リョーマの戦い 21

「アタシはどうすればいいんだろうね。別に揚げ足を取るわけではないんだが」
 スミレが呟いた。堀尾の父は妻を支えながら言った。
「……やっぱり聡史に訊いてみます。ほら、良子、しゃんと立って」
「……ごめん、なさい……」
 少々頭の冷えた堀尾良子は虚ろな声で謝罪した。
「聡史が死んだ訳ではないのにね。まだ希望はあるわ――」
 そう言いながらも、良子はあらぬ方を向いていた。
「越前君――ありがとう」
 堀尾の父は礼を言った。
「俺の方こそ――もう何度も堀尾には助けられました。今まで生き続けられたのも――堀尾君やテニス部の人達のおかげです」
「隠しても無駄なようだから言うが、妻は少し心が弱くてね――聡史みたいな明るく元気な子が生まれたのが不思議なくらいで――」
「良子さんも明るい人だと思うよ。あたしゃ。ただ、今はちょっとショックが強過ぎたかねぇ。堀尾は元気なムードメーカーで、青学中等部テニス部にはなくてはならない存在ですよ」
 スミレがのんびり言う。まるで世間話をするみたいに。それが、堀尾の父の心を溶かしたのであろう。
「聡史に、訊いてみます」
「良子さんのことはアタシに任せて。どうせほんの少しで終わるだろ?」
「ええ」
 堀尾父がいなくなると、スミレは良子の頭を撫でた。
「偉かったね。良子さん」
「竜崎先生――」
 良子はスミレのことを知っているみたいだった。堀尾はテニス部の部員だったのだから、どこかで会うこともあったのだろう。
 スミレには、人の心を掴む何かがある。越前南次郎だって、きっとスミレに惹かれていたのだろう。
 バアさん、アンタも最高だよ――。
 そして、テニス部だけはリョーマを信じた。あの荒井でさえ。
 テニス部に入って良かった。いろんなテニスに出会えたから。
「越前君……聡史が君とだけは話をしたいと――」
 堀尾の父が戻って来た。
「わかった。ごめんね、カツオ、カチロー」
「行ってらっしゃい」
「越前くん、がんばって!」
 カチロー達に見送られながら、リョーマは堀尾の父について行った。
「父ちゃん……越前……」
 疲れたのだろう。堀尾にはいつもの元気がない。
「父ちゃん、悪いけど二人きりにしてくれる?」
「ああ、わかったよ」
 堀尾の父は病室から出て行った。
「……ごめんな、越前」
 堀尾は突然謝って来た。
「――何言ってんの?」
「虐めについてさ。俺、最初の頃は越前を殴るヤツを死ぬ程殺したいと思っていたんだけど――そのうち、越前に対する『ざまぁ見ろ』という感情が膨れ上がって来て――最低だよな……」
「堀尾だって蹴られたりしたじゃん」
「でも、俺は越前より軽かったからな。扱いが。良くも悪くも。越前には裏切られた……そう思ったヤツも少なくないんじゃないかな……」
「…………」
「俺もさ、本当はお前のことが憎かったんだ。自分がどんどん嫌なヤツになりそうで……お前を庇ったのも……俺自身が俺のことを許せなかったからなんだ。テニスができなくなったのは、天罰だと思うぜ」
 堀尾が窓の外を見た。
「――あー、テニスやりてー」
 リョーマもテニスをしたかった。この怪我が治れば……。そして、堀尾と打ち合いたかった。
「俺、九州の名医に委ねてみるわ」
 この少年もいろいろ考えてはいたのだ。だが、日頃の行いからして、堀尾は何も考えていないように見えた。心の弱い母。堀尾は何とか母を慰めようと思ったのかもしれない。――お調子者キャラは素かもしれないけれど。
「それがさ、堀尾。それだったら九州行かなくてもいいみたいなんだ」
「――え?」
「手塚部長を治した医者が――東京にやってくるって」
「マジかよ! やった!」
 リョーマがくすり、と笑った。
「何だよ。……越前」
「いや、堀尾は笑っている方がらしいな、と思って」
「あったりまえだろ。だって俺、幸せだもん」
 父や母に愛されて、のびのび育ったであろう堀尾。母がほんの少し心が弱くても、母を勇気づけながら雑草のように生き抜いてきたであろう堀尾。
 リョーマはある思いに突き動かされた。
 ――リョーマは堀尾の額にキスをした。
「――え?」
 日本ではキスは特別な好意を意味することが多い。だが、帰国子女のリョーマにとっては、このくらいのキスは当たり前だった。
「お前が好きだよ。掘尾」
「越前……?」
 これではまるで愛の告白ではないか。だが、堀尾は自分の心の秘密をリョーマに教えてくれた。だから、それには応えねばならない。
 けれど、言っておくけど、恋ではない。
「好きだけど……恋じゃないからね」
「うん。お前、アメリカから来たんだよな。アメリカではこういうキスすんのか?」
「まぁ……」
 リョーマは言葉を濁した。やはり少し恥ずかしかったのだ。ここは日本だから。
「恋は……別のヤツだろ?」
「――まぁね」
「竜崎? 小坂田?」
「さてね」
 リョーマがふふふ、と含み笑いをした。
「小坂田、越前にマジだぜ」
「でも、アンタのことも見直したって」
「そりゃあね。俺も本当は俺のことかっこいいって思ったもん」
 リョーマが笑い出した。
「何だ?」
「やっぱりヒーロー気取りだったんだ」
「え? あの時は何も考えてなかったけど? ただ、越前を守らなければならないという一心で……」
「アガペー……」
「何?」
「無償の愛のことだよ。神の愛って意味があるらしい」
「あー。授業で言ってたな。そういえば」
「井上先生だよね。あの先生ってすぐ脱線するよね」
「そこが面白いんだけどな」
 普段は寝ている堀尾も、井上の授業の時だけは起きている。
「トリビアになりそうなネタばかり仕込んでくるんだもんな」
「そうそう。気になったところはネットで調べたりしてさ」
 いろいろな話をして二人が笑い合ってると(堀尾はしばしば痛そうに顔をしかめていたが)、まだ若い看護師が来て言った。
「越前さん、そろそろ……」
「そうだった。バアさん達待たせてあるんだった」
「竜崎先生だろ? カツオやカチローと一緒に来たんだってな」
「送ってくれたのは有り難いけど、バアさんは運転荒いよ」
「そうなの?」
「普段はそうでもないんだけど、今日の運転は荒かった。怒ってたのかもしれない」
「誰に?」
「――パパラッチどもに」
 それから自分自身に。スミレもまた遣る瀬無さを感じていたのかもしれなかった。

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2016.8.4

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