リョーマの戦い 3

 彼女が転校してきたのは夏休みも終わってまだ間もない頃のことであった。
「田代ノブ子です。宜しくお願いします」
 リョーマは特に気にも留めなかった。ただ、平凡そのものな子だな、と思ったぐらいで。顔はよく言って中の上、くらいだろう。しかも田代は重たそうな眼鏡をかけている。それも素材の良さを幾分減じていた。
「田代の席は――と、越前の隣が空いてるな」
 ああ、そういえば。
「宜しくね、越前君」
 ノブ子はにっこり笑った。邪気のなさそうな笑みだった。
「ああ……」
 笑えば可愛くなるんだな。リョーマはそう思った。皆、笑えば魅力的になる。別に四天宝寺中の肩を持つ訳ではないが。
「教科書は? 前の学校と同じの?」
 何となく気になってリョーマはノブ子に訪ねた。
「ああ、はい……気にしてくれてありがとうございます」
 その様がちょっとおかしくて――リョーマはふっと微笑んだ。

 休み時間。転校生には様々な質問が湧いてくる。と言っても、ノブ子は平凡を絵に描いたような女の子だったから集まって来た人数はそう多くはなかったが。女子の方が多い。
「ノブ子ちゃん、部活決めた?」
「うん。テニス部のマネージャーになる予定なの」
「うちのテニス部も有名になったもんね。越前君のおかげで」
「あ、越前君、知ってます――雑誌にも大きく取り上げられて」
 ノブ子がおずおずと言った。リョーマは興味なさそうにくぁ……と欠伸をした。
「ノブ子ちゃん、越前君のことどう思った?」
「え? えと……」
「隠さなくていいよぉ。越前君狙いの子結構多いんだ。まぁ、小坂田さん程じゃないけどね」
「私、テニス好きなの。で、テニスの全国大会で青学優勝に導いた越前君てすごいな……て」
「そうだよねー。でも、テニス部ってマネージャーっていたっけ?」
「確かいなかったよ」
 二人の女子生徒が顔を見合わす。
「ノブ子ちゃん、どうしてマネージャーなの? テニス好きなら、この学校、女テニあるけど」
 女テニは、はっきり言って弱いんだけどねー、とクラスメートが笑うと、リョーマが「うるさいんだけど」と一言。言われた女子生徒は軽く肩を竦めた。
「私、運動音痴なの。でも、マネージャーならできるかな、と思うの」
「そんなに簡単にできると思わないけど。マネージャーって力仕事多いよ。この間もミーハーで入った女子が三日で辞めたんだから」
 全国大会優勝。その看板ができるとマネージャーになりたい、という女の子が殺到した。一応入れてみたマネージャーは短期間でやめた。
「私、前の学校でもマネージャーやってたの。私、足は遅いし瞬発力もないけど力だけは負けないつもりよ」
 そう言ってノブ子は力こぶを作るジェスチャーをする。――できないんだけど。
 リョーマはへぇっと思った。話の真偽はともかく、確かに彼女は嘘や冗談などを言うキャラクターではなさそうだから、マネージャーの話は本当だろう。
「田代、テニス部のマネージャーになるんだって? ――俺、堀尾。テニス歴二年なんだけど」
 馴れ馴れしく話に割って入ったのは堀尾だった。
「堀尾君ちょっと黙っててよ」
「えー、でも、同じテニス部なんだし」
「堀尾君、田代さん好きになったの?」
「えー、そんなんじゃねぇよ」
 堀尾が、かかか、と笑う。このキャラクターは鬱陶しいが少し貴重かもしれない。
「俺もいつかレギュラー入りすんだぜ。越前と一緒に青学の選手として戦うんだ」
 堀尾が越前の頭をぐりぐりと撫でた。
「――邪魔なんだけど」
「冷てぇなぁ。お前と俺の仲じゃん」
 キーンコーンカーンコーン。
「あ、予鈴鳴った。じゃ、行くからな、俺。田代マネージャー、これから宜しく」
「まだ決まった訳じゃないんだけど……」
 堀尾は自分の席に戻って行った。リョーマは溜息を吐いた。今は苦手な古典の時間だ。不二先輩に後で見てもらわねば。
 この時は誰も疑わなかった。この平和が音を立てて崩れるのを。

