リョーマの戦い 7

「堀尾……」
 勝手に喋んなよ。確かに今更だけどさ。
「俺……同じクラスなのに、何もできないのが悔しくて――」
 堀尾はぽろぽろと涙を流す。
 そういえば、手塚もリョーマと堀尾に対して何もできない、と言っていた。何でだろう。皆、一生懸命リョーマの為に尽くしてくれたというのに――。
 真剣に相手に向き合おうとすると、己の弱さを痛感するしかないのかもしれない。リョーマもそう思っていた。リョーマだって堀尾の為に何もできない。ただ、こう言うだけ。
「堀尾は、俺を庇ってるんです」
「――やっぱりかい」
 スミレは気遣わし気な横顔を見せた。その顔は五十代後半という年齢相応に見えた。スミレらしくもない。いつもは快活なばあさんなのに。
 抱えている問題が問題なだけに、そうならざるを得ないのかもしれない。
「リョーマ、堀尾。何があったのか私に話してくれないかい?」
 ――スミレだったら、信じられる。
「はい」
「田代ノブ子が転校して男テニのマネージャーになってからおかしくなったんんだね」
「最初はそうでも――彼女熱心ですしマネージャー業も楽しんでいるみたいでした。テニスのことにも詳しいし」
 リョーマが説明する。
「それが変わったのはいつだい」
「ええと――彼女が転校してきてしばらくしてから、ですね。向こうから告白してきたんス。で、断ったら自分で服を引き裂いて悲鳴を上げて」
「何でぇ。田代の方から越前に言い寄ったんじゃねぇかよ」
 堀尾は泣きながらも呆れているようだ。この辺の事情は堀尾は知らなかったらしい。堀尾の涙が一応止まったところで、リョーマが話を続けた。
「んで噂が流れたんだけど、それはすぐに鎮静化しそうだったんです。だけど――田代の方が一枚上手でした」
「あいつ、自分で痣のメイク作って来たんだよ。最初は転んだとか何とか他の理由つけてたけど、突然わっと泣き出して」
「――痣かい。どの辺りだい?」
「腕のところと――」
 リョーマが自分の腕を指差した。あの日は暑かった。青春学園では半袖の人も珍しくなかった。尤も、ノブ子はちょうど見つかるようにわざと半袖を着てきたのかもしれないけれど。
「腿のところにもあったんだよ! スカートで見え隠れしているところ!」
「よく見てたねぇ、堀尾」
 スミレが目を見開く。
「女子の脚ならよく見えるんですよ、俺。――じゃなくって!」
 そんな場合でもないのにリョーマは吹き出した。
「何だよぉ、越前まで」
「笑う元気があるのはいいことだよ。ノブ子が噂を流した張本人かい? しかし困ったね。ノブ子は優秀なマネージャーだと思ったのに。――どうする? 何もかもバラして田代には止めてもらうか?」
「いいえ」
 リョーマは、はっきりと言った。
「どうしてだい?」
「ただ――彼女は辞めさせない方がいいと思って」
「ええ?! あんなヤツさっさと辞めさせようぜ」
「でも――テニスを好きなのは事実だろうし、田代を辞めさせる資格は俺達にはないんだ」
「越前……」
「しかし勿体ないね。冗談をいう訳じゃないけど、それが本当ならノブ子はかなりの名優だよ。テニス部のマネージャーなんかしてるより女優の道を歩いた方がいいんではないかね」
「俺もそう思います。顔だって悪くないし、メイクも映えそうだし」
 リョーマが同意した。
「田代が女優ねぇ……」
 堀尾には想像もつかないようなことらしい。
「私から田代にそれとなく注意するか?」
「いいえ。田代のことはあくまできっかけですから。俺は今まで生意気だったんで多分いじめられる要素はあったんでしょう」
「越前! 悪いのはあくまでも田代! いじめられる方が悪いなんてんなのありか!」
 堀尾がリョーマの肩を掴んでがくがくと揺する。
「でも、このままじゃ終われない。これは俺の戦いなんです」
「おお、ついにノブ子と決戦か?」
「誤解しないでくれないかな。堀尾。これは俺の戦いなんだ。皆の誤解を解くこと。それが俺の、自分との戦いだ」
「でも、どうやるつもりだい?」
 スミレが訊いてきたが、リョーマにあてがあるはずもなかった。
「――取り敢えず田代と話してきます」
「私もそれとなくノブ子のことは見張っているよ。それ以上のことはしない方がいいんだろうね。まだ」
「宜しくお願いします」
 リョーマがぐっと頭を下げた。
「親父とそっくりだねぇ。リョーマ、アンタのその激しい気性は」
 スミレは目を細めた。スミレはリョーマの父、越前南次郎の恩師でもあるのだ。
「でも、自分自身が一番の強敵だよ」
「――覚悟はしてます」
「おい、越前。本当に田代と話すのか?」
「うん」
「証人もいた方がいいんじゃないか? 俺、なるぜ」
「ありがとう。でも、俺はノブ子の本音が聞きたいんだ。悪いけど二人きりにしてくれない?」
「――わかったよ」
 堀尾が渋々頷いた。
「リョーマ、アンタのその炎が自分自身を焼き尽くさないといいんじゃがね――」
 スミレが呟いた。
「戦いには余裕も必要だよ。リョーマ。お茶でも飲まないか?」
「いただきます」
「俺が淹れて来ますか? 竜崎先生。こう見えてもお茶くみは慣れてるんで」
「じゃあ任せるとしようかのう」
「はい!」
 堀尾は全くのお調子者の小心者に見える。リョーマだって最近まではそう思っていた。けれど、堀尾の内にはあんな激しい炎が燃え盛っているのだ。それは多分、自分の比ではない。
 堀尾はお茶ッ葉を急須に入れてお湯を湯冷ましに注ぐ。それを見ながら、リョーマは言った。
「竜崎先生。内なる炎なら、堀尾にもあります」
 スミレはちら、とリョーマを見て、それからふっと笑った。
「わかっとるよ。どうやらそのようだねぇ。……普段押さえつけられているだけあって、あっちの方がより激しそうじゃ」
 リョーマも首肯した。堀尾のお茶を淹れる姿を見ながら。堀尾、俺はどうやらお前を誤解していたみたいだ――。

