リョーマの戦い 30

 青春学園に着くと、男子テニス部の主なメンバーが既に集まっていた。
「皆……」
「越前、席に着け」
 手塚が言った。いつもの通り、無表情だった。
「大丈夫だよ。越前。手塚だって怒ってる訳じゃないんだから」
 不二が言う。
「お……遅くなりました!」
 田代ノブ子が扉を開けた。
「田代! アンタ、来てくれたのかい?」
 スミレが目を瞠る。
「アンタのことも一応呼んだんだけど……それどころじゃないとは思ってたんだけどねぇ……」
「はい。事情を話したら、両親が『行って来い』って――父と母はマスコミの対応に追われています」
「そうか……よく来てくれたの。ここに座るといい」
「いえ、立ったままで」
「疲れたら座るんじゃぞ」
「はい!」
 ノブ子はそう返事すると、やはり立ったまま、スミレの話し出すのを待っていた。場内はざわざわと落ち着かない。
「静かに!」
 スミレが叫ぶと、一気に沈黙が下りた。
「今回、我々テニス部が危機に陥っているのは知ってるね」
「はい」
 手塚が答えた。
「流言蜚語が飛び交っている。越前と堀尾に乱暴をした者の中にテニス部員がいる。来年は都大会どころか地区大会すら出られないかもしれない――と。冗談じゃない! こっちは被害者なんだからね! ……まぁ、それでも、青学に見切りをつけたなら辞めたっていいんだよ。アタシは止めない。止められない!」
 そう言い切ったスミレの目には強く激しい光が見えた。
「オレ、辞めません!」
「オレも!」
 テニス部のメンバーも、泣き出した者が何人かいた。二、三年生が多かった。
「じゃあ、何があってもオタオタするんじゃないよ。私も含めて、な」
「竜崎先生……」
 リョーマの隣の部員が男泣きに泣いた。そんな噂を流されることについて、リョーマも悔しかった。この危地に、リョーマは多分、何もできない。
 何もできないのがこんなに悔しいなんて思いもしなかった。どうせ調査が入れば噂はデマだ、とわかる筈だが。でも今は――スミレやテニス部の皆の心を救う手助けをしたかった。自分がテニス部は無実だと証言すればいいのだろうか――。
「わ……私のせいなんです!」
 ノブ子が叫び出した。
「田代……?」
 スミレが呟く。
「私が、あんな……越前君を嵌めることをしなければ……」
「田代!」
「もういいんです。私は越前君を陥れました。皆に敵意を向けさせるようにしました。彼についての噂の元凶は全て私です。申し訳ありませんでした!」
 そう言って、ノブ子は頭を下げた。
 リョーマはノブ子の謝罪に少し感動した。彼女は、自分のやるべきことをしたのだ。いいんだよ、田代――そう言って元気づけてやりたかった。
「俺、越前を疑ったことはなかったよ」
「俺だってさ」
「そうだよな。考えてもみろよ。全国大会優勝の立役者である越前が、田代みたいなブスを――」
 その時、リョーマはノブ子をブスと罵った部員に近付いて頬を思いっきりはたいた。
「越前君!」
 ノブ子が叫ぶ。
「謝れ!」
「――は?」
「塩ヶ崎! 越前!」
 他の部員も声を上げる。
「田代に謝れ! アンタは今、田代を傷つけたんだ!」
「越前君――私だったら……こう言うのは慣れてるから……」
「な……俺は……越前の為に……」
 塩ヶ崎が言った。
「でも、田代を罵ることはなかったはずだ。そうだろ?」
「う……わ、悪かったよ……」
 塩ヶ崎が渋々謝る。リョーマがノブ子の方を向いた。
「田代……間違ってたらごめん。だけど――アンタ、本当はいじめられてたことがあるんじゃない?」
「う……」
 ノブ子はバタバタと部室を駆け去って行った。
「確かに塩ヶ崎は言い過ぎじゃったが、リョーマもやり過ぎじゃ」
 スミレが言った。「すみませんでした……」と、リョーマも謝った。その後もスミレは話を続けていたが、リョーマはろくに聞いていなかった。

 スミレの話が終わり、部員達は三々五々帰途に着く。リョーマも帰ろうとすると、
「越前君……」
 ノブ子が姿を現した。
「ちょっと――いいかな?」
「田代……」
「もう嵌めたりしないから、ね?」
 ノブ子の顔が笑みの形に歪んだ。彼女なりの冗談のつもりだったのかもしれなかった。

「私ね、前の学校でいろんな陰口叩かれたの。ブスだの、きもい、だの、死ね、だの――」
 ノブ子は分厚い眼鏡を取って涙を拭った。
「それでちょっとおかしくなりかけて――だから、青学に転校してきたの。越前君だっているし」
「…………」
「私ね、雑誌で一目惚れだったの。越前君のこと。同い年で、テニスが上手くて、顔も良くて――」
「アンタ、顔にこだわってたよね」
「うん……だから、さっき越前君が怒ってくれたの、ほんとは嬉しかったんだ――」
 ノブ子は乙女らしい表情を見せる。ほんの一瞬だけ、リョーマは彼女に恋をした。
 過去に向き直り、そして振り捨てた彼女はきっと綺麗になるだろう、とリョーマは思った。
「塩ヶ崎さんには悪いんだけどね――」
 ノブ子はすん、と鼻を鳴らした。そしてまた眼鏡をかけた。
「話は変わるけど、私、転校するの。どっちみちもう青学にはいられないから――」
「田代……」
「確か越前君、私に『女優になったら』って言ったことあったよね。私、その時、どきっとしたの。――私、本当は女優になりたかったから。周りには特殊メイクのアーティストになりたいって言ってたんだけど。けれど、女優になりたいってクラスの皆に知られたら馬鹿にされると思って――。心の秘密を見透かされたようで、私、越前君のことがますます憎くなったの」
「アンタは夢を叶えられるよ。オレ、嫌味や冗談で言ったんじゃないから」
「ほんと、ほんとね。――ねぇ、越前君、私、女優になれるかしら」
「さぁね。自分次第だよ。でも、素質はあると思う。肌は綺麗だし、演技力はあるし」
「んもう、越前君たら――私、誰かを嵌めるのもう止める」
「そうだね。それがいいよ」
 ノブ子も自分の道を歩いてくれたら――それがリョーマの願いだった。掘尾もきっとそれを願うだろう。
「ありがとう、越前君。あなたが私の初恋でした」
 ノブ子は手を差し出した。
「握手、ダメ? ――ダメだよね」
「ううん」
 リョーマはその手を取った。
「アンタ――今まで着ていた重いモン脱ぎなよ。そしたら楽になれる」
「越前君もね――ねぇ、リョーマ君て、呼んでいい」
「別に好きに呼んでいいよ」
「今までありがとう、そしてごめんね――リョーマ君」

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2016.8.26

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