 ノブ子が転校してきて一週間が何となく過ぎた。ある日、リョーマはノブ子にテニスコートの裏に呼ばれた。
「何? 話って」
「あのね、越前君。――私、あなたのこと好きになりました! 付き合ってください!」
「――悪いけど俺、好きな人いるんだよね」
「え? 越前君てテニス一筋じゃないの?」
「俺だって人間だよ。人を好きになることだってできるよ。つか、勝手にイメージで決めないでくんない?」
「……これは最後の手段だったんけど――」
 ぶつぶつ言うとノブ子は服をビリビリビリッと自分で裂いた!
「きゃああああああ!」
「な、何だ? 今の悲鳴は!」
「こっちだ!」
 ノブ子がぐすぐすと泣いている。第一印象を取り消さなくちゃなぁ、とリョーマは思った。こんなにすぐに泣けるなんて、彼女なら女優にもなれるかもしれない。制服を引き裂く力もあるし。
「越前君が、越前君が……」
 ノブ子がひっくひっくとしゃくり上げている。
「越前君が告白してきて――断ったら服を破かれたの……」
「よしよし。まぁとにかくこれでも羽織ってよ」
「不二先輩……」
 不二が青学ジャージをノブ子に貸した。
「越前がそんなことするとは思わないけどね。服は破れているから――」
「先輩ッ! 俺は――!」
「何をしている。お前ら」
 手塚がやって来た。ここに到ってリョーマは気が付いた。自分は嵌められたのだ――と。

 だが、最初大多数はこの噂に半信半疑だった。理由は簡単。ノブ子が平凡過ぎたからである。それに、テニスに真剣に打ち込むリョーマがそんなことをするとはどうしても信じられないという声も多かったのである。それに、リョーマは151cmの可愛い顔。どちらかと言うと彼の方が襲われそうだ。
(何それ)
(越前君が田代襲う訳ないじゃん、あんなブス)
(越前君だったら私が襲われた~い)
 結局、リョーマが女性の同情票を買うだけで済むかと思われた。しかし、確かに一部では可哀想な被害者と言うイメージをノブ子に対して持つ生徒達もいたのである。そして、ノブ子は抜け目なかった。
「おはよう……」
「おはよう、ノブ子ちゃん。って、その痣!」
「え? あ、あ、これね……」
 ノブ子はリョーマに目を遣った。リョーマと目が合った。――と、リョーマがふい、と視線を逸らした。極めて自然に。ノブ子はカタカタと震え出した。
「何? どうしたの? ノブ子ちゃん」
「誰かにやられたの?!」
 田代派(いつの間にかそんな派閥ができたのである)の数人の男女がノブ子の周りに集まる。ノブ子が口をもごもごさせる。ノブ子は最初は転んだの何だの言ってたけれど、クラスメート達は追及の手を止めない。どうやら誰かにやられていると決めつけているらしい。
「う……だから、本当に転んだんだって……」
「転んだって、どこで転んだの?」
「う……だから……その……階段で……」
「まぁまぁ。よしよし、保健室行こ。ね」
 保健室に連れて行かれそうになったノブ子は、突然泣き出して、本を読んでいたリョーマもびっくりの発言をしてくれた。
「脅されてたけど本当のこと言う! 私……! 越前君に傷つけられたの!」
 リョーマがノブ子に散々酷いこと言った挙句、サンドバッグ代わりに蹴ったり殴ったりした――今度の噂は容易に広まった。塵も積もれば山となる。前の噂ももしかして――という具合に話が動いたのである。
 そして――次の日、堀尾以外のクラスメートがリョーマの敵となった。
「よぉ、越前」
「よく学校来れたわね。恥知らず」
 どんなに酷いことを言われてもリョーマは我関せず、と言った態で席に着いた。着こうとした。
「――?」
 そこにはあるはずの椅子がなかった。

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2016.6.8

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