リョーマの戦い 26

「はい。はちみつレモン。体が温まるわよ」
「サンキュー、菜々子さん」
「はい。跡部さんにも」
「済まねぇな。――おお、うめぇ」
「ありがとう」
 菜々子はその場にいる皆にはちみつレモンを振る舞う。と言っても、越前家の居間には数人しか人が残っていなかった。
「樺地も忍足もいなくて寂しいな」
「俺がいるじゃない」
「そうだな」
 だが、心ここにあらず、と言った調子で答えた跡部は独り言ちた。
「越前南次郎のプレイ――か」
 跡部は南次郎のテニスを見たいのだろうと言うことは、いかなリョーマでもわかった。
「今からでも観に行けば?」
「ん――でも、お前のことも心配だしな……」
「跡部さん……」
 どうして跡部はリョーマの心のツボを突いて来るのだろう。憎らしくなったり、心がほっこりと暖かくなったり。はちみつレモンより自分の心を温めてくれるかもしれない。
「おいC~」
 芥川慈郎が菜々子の作ってくれた温かい液体を啜る。
「ありがとう。慈郎さん」
「私も菜々子さんには世話になってるわ」
 越前倫子が言った。優しい微笑みを湛えている。今、越前家には束の間の平和が戻っていた。
「おい、樺地。菜々子さんに――と、いねぇのか」
 跡部は樺地がいないことに慣れないようで、いっぺんに落ち込んだ。
「跡部さんは樺地さん離れしないと」
「うっせー、チビ」
「樺地さんも大変だよね。大きな子供がいて」
「こら、リョーマ。お世話になった跡部さんに何てこと言うの」
 倫子の声が険しさを帯びる。
「へぇ……跡部さんに世話になったの? 俺が?」
「あのね、リョーマ……樺地さんと堀尾君が今入院している病院は、跡部さんの財閥が所有しているのよ」
 そういえば、あの病院は『跡部財団記念病院』と言う。ただの偶然の一致とは如何なリョーマでも思わなかったが。
「でも、あそこで働いているのは跡部さんじゃないでしょ? 跡部さんなんてただ財閥の御曹司に生まれただけじゃない」
「リョーマ、あなた、父さんの息子に生まれたのはあなたの手柄じゃないって言われた時のこと、覚えてる?」
「…………」
 リョーマは倫子に対して無言の抵抗をした。
「俺はリョーマの気持ち、わかるような気がするぜ」
 跡部が意外な援軍となった。
「ちょっと偉いヤツの子供は誰でもそう言われるもんだ。だから――実力で跳ね返せ!」
「アンタ、俺に負けたじゃない」
「そうだ――お前は実力で跳ね返したんだ。そして堀尾も――」
 そう。掘尾のは実力だった。別に学力が高かった訳でも、スポーツで目を瞠るような成績を残した訳でもない。
 けれど――堀尾は勝ったのだ。そして、これからも勝ち続ける。勝ち続けなければならない。中一で、そんな戦いの中に放り出されたのだ。しかも、降りることができない。
「堀尾……」
「越前、堀尾に会いに行くか?」
 リョーマはこっくりと無言で頷いた。
 ゆうべ忍足と――堀尾の話をした。彼のリハビリはさぞかし壮絶なものになるだろう。日常生活も送れるようになれるかわからない。
「病院にも、取材陣はいるかもしれんがな――昨日よりはマシだろう。ジロー、お前はどうする?」
「俺は、樺ちゃんに会いたいC~。リョーマの友達なら堀尾ってヤツにも会いたいC~」
「何だ。はっきりしねぇな。――病院にアポ取るぞ」
 倫子はそっと涙を拭いた。
「私も……行ければいいのだけれど……掘尾くんの負担にならないかしら……」
「おば様……」
 菜々子が倫子の背中をそっと撫でてやる。
 堀尾は……たった一人で戦っている。応援したい、力になりたい。リョーマは無力な自分に歯噛みした。
 俺は、テニスしかできない。
 でも、テニスには大きな力がある。井上守を動かした。多くの取材陣を動かした。そして、少し頭が軽そうに見えた芝沙織でさえ――。
 そして、テニスがあったからこそ素晴らしいライバルに出会えた。そして、跡部景吾にも――。
「時間を決めてなら面会できるそうだ。俺様は樺地の見舞いにも行くが、越前、お前は?」
「樺地さんにも、会いたい、です」
 リョーマは途切れ途切れに言った。
 猫を庇ってトラックにはねられた樺地。見知らぬ小動物に、跡部に似ている、と言う理由で無償の愛を捧げた樺地に会いたい。
 堀尾に会いたい。自分を一生懸命小さな体で覆って心を温めてくれた堀尾に、会いたい。
 そして――ノブ子に会いたい。
 どうしてそんな風に自分を鎧うようになったのか、知りたい。どこで人を貶めるほど傷ついたのか、知りたい。知っても何もできないかもしれないけれど――。
 でも、今は無理だ。まず、堀尾と樺地に会いたい。
「越前……可哀想だC~」
 ジローが泣き出した。自分のどこが可哀想なのか、リョーマにはわからなかった。むしろ、自分では恵まれている方だと思っている。
 堀尾のおばさん……リョーマは堀尾良子に謝りたくなった。偉そうなことを言ってごめんなさい、と。謝って済む問題ではないが。
 リョーマはぎゅっとズボンの布を握り締めた。
「樺ちゃんも可哀想だC~」
「ああ、そうだな」
 跡部がジローに頷きかける。
「だが、当事者は自分のことを可哀想がっているゆとりなどないもんだ。――あの田代でさえそうかもしれん」
『病める者は幸せだ』――リョーマの頭に不意にそんな言葉が浮かんだ。何故かはわからない。ノブ子も何らかの病気だ。もう既に精神を病んでいるのかもしれない。
 俺も――正常ではない。この頃体がおかしい。クラスメート達から受けた暴力のせいもあるかもしれないが。
 けれど、病は必ず癒される。その理念の元に医者や病院があるのだ。
「母さん……病院まで付き添ってくれる?」
 倫子の目元に涙が浮かんだ。
「ええ……行くわ」
 独身時代、アメリカの理不尽なコーチの暴力から子供を守ったことのある、正義感の強い倫子のことである――この話は主に南次郎から聞いたのだ。倫子自身は昔の話よ、と言っていた。――堀尾が自分と重なったのかもしれない。
「いいのか? おばさん」
「ええ――堀尾くんにも会いたいし、お礼が言いたいわ……もし、状況が許せばだけど」
 この人がリョーマの母――越前倫子だった。母に惚れた南次郎は目が高かったのだと、リョーマは改めて父を誇らしく思った。そして、母のことも。
「ついて来てよ。母さん」

