Sweet sorrow 10

「リョーマ!」
 跡部景吾がリョーマの部屋に飛び込んで来た。
「何や。もう来たんかい」
「俺もボストンに来てたんだよ。樺地に無理言って仕事押しつけてきた。元気で――て言ってた。あいつは俺を後押ししてくれた。……俺がリョーマとテニスするところが見たいと……リョーマと一緒にいるところが見たい、と……」
 跡部が息を切らしながら畳みかける。
「わかったから少し落ち着こ、な?」
「な? じゃない。何だ、このリョーマのザマは」
 越前リョーマはロープで縛られ口元にはガムテープが貼られている。彼の兄、越前リョーガが言った。
「跡部そっくりの男はうるさいんで寝ててもらった」
「それよりリョーマは何で縛られてるんだ? あーん?」
 跡部景吾がどすの利いた声を出す。
「ユーシが持参していたロープで。ガムテープは家のを探して使わせてもらった。全く、このチビ助が逃げようとするから――世話のかかるガキだよ」
 リョーガが説明する。最後は慨嘆になってしまっている。
「――忍足。何でロープなんて持ってる。そういう趣味でもあんのか?」
「失礼やな。探偵のたしなみやん」
「そんな探偵聞いたこともないぞ。ああ、疲れた。おい、リョーマ。何が起きたのか俺様にわかるように言え」
「んーっ、んーっ」
「あ、ガムテープまだ取ってなかったな」
 ガムテープが剥がれたリョーマの顔は何だかあどけなく見えた。
(か……可愛いじゃねーの)
 だが、リョーマの愛らしさを愛でる暇はなかった。
「時間がないから要点だけ言え。どうして俺様から逃げた」
「忍足さんに聞いたんですか?」
「俺は何も言ってないで」
「何となく予想はしてたんだ。確かに俺はいろいろ煩いかもしれねぇ。だけど、言い寄ってきたのはお前の方のはずだろ?」
「はい。でも――嫉妬心がどんどん強くなって行って……跡部さんはモデルとか女優の卵とか女侍らせてるし……」
「ただの雌猫だろ? そいつら全員に嫉妬してたのか?」
「はい。それだけじゃありません」
「何だ?」
「そのうち歯ブラシとかタオルとかそういう日用品にも嫉妬するようになって――跡部さんの髪を刈ったのも多分嫉妬心からだったと思います」
「――随分昔の話持ち出してくるじゃねぇか」
「そのうちに、これは本当の俺ではない、ここにいると俺がダメになる。跡部景吾を愛したら身の破滅が待っている――そう考えて、優勝記念パーティーの直前に……姿をくらましました」
「ひでぇ言い草だな。おい」
「まぁ、気持ちはわかるで」
 忍足が助け船を出す。
「でも、跡部のことが忘れらんなくて、跡部そっくりの男を飼っていたわけやな」
 リョーマはこくんと頷いた。
「でも、愛が破滅を呼ぶなんて俺は信じないぜ」
 リョーマの縄を解きながら跡部景吾は言った。
「愛は育むもんだって、俺様は思ってる」
「じゃあ樺地にももっと優しくしたれや」
 忍足が脇から言う。跡部がリョーマのロープを解きながらこう答えた。
「俺もそう思ったがあいつはあれでいいんだそうだ。――あざになってんな。後で見てもらえ」
「その樺地さんにも嫉妬しています」
「あーん? 樺地とお前じゃ立ち位置が違うんだ。わざわざ嫉妬する必要なんかねぇよ」
「跡部さん――どうして俺に親切にしてくれるんですか?」
「お前が好きだからだ。ばか」
「俺も、跡部さん好きです。そりゃ、性格に難はあるしかっこつけだしアホだし――でも、こんなに一生懸命なお人好し、他にいません」
「それは褒めてんのか? けなしてんのか?」
「両方」
 リョーマはにっこりと笑った。リョーマを見るのも、リョーマのこの笑顔を見るのも随分久々だな、と跡部は思った。