 部室では田代ノブ子がタオルを洗濯していた。彼女は毎日放課後に部員達のアクエリを用意したりユニフォームを片づけたりしていたのだ。時には球拾いを手伝ったり――。その点については感謝せねばならない。
「田代」
「――なぁに、越前君」
 ノブ子は振り向きもしない。
「もうやめない?」
「何を?」
「俺を陥れたってアンタにゃいいことひとつもないよ」
「そうね。でも、私が陥れた訳じゃないわ。クラスメートが越前君のことを信頼しなかっただけ。越前君信用なかったんじゃない?」
「否定はしないよ。だけど、そういうアンタもなかなかのもんじゃない。女優目指せばいいよ」
「はっ。こんな私みたいなブスが女優ですって? そりゃ、昔は憧れてたけど、今は――自分の分を弁えてるわ」
「俺を嵌めることが自分の分を弁えていることになるんだ」
「――何ですって?!」
「俺、アンタには負けないっス。戦う前から尻尾巻いて逃げる卑怯な女には」
「越前君にはわからないわよ。越前君は生まれながらの王子様だもの。皆の憧れで――でも、あの時は私だって勇気を振り絞ったのに!」
 あの時――告白の時のことだろう。けれど、リョーマには好きな人がいる。リョーマはずっとテニスを愛してきた。そのテニスと同じくらいに――。尤も、出会ったのはつい最近のことだけれども。
 それにしても、告白が上手く行かなかった時のことを算段していたのがこの女。結構腹黒い。でも――この女などリョーマの敵ではない。リョーマの敵は、自分自身だ。
「負けてもまだチャンスはある。俺は――自分自身にも絶対負けない」
「そう……それにしても越前君、皆がいないのを見計らって部室に来るなんてどういうつもり? また嵌められるかも、とは考えなかったの?」
「考えたけど? でも、アンタのことなんてちっとも怖くないからさ。そうそう、自分が美人でないと思うのなら個性派女優を目指す道だってあるよ。アンタ平凡な顔だから個性派は無理かもしれないけど演技力は買うよ」

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2016.6.22

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