いつか思い出になる日が来ても 5

 そう、私は一人逃げたのだ――。
 竜崎さん、今頃何してるかな。堀尾君は? 越前君は?
 私は事実をニュースで観たこととスミレ先生や友達から教えてもらったほんの少しのことしか知らない。
 別に、転校しなくても良かったのだ。両親が転校を勧めても、私が断ればいいだけの話だった。
 でも、氷帝に来たのは、今の青春学園に行きたくなかったから――。
 今は授業中。窓の外を見遣る。青い空が綺麗。
 でも、もしかして、氷帝学園でも同様の事が起きていたのなら。そしてその標的が跡部さんだったとしたら。
 何て皮肉なことだろう。
 でも、私はもう逃げない。跡部さんを護ることはできなくても、せめて、信じることはできるだろう。
 テニス部のレギュラーの人達(跡部さん達はもう引退してたけれど)は皆いい人達だった。それに、跡部さんが人に嫌がらせするような卑劣な人間には見えない。おそらく、少しナルシストの気があったとしても。
 竜崎さん――。
 私は竜崎桜乃ちゃんのことを思い返していた。
 竜崎さんは、今の青学をどう思っているのだろう。
 田代さんが越前君を嵌めた。そう言う話を聞いたけど、田代さんも本当は悪い子ではないみたい。もう転校してるけど。
 越前君も堀尾君も立ち直って来ているそうだ。――情報通の友達から教えてもらったところによると。
 お父さん、お母さん。私の知っている青学の人達は皆いい人達だったよ。

 キーンコーンカーンコーン。授業が終わると、生徒達が三々五々出て行く。部活の時間だ。
 まぁ、私には関係ないけど――。
「やぁ」
 馴れ馴れしく肩を叩いた人がいた。私はそちらを向いた。誰だろう。この人。顔立ちは整っているけど、魂が抜けてる感じ。
「俺、八束正則。宜しく」
「あ、えっと……山本優子です。宜しく」
「余計なこと言うようだけどさ――跡部には近付かない方がいいよ」
 この人までそんなこと言うの?
「――本当に余計なことですね」
「だって跡部は……君には向かないよ」
「私に向くかどうかは私が決めます」
「仕方ないな……じゃあ、ここだけの話――あいつ男好きだぜ」
 え?
 今、何て言った?
「男が……好き?」
「ああ。樺地のこと妙な目で見やがるし、周りに野郎侍らせてるし――」
 皆まで言わせず、私はパァン!と八束君の頬を叩いて逃げた。
 今考えると逃げることはなかったかもしれない。けれど――八束君の台詞には讒言の匂いがした。
 ――八束正則との出会いは最悪であった。
 まぁ、跡部さんが男好きだろうが、私には関係ないんだけどね。
 それよりも――猫ちゃんのお墓に十字架を作ってあげよう。ロープってホームセンターとかで売ってるのかな。

「おい」
 低い声が降りて来た。跡部さんだ。
「顔色が悪いぞ。どうしたんだ?」
「私、嫌なこと聞かされて――」
「嫌なこと? ――どんなことだ」
 跡部さんが怪訝そうに眉を顰める。私は言った方がいいと腹を決めた。
「八束正則って人が――跡部さんを男好きだって……あ、勿論私はそれでも構わないよ。跡部さんて男の人にもモテるだろうし」
「八束ね……あいつにも困ったもんだ」
 跡部さんがふぅっと溜息を吐く。
「俺は女が好きだぜ。気の強い美人がタイプだ」
 そんなこと誰も訊いてないんだけど――。でも、ちょっとほっとした。
「八束君が言ったことは嘘だったのね」
「そうだな」
 跡部さんは心ここにあらずという風に返事をした。やっぱり、ちょっと心配……。
「お前はもう帰るだろ?」
 跡部さんの言葉に、私はこう答えた。
「私――猫のお墓に飾る十字架作らないと……」
「だったら俺様も協力してやるよ」
「――ありがと」
 その時だった。校庭を越前君が走ってくるのが見えた。
 越前君? 何で? どうしてここにいるの?
「越前君!」
 私は大声を張り上げた。
「あ、山本先輩。ちーっす」
「どうしたの? 氷帝学園に遊びに来たの?」
「ま、そんなようなもん」
 何だろう。越前君の答え、引っかかるな。
「竜崎さんは元気?」
「元気だよ。それより跡部さん」
「ん?」
「打ち合いでもしない?」
「そうだな……それよりもまず、猫の墓の十字架作ってやんないと。どうせ俺はもう引退した身だし」
「猫の墓?」
 越前君が訊き返す。私達は今朝のことを越前君に話した。越前君は、
「優しいんですね。山本先輩」
 と、言ってくれた。私は優しくなんかない。あの見なかったふりをしたカップルがいなければ、私も放っておいたと思う。
 私、優しくなんかない。越前君だって大変なところだったろうに――青学から逃げてしまった。竜崎さんも置いて。
 スミレ先生とはお互い連絡取り合っているけど――。
 転校初日だけど、氷帝学園にもいろいろな問題がありそうなのはわかった。特に跡部さんについて。でも、跡部さんとは友達になれそう。お父さんとお母さんには内緒にしておこう。
「俺も行くっス」
 と、越前君。良かったね。猫ちゃん。越前君もお墓に来てくれるって。
 越前君が跡部さんを見ている。跡部さんが越前君の方に目を遣ると、ふい、と視線を逸らす。
 あ――。
 私は知った。知ってしまった。
 越前君は、跡部さんが好きなのだ。
 同類だからわかる、その気持ち。
 でも、優れた先輩に憧れると言うのはこの年頃では当たり前の話だし――。跡部さんは美形だし、エレガントだし、テニスもきっと上手いし――。
 あ、そうだ。私、まだ、跡部さんがテニスをしてるところを見たことがない。
「山本先輩――」
「越前君。跡部さんてテニス上手なの?」
「まぁね。俺には敵わないけどね」
「ちっ、んなろ。今度は負けねぇからな」
「さぁ、どうでしょうね」
 越前君が嬉しそうに笑う。やっぱり、跡部さんのことが好きなんだなぁ……。恋かどうかわからないけれど。この二人だったら微笑ましく見ていられる。
「行くぞ。越前、山本」
「勝手に仕切んないでくださいよ。跡部さん」
「越前はテニスをしに来たんならここに残るか?」
「俺も行くって言ったでしょうが!」
 そうだよね。せっかく跡部さんに会いに来たんだもんね、越前君は。テニスもしたかったんだろうけど。

 ――私達はロープを買うと、林に落ちていた適当な木の枝を組み合わせて十字架を作った。私は後で花を買ってお供えすることにした。

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2017.3.14

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