの下町で清浦を拾ったのは半ば気紛れからだった。
「跡部さん……?!」
 その男はあまりにも跡部を思わすのでアパルトマンに連れ帰った。
 髪型をいじって服を整えたら跡部そっくりになった。それから、リョーマは家にこの男を置いている。夜になったら相手もさせる。
 清浦誠司。それが彼の本当の名である。
 ただし、彼に泣きぼくろはない。リョーマも流石に彼に泣きぼくろをつけようとは思わなかった。

『跡部』とリョーマがキスをした。
「ベッドで待ってて……跡部」
「ん。わかった」
 ――跡部に似た声。
 身長も跡部と同じくらいだ。背格好も、肩幅も――。リョーマは抱き着きたいのを我慢した。それはあまりにもがっついているように思われて――。
 フリルのネグリジェも良く似合う。
 跡部と呼ばれた男はリョーマに逆らわず『跡部』の役をこなした。喘ぎ声も跡部とそっくり同じだった。
 この世には自分に似た人が三人だったか七人だったかいると言うけれど――。跡部はびっくりするに違いない。この青年を見たら。
(だけど、この男は跡部さんじゃない)
『跡部』を抱く度心が軋む。でも彼を求めるのを止められない。
(いいか――彼がイミテーションでも……)
 リョーマが再びシャンパンをあける。――涙の味がした。

 忍足は足で稼いでいた。
 最初は高級住宅街にいるのかと思っていた。リョーマは金持ちの筈だから――。だが、ことごとく外れた。
「ちっ、どこにおるんや。リョーマ……」
 忍足は懐手で歩いていた。調査費は跡部からふんだくってやると決めている。
 ――その時だった。
 一人の東洋人とすれ違った。
「リョーマ?!」
 忍足は思わず叫んだ。
「おう、リョーマ……? 誰だ、アンタ。アンタもリョーマを探してんのか?」
 懐かしの日本語で畳みかけられ忍足は目を白黒させる。――相手はリョーマの兄、越前リョーガだった。

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2016.4.18

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