 病院の前には跡部の言う通り、取材陣が集まっていた。だが、その他にも動画を撮っている者がいた。明らかに一般人だ。こいつら全員殺してやりたいとリョーマは激しく憎んだ。
 だが、テニスは、そんなリョーマの心を癒すことができる。今はそれどころではなかったが。
 倫子の姿にもフラッシュは容赦なく焚かれる。気の強い倫子だが、今は黙って俯いていた。
 ――強いな、おばさん、と跡部が小声で言った。母がいつ何を言うかわからないな、とリョーマは思った。爆発する寸前の風船みたいなものだ。倫子は実は怒ると男である南次郎よりも恐ろしい。南次郎も恐ろしい男ではあるが。
 その恐ろしい夫婦から生まれたのだ。越前リョーマと言う少年は。
 堀尾……守ってやる。無関係の人間から。好奇心を満たす為だけに動いている人間どもから。掘尾は今、崇高な戦いをしているのだ。俺も戦わなくてどうする。
「想像していたより……ひでぇな」
 跡部が秀麗な眉を顰める。跡部にはわかるまい。掘尾や自分がこの数日間、どんな地獄で生きていたか。しかも、それはまだ生ぬるい方なのだ。
 人を地獄に突き落とすのは――誰もが心に住まわせている悪意だ。
 田代ノブ子個人を突き落とすのは容易い。だが、リョーマは、自分の中の悪意と戦う決意をしたのだ。
 堀尾への軽侮は確かにあった。だが、友情もまた存在していた。今は彼の勇気を尊敬してさえいる。そして――愛。エロスではなく、アガペーの、愛。
 心は千変万化する。でも、全てはひとつなのだ。それは、一番崇高な感情。もしかしたら愛以上のものかもしれない。
 リョーマは、堀尾を抱き締めたくて仕方がなかった。樺地の話を聞きたくて仕方がなかった。愛とは何か。それはリョーマにはわからなかったが、あの二人――そして倫子に、例えば、どうして俺や猫や見知らぬ子供を庇ったの、と問うたら『いつの間にか体が動いていた』と答えるに違いない!
 それは俺もだ――リョーマは思った。俺にもある感情なのだ。全ての感情が自分の中にあるのだ。
 今、集まって動画やブログで面白半分にニュースを友人に伝えている者、個人の尊厳を何も考えずに踏みにじる者――その中に、まかり間違えば自分もいたかもしれなかった。唾棄すべきではあったが、同時に強い憐れみも覚えた。

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2016.8.16

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