 清浦誠司はリョーマの寝室のソファに寝転がされていた。――今起きたところである。
「あ……リョーマは?!」
 清浦は部屋を出た。そして――自分と似た顔の男を見つけた。
 跡部景吾。跡部財閥の御曹司。地位も名誉も財産も――清浦が喉から手が出る程欲しがっていた全てを持っている男。そして、リョーマの愛さえも。
 清浦は彼を一目見た時、激しく彼を憎んだ。
「アンタ……跡部だろ?」
 思わず声が掠れる。
「そうだ。俺様が跡部景吾だ」
「――リョーマは渡さない」
「偽物は黙ってな」
 跡部が嘲笑した。跡部からは余裕がうかがわれる。それは王者の傲慢さ。
 ――許せない。
 こんな男がいることが許せない。
「跡部!」
 リョーマが叫んだ。リョーガがアイスピックへ手を伸ばそうとする清浦を押さえつけた。
「アンタは――俺を気絶させた男!」
「越前リョーガでっす。宜しく」
 リョーガはわざとおどけた。
「俺はそこにいるリョーマの兄だ。アンタには聞きたいことがあるから奥で話そうか? ここでもいいか?」
 清浦は泣いた。力も余裕も、何も持っていない今の自分が歯痒くて泣いた。リョーガは忍足に向かって頷きかけた。忍足はアイスピックを安全な場所に片づける。リョーガがまじまじと清浦を見た。
「アンタ――つくづくケイゴにそっくりだな。ケイゴの生き別れの弟とかいう設定じゃないだろうな」
「そうじゃない。でも、そうだったらどんなにいいか――」
「そんなにいいもんじゃないぜ。財閥の御曹司というのも」
 跡部景吾が言う。清浦の羨望、見抜かれていた。
「貴族には義務が伴うからな。――まぁ、この頃は樺地もいるし大目に見てもらっていたが」
「ノブレス・オブリージュ。跡部さん口が酸っぱくなるほど言ってましたよね」
 リョーマが口を挟んだ。
「特権には義務が伴うんだ。それも知らずにあれこれ言うんじゃない、ひよっこ」
 そう言う跡部の言葉には冷酷な響きが伴っていた。リョーガが間に入った。
「まぁまぁ、貴族階級にしかわからんこともあるさ。トップに立った者の気持ちはトップにしかわからねぇ。リョーマは栄光の座を捨てて逃げ出した」
「そういや、生活費はどこから出てたんだ? リョーマ。隠遁生活も楽じゃなかったろ」
 跡部は首を傾げた。
「今までの大会の優勝賞金は?」
 と、忍足。
「そんなモン、すぐに使い切るだろうが」
「そりゃ跡部、アンタみたいにバカスカ使てりゃそうなるだろうが。でも……そうやな。跡部の言うことも一理あるわ。しかし、跡部は金を湯水のようにぎょうさん使てるからな」
「まぁ、特権は使ってこその特権というもんだからな――義務は当然行わなければならないが。それを思えば今回の俺の行動は決して褒められたもんではないな」
 特権階級の持っている狡さをこの男も持っているということか。
 でも――彼はそれを自覚している。
 そんなに嫌な男でもないのかも知れない。況してや、越前リョーマが惚れた男である。滅多な男である筈がない。
「テニスのインストラクターをして暮らしていました。俺程になると正体がわからなくても雇ってくれるところはたくさんあるので」
 リョーマの台詞には得意げな感情が潜んでいた。
「ほう、やはりリョーマはいろいろあってもテニスから離れられなかったか」
 跡部は感心したように独り言ちた。
「ええ。俺の人生はテニスから始まりましたから」
「俺もだ」
 跡部は机の上のシャンパンに目を遣った。
「まだあの頃の俺――いや、俺達の癖を引きずってたんだな……なぁ、リョーマ……日本に帰らないか?」

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2016.4.24

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