リョーマの戦い 24

 ――兄貴がいた。
「チビ助。偉くなったな」
 そう言って、ぽん、と頭を叩いた。
 気が付いた時には、その兄はもういなくなっていた――。

「越前……」
「忍足さん……?」
 今まで跡部とじゃれ合っていた時の忍足の顔はもうない。今いるのは、将来有能になるであろう、少しロリコンの気の入った医者の卵の忍足侑士の顔だった。
 青みがかった宵闇の中で、忍足と部屋で二人きり。
「接待は跡部に任せとき。あいつは酒は年齢的なものもあって飲めんが、人をあしらう術には長けている」
「俺……」
 ズキン、と右肘に痛みが走る。
「――肘か」
 忍足が丸眼鏡を直す。
「何それ、跡部さんのインサイトの真似?」
「おん」
 その返事にどういう意味があるのかリョーマにはわからなかったが、まぁ、いいか、と思い直した。
「今までよう生きとったな。越前。偉いで」
 そう言って忍足はリョーマの頭を撫でる。
「掘尾も偉いで。ちょっと聞いたとこによると、あっちは肘がとっくにイカレとるらしいがな。背中もやられとるし」
「…………」
 リョーマははらはらと涙を流した。
「一時は最悪の場合、植物人間になるかもしれんと言ったヤツもおるらしいで。掘尾はすぐに持ち直したがな。それから院長が独断でな――自分らに会わせたのは友達がいた方が意識の回復も早いかもしれんて」
「堀尾……」
 何て俺は馬鹿だったんだろう。掘尾は俺とは違うステージで、遥かに大きな戦いをしていたのだ。
「でも……堀尾は、元気そうだった……」
「ムリしとったんやないかな。一生懸命気ぃ張って。でも、その顔に浮かぶ笑いは本物やったと思うで。堀尾から友達との楽しい時間は奪いとうないって、院長言うとったわ。まぁ、今のところ命に別状はないようやが、もしかして一生車椅子かもわからへんわ」
「…………」
 今ならわかる。良子の辛さも。掘尾の父は気を奮い立たせて、何とか妻を支えてやろうとしていたのだ。何という精神力の強さだろう。
 そう言えば、堀尾には芯の強さも見られた。カチローが意外に勝ち気なのは知っていたが。
 堀尾の戦いは、まだこれからなんだ。
 堀尾の力になってやろう。リョーマは思った。一生かけてもいい。彼の好きなテニスで、彼と……。
「忍足さん、俺、ダブルスやろうかな」
「あかん」
 忍足は厳しい声で言った。
「ダブルスは甘いモンやない。俺がダブルスプレイヤーやからよく分かる。ダブルスに必要なのは同情やなく、信頼や。越前、お前、堀尾に背中預ける気ぃあるか?」
 そう改まって問われると……。
「わから、ない……」
「自分は根っからのシングルスプレイヤーや」
「でも、やってみなくちゃ……わからないでしょう」
「そうやな。でも、堀尾はお前の足を引っ張りたくない。そう考えていたら、どうする?」
 確かに自分にはダブルスは向いていない。けれど、堀尾を自分も好きなテニスで支えたかった。
「俺な……生きているだけでいいと思うねん」
 忍足は続けた。
「生きていることに意味があるねん。ただ生き続けること。それだって大変なんや。如何に生かすか。死んだらあかん。安楽死には俺は反対や。人間、いつか死んでいくんやから、これから生きて行く者の為に、例え体が動かなくなっても、せめてラストサービスぐらいして欲しいんや」
「でも……」
「自分の思とったこと、言わせてもろたわ。それに――人生には奇跡という大チャンスがあるねんから。――こんなこと言うたら、親父に怒られそうやわ。『こんドアホ。偉そうな口ききおって』って」
「忍足さんのお父さん……」
「そうや。医者や。せやから俺も医者を目指しとる」
「そうだったんだ。知らなかった……」
「氷帝と青学が仲良くなったのはごく最近のことやからな。その前は犬猿の仲やったしな」
「跡部さんはサル山の大将だしね」
「上手いこと言うやんなぁ。跡部がサル山の子分やったら俺らはサルの子分か?」
「かもね」
「リョーマ、話聞いてくれてありがとう。人間生きて行く為には誰かの支えが必要なんや」
 リョーマは、今まで自分は一人で生きて来たと思っていた。父も母も自分のことを知らない。自分が何を好きかも知らない。洋食より和食が好きなことを知らない。父のふざけ癖を密かに馬鹿にしていたことも知らない。
 自分がどんなにテニスが好きかも知らない。
 自分、自分、自分――結局自分のことばかりだったのだ、とリョーマは思った。
 跡部はどうなのだろう。リョーマは跡部のことなら何でも知りたかった。どんな本が好きか、誰を愛しているか。飼っているペットの名前さえ。
 例え、それが一過性のものだとしても――。
「自分、誰か好きな人おるか?」
「はい」
「誰や……」
「……跡部、さん……」
 誰にも知られたくなかったこの思い。忍足には預けてもいいような気がした。
「それは――素直に応援できへんわ。まぁ、見てて気付いたがな。気付かん方がどうかしてるわ」
「……皆は、まだ、気付いてないと思う」
「まぁ、氷帝と青学やからな。ロミオとジュリエットやないけど、成就するのは簡単やないわ。榊先生も渋い顔するやろし。もしかして越前、気を付けないと海外に売られるやもわからんわ」
「――榊先生って何者なの?」
「知らん。跡部にもわからんらしい」
「ますますもって何者なの?」
「本当はそう悪い人やないと思う。厳しいけどな。なれ合いを激しく嫌っとる」
「氷帝なんてなれ合いじゃないのさ」
「おっ。言うやないの。心外やわ」
 忍足の台詞に怒りの響きが少し入り混じった。
「青学は全員仲良くてええわ」
「何それ皮肉?」
「アホ。皮肉やないわ。特にテニス部は自分らを守ってくれた、たった一つの場所やろ?」
「……うん」
 いつも、テニス部だけが憩いの場だった。
 規律に厳しい手塚。
 穏やかに微笑む不二。
 いつも愉快な菊丸。
 優しい青学の母、大石。
 その力強さでチームを支えた河村。
 見た目は怖いが情にあつい海堂。
 やんちゃな兄貴のような桃城。
 冷静なようでいて熱い血も流れている乾。
 いつも自分を応援してくれたカツオ、カチロー、そして――堀尾。
 あの頃に帰りたい。まだ青学が平穏だったあの頃に。
 けれど、それはノブ子を否定することになるのではなかろうか。リョーマはふるふると首を横に振った。
「何や、どうした」
「ある、女の子のことを思い出してしまって――」
「それは?」
「俺を嵌めたヤツで――もう皆知ってるでしょ? ニュースでやってたなら」
「おん。やっとったな。名前は知らんが」
「演技力生かして女優になったらって言ったら『こんなブスが女優になれる訳ない』って――」
「トラウマやな。その娘、別嬪さんか?」
「割と化粧次第でどうにでもなりそうな顔っス」
「その娘――もしかしてブス、と言われたのがコンプレックスなんやないか? 人は弱点を突かれると、例え今までどんなにがんばってても死を選ぶことだってあるんやで」

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2016.8.12

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