リョーマの戦い 31

 ――田代ノブ子は去った。今度こそリョーマも家路につこうとすると。
「越前」
 不二と視線がぶつかった。
「不二先輩……」
 見てたの――リョーマが笑いかける。
「良かったね。田代と和解できて」
「うん――これからが大変だと思うけど」
「そうだね。でも、それは僕達も一緒だよ。越前、君が戦うなら僕達も一緒に戦うよ」
「――え?」
 不二の意外な言葉。戦うなら一人だ。そう思っていた。けれど、自分には仲間達がいる。
「越前、今回のことは君は全然悪くないんだからね」
「うん……」
 もし悪いとすれば、ノブ子に巣食った悪意のせい――ノブ子自身に非はないのだ。例え、悪意に支配される程精神が弱っていたとしても。
「田代はあれで生まれ変わるだろうね」
「そうですね」
 でなければ、堀尾が可哀想だ。クラスメートの悪意を一身に浴びた堀尾。悪意と一生懸命戦った掘尾。
 そして、堀尾は自分の悪意も素直に認めたのだ。
 あのちょっとサルに似た小さな友人にそんな勇気があるとは思わなかった。リョーマも以前は堀尾を口だけのヤツと軽く見ていたのだ。
 堀尾も田代も、思ったより強かった――リョーマは思った。
 自分は弱い。生意気な言動で身を鎧う程に。でも、いつだって強くありたかった。だから、自分を強く見せようと努力した。
 跡部さん――。あの人はどうだっただろうか。
 あの人が嫌いだった。まるで自分を見ているようで。今は――彼の良いところもわかって、どんどん惹かれて行った。彼はこの世でたった一人、自分と同類の男だから。
「越前……泣いてるの?」
「え……?」
 リョーマには泣いている自覚がなかった。
「これで涙拭いて」
 不二が差し出したのは、赤い刺繍入りの白い綺麗なハンカチ。
「ありがとう」
 ふわりと、花の香りがした。不二の匂いかもしれなかった。
「後で洗って返すよ」
「気を使わなくていいのに。何ならそれ、あげようか?」
「いいの?」
 リョーマが目を瞠った。
「うん。その代わり、大事に使ってね。由美子姉さんが刺繍した物だから」
「勿論っス!」
 先輩からのプレゼント。嬉しい――と素直に思えた。時と場所を弁えたプレゼントと言うのは嬉しいものなのだ。
「不二、こんなところにいたのか」
 手塚が姿を現した。不二の傍にいたリョーマの顔を見て吃驚したようだった。
「越前……そのう、大丈夫か? 泣いてたのか?」
「うん。でも、悲しいからじゃないんだ……」
「手塚。道々話すよ。越前、一人でも大丈夫だね?」
「はい」
「そうか――」
 手塚はどことなくほっとしたようだった。手塚と不二。お似合いだとリョーマは思った。二人は並んで帰って行った。自分もいつかあんな風に跡部と帰ることができるだろうか。
 リョーマは自分が何で泣いたのだろう、と考えた。今は皆の優しさが身に染みて――泣いたのも、皆が優しくて、だから愛しくて……。涙が流れるのは悲しい時だけじゃない。心の琴線に触れた時だ。そして、泣くのは決して恥ずかしいことじゃない。
 ――かえって、勇気と闘志が湧いてくるような気がするのをリョーマは感じた。

「お帰り、小僧」
 南次郎が出迎えてくれた。だが、リョーマは小僧と言われて面白くなかった。
「ただいま」
「試合の結果は訊かないのかい?」
「親父が勝ったんでしょ? どうせ」
 プロの世界でもトップを取るところまで行った南次郎と、テニスをかじったとは言えアマチュアの井上では勝負にならないことはわかっていた。
「ああ、でもな――井上のヤツ、俺から1ポイント取ったんだぜ」
「……たったの1ポイント?」
「俺は1ポイントもやらんつもりでいたがな」
 そう言って南次郎は笑った。
「どうやら俺と手合わせした翌日からテニス漬けの毎日だったらしいぜ。井上は」
「あら、リョーマくん、帰って来たの?」
「芝さん」
「ねぇ、越前さん、越前さんから奪った井上の1ポイントの報酬と言うことで、リョーマ君に一言言ってもらっていいかしら」
「ええ、やだよ」
「一言だろ? 何か言え。少年」
 南次郎は面白がっているみたいだ。
 一言って言うのは案外難しい。一言で言えるくらいならとうに言い表している。
 それを簡単な風に言って。
 リョーマは父親を睨んだ。南次郎は何度となくこのような質問をされてきたはずだ。今もまた。
 自分は父に試されているのだ。
 リョーマはすう、と深呼吸をした。
「俺の敵はこの世にはいません。もしいるとしたら自分自身です」
「言うじゃねぇか、リョーマ。それに、それだと二言だぞ」
 南次郎はリョーマの頭を撫でくり回す。
「やめろよ、親父!」
 リョーマも父の前では年相応の顔を見せる。普段は大人びて見えると同級生に評判のリョーマだが。
 パシャッ!
 フラッシュが焚かれた。
「仲良しの親子の写真、もーらった!」
「ちょっと! 勝手に撮らないで! ネガ返してくださいよ~!」
「やぁだ。せっかくの特ダネなのに」
 沙織とリョーマが罪のないやり取りをしていると、いつの間にか倫子がやって来て、
「まぁまぁ。二人ともすっかり仲良しになったわねぇ」
 と、感心していた様子だった。
「そうだな。でも、芝っていいよなぁ。彼女と組んでる井上が羨ましいぜ。揉み心地も良さそうだしな……」
 南次郎がやに下がりながらまるで胸を揉みしだくように手を動かしていると、
「あなたっ!」
 と、倫子の雷が落ちた。
「しばらくご飯抜きでもいいのね!」
「ええっ、そりゃ困る! リョーマ、お前からも何とか言ってくれ!」
 そう言った南次郎に向かってリョーマは思い切りあかんべえをしてやった。沙織が意外、と言う風な顔をした。
「あらら~、越前さんの奥さんてお強いんですね……」
「そりゃま、このガキの母ですからね……」
「あら、リョーマはあなた似よ」
「いいや。この負けん気は母親似だね」
「サムライを思わせるところはあなた似だと思うんだけど……」
「越前さんて、とっても夫婦仲がおよろしいんですね」
「倫子はペチャパイだけど中身はとびっきりだからな」
「あなた!」
 あちゃ、とリョーマは顔を覆いたくなった。何だかんだ言って結局沙織の掌に乗せられている父と母がいる。
 この両親のことだから、乗せられた振りをしているだけかもしれないが。――否、そう思いたかった。
 リョーマは呆れたようにやれやれと肩を竦めて、菜々子のいる台所へ入って行った。馴れ初めについて話し始めた両親は放っておいて。

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2016.8.28

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