リョーマの戦い 9

「んで? どうするおチビ? これから」
「――何もしないっス」
「えー、こういうのは悪の親分がやっつけられてめでたしめでたし、というのがセオリーだろ?」
「おい、堀尾食い過ぎ」
「まぁ……悪の親分がか弱い女子中学生というのが後味悪いけどね……」
「俺ら、田代に何にもしてこなかったよな……」
 何もしない――それが一番相手には堪えるのだ。暴力でも何かリアクションがあった方がまだマシだ。桃城はそれを言いたかったのだろう。体育会系で成績も悪いが、桃城武という男は案外頭の回転が速い。くせものと言われるだけのことはある。
 そして――青学テニス部新部長海堂薫と唯一タメ張る男だ。
「田代のこと、便利屋扱いしてたよな……」
「まぁ、そうっスけど――」
 堀尾が言葉を探している。桃城がこう呟いた。
「田代に――声かけてやっか」
「そうだにゃ」
「田代、寂しそうだったもんな――」
 堀尾もノブ子の寂しさをわかっていたのだ。何故ノブ子にぞんざいな態度を取ってきたのか。それは、リョーマのことでいっぱいいっぱいだったせいだろう。
「ごめん、堀尾。俺も――田代は寂しいヤツなんだと思ってた。それなのに、何もできなかった……」
「リョーマくんは悪くないよ!」
 と、カチロー。
「そうだよね……リョーマくんは憎くないの?」
 カツオが尤もな質問をした。
「憎い? 誰が誰を憎いって?」
「田代ノブ子のことに決まってんだろ。越前は田代のことを憎くないのか、とカツオは訊きたかったんだよ。な。――大丈夫かよ、越前」と、堀尾。
「ああ――」
 ほんのちょっと、現実感がなくなっていた。浮遊感といえばいいのか。魂が上から下界を見下ろしているというか、そんな感じ。
「越前!」
「――あ?!」
 リョーマはぐるりを見渡した。桃城、菊丸、堀尾、カチロー、カツオ……見慣れたメンバーが並んでいる。
「どうした? おチビ」
「――何でもない」
 リョーマは機械的に菊丸に答えた。
 あの現実感のなさ。ふわふわとした感触。ちょっとぼーっとしていたみたいだ。
「越前――変だぜ」
「これでも食べて元気出して」
「……菊丸先輩、それ、俺のおごりなんスけどね……」
 桃城が言っても無駄かとばかり力なく言う。菊丸がポテトを差し出してニカッと笑う。――桃城が続けた。
「……まぁ、田代も――テニス部の一員なんだ。俺は仲直りしたい。真面目なマネージャーだったしな」
「そうだね、桃。ノブ子ちゃんてさ、あの事件が起こる前までは一人ひとりに挨拶してたんだよ。良い子じゃん」――菊丸が笑顔で返す。
 あの事件――リョーマがノブ子を強姦しかけたという噂が立った時だった。
 あの時、一人の女子中学生が悪魔に魂を売り渡したのだ。
 目の前でそれが行われたのに、気付かなかった。リョーマは愕然とした。
「俺は、何をすればいい?」
「越前は越前でいいよ。これは俺達が勝手にやることだから。越前は自分の信じた道を行くといいよ」
「オレはノブ子ちゃんと友達になるにゃ」
「そうスね……俺も、田代と向き合いたいっスね」
 桃城が呟いた。
 リョーマは、田代よりもまず自分と向き合わなければならない、と思った。さっきの浮遊感も気になる。まさかまた記憶喪失になることはないと思うが。
「はーい、おチビ。あーん」
「――野郎に『あーん』されたって嬉しくないだろ? 越前」
「妬いてんな。もーもっ♪」
「んなわけないでしょーっ!」
「――いただきます」
 リョーマが菊丸の差し出したポテトを食べる。――美味しい。きっとこれが菊丸なりの元気のつけ方なのだった。
「まず、レギュラー陣は全員ノブ子ちゃんに挨拶すること。これ決定事項ね♪」
「わかったよ。海堂にも伝えとく。越前……は、まぁいいとして、堀尾、お前はどうする?」
「ん~。越前がやられたこと考えっと素直に挨拶する気にはなれないなぁ……ある意味俺も被害者だし。俺のことはいいけどさ」
 堀尾の加害者は田代でなく、俺だ。どうすればいい。リョーマは黙ったまま考えを巡らせていた。
「リョーマくん……」
 カチローがハラハラしている。何もできないのが、悔しい。こんなに悔しい思いをしたのは久しぶりだ。リョーマが無言で涙を流し始めた。
 俺は、桃先輩にも、堀尾にも、田代にも、何もできないんだ――。
 手塚部長の気持ちが初めてわかったような気がした。
「にゃっ、おチビ。泣くことないにゃ!」
「越前……大丈夫かよぉ。傷、痛むか?」
「うん……怪我は大したことないよ」
「そうじゃなくて――心の傷だよ」
「あ、ああ……」
 リョーマが目元を拭った。カチローが言った。
「もう、帰る?」
「そうだな――これ以上話し合っても平行線だろうし。なぁ、越前」
 桃城がリョーマに訊いた。カツオが背中を撫でている。気持ちいい。こんなに気持ちいいのも――久しぶりだ。疼痛もむしろ快い。
(リョーマ、いい子に育つのよ)
 母の声が聴こえてきた気がする。あったかい。
「ありがとう。カツオ……」
「そんな、リョーマくん……あれ?」
「……眠そうだな。眠そうだぜ」
「一人で帰れる?」
「うん……」
「夜道は危ないから気をつけて帰るんだよ」
「越前は俺が送って行くぜ。ほら、立てるか?」
「――ん」
 ラケットバッグを背負ったリョーマを桃城が支えた。リョーマの力はすっかり抜けている。堀尾が訊いた。
「桃ちゃん先輩大丈夫?」
「あー、俺、力はある方だから」
「桃のラケバは俺が桃んちまで運んで行ったげる。――あ、ちょっと待って。桃がおごるって話はどうなったにゃ?」
「菊丸先輩が立て替えといて」
 そこに居並んでいた菊丸とリョーマ以外の全員の声が揃った。
「そんな~。後で絶対返してよ」
 菊丸が泣きそうになりながら会計を払った。――リョーマは桃城の背中で眠ってしまった。
「いっぱい寝ろよ。越前。何たって寝る子は育つ、だからな」
 リョーマは密かに自分の背丈が低いことに劣等感を感じていた。桃城の逞しい体格にも憧れていた。
 それに――ああ、跡部景吾。あの人に背丈で追いつかない限り、あの人に勝ったことにはならない。でも、今は何も考えずに眠っていたい。

「どこへ行く」
 凛とした声が響いた。
「てめぇは――日吉!」
 氷帝学園テニス部現部長の日吉若であった。
「青学の噂、調べました。噂は本当だったみたいですね。越前のチビ助のことで讒言した者が現れた、と――」
「てめぇっ……!」
「落ち着いてください。こんなところで越前にへばってもらっては困るんです。越前とは、正々堂々テニスで戦いたい。日吉家の次期長として。そして――氷帝学園テニス部部長として。それが俺の下剋上だから」
「テニス……」
 リョーマがゆっくりと目を覚ました。ラケバを担いだリョーマの小さな体が背中からずり落ちそうになるのを桃城が必死で押さえた。

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2016.6.27

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