俺様の美技に酔いな 8

(初恋、か――)
 リョーマはパジャマに着替えて目を瞑った。
 跡部景吾が立っていた。顔はよく見えない。だが、その少年が跡部景吾だと言う確信がリョーマの中にあった。
「リョーマ……」
 跡部が言った。――その瞬間、目が覚めた。
「あ……」
 頭がズキズキして痛い。でも、学校には行きたい。青春学園にすっかり馴染んだリョーマであった。
 控えめだが優しい桜乃。その親友でリョーマのファンクラブ会長をもって任じる小坂田朋香。お調子者だがいい奴の堀尾聡史。
 そして、テニス部のメンバー達。というか、テニス部の人達の方が身近に感じられるのだが。――そして、今までどこか距離があった不二先輩も。
(朝練……)
 いつもより早起きしてしまった。目覚まし時計より跡部の声の方が効き目があるらしい。――跡部は夢に出て来ただけだが。
 ――何であんな夢見たんだろ。
「カルピン……」
「ほあら~」
「お前は恋したことある?」
 ある訳ないよな。カルピンはまだ子供だ。カルピンはまた鳴いた。何と言ったのかは猫ならぬ身のリョーマにわかるわけがない。だが、元気づけてくれようとしているのは何となく伝わった。
「カルピン……猫になってお前と恋したかったよ」
「ほあら~」
 カルピンは鳴いたが、カルピンにもご主人様のリョーマが何を言ったのかはわからないであろう。お互い様だ。それに、猫になったって、カルピンと恋できるかどうかわからない。カルピンはオスなのだ。
(跡部さんと俺もオスなのに――)
 人間はややこしい。猫になりたいとリョーマは思った。猫になってカルピンと一緒に一日中ごろごろ出来たらどんなに幸せだろうとリョーマは思った。それに近いことはしたことはあるが。
 それに、リョーマにはテニスがある。
 テニスはリョーマの生き甲斐、いや、人生そのものだった。生まれてからリョーマの傍にはいつもテニスがあった。
 そして、跡部景吾もテニスプレイヤーだ。岬に無理矢理連れて行かれたとはいえ、テニスがなければ跡部に会うことはなかった。尤も、跡部はリョーマのことは知らないが――。
「カルピン……」
 リョーマは誰もいないのを確認すると、カルピンのモフモフの毛皮に顔を押し付けた。いい匂い。最近洗ってあげたから猫用シャンプーの匂いがする。そうでなくても、猫は元々あまり臭くないのだそうだ。
 カルピンは大人しくされるがままになっている。人の好き嫌いの激しいカルピンだが、リョーマのことは好きなようだ。
「行って来るね……」
「ほあら~」
 カルピンはリョーマに顔を擦り付ける。頑張って、というように。何という優しい猫だ、とリョーマは思った。カルピンは南次郎のことはよく揶揄っているようだが、倫子とリョーマにとってはいい子だ。
 リョーマは制服に着替えると、階下へと降りていく。
「あら、リョーマさん」
「おはよう菜々子さん」
 菜々子はいつも通りの長いロングヘアーだ。彼女からは時々、良い香りがする。
「今日はね、リョーマさんの好きな和食よ」
「へぇ……」
 リョーマはごくんと生唾を飲む。朝御飯が和食なんて何日ぶりだろう。そういえば味噌汁の美味しそうな香りが漂っている。
(やっぱり言ってよかったな――)
 心を躍らせながら、リョーマは扉を開ける。南次郎が新聞を読みながら言う。
「おはよう、青少年」
「お……おはよ」
 南次郎の初恋はどうだったのであろうか。こんなにふわふわして地面に足がつかない、そんな物だったのだろうか。南次郎は、やはりリョーマが恋したことに気付いたのであろうか。
 南次郎と恋の話がしたかったが、どうもエロ話に持っていかれて終わり、になってしまいそうな気がした。そんな風にリョーマに思わせるのは、南次郎にも責任がある。
 倫子がご飯をよそっていた。今日のメニューはほかほかご飯に味噌の匂い立つあつあつの味噌汁。おかずはサバの味噌煮、秋田フキと油揚げの煮つけ、ひじきの煮物、沢庵だ。
(天国だ……)
 リョーマがついそう思ってしまった。涎が垂れて来たので学ランの袖で慌てて拭く。
「秋田フキは昨日知り合いから貰って来たのよ。だから、今朝は秋田フキの煮つけ、とは決めていたんだけどね」
 倫子が説明する。
「おう、母さん。やれば出来るじゃねぇか」
「やぁね、父さんたら……私だってこのぐらいはやれるのよ。ただ、洋食が好きなだけで」
 倫子は嬉しそうだ。
「父さんとリョーマがそんなに喜ぶんなら、一日おきに和食にしたっていいわよ」
 リョーマは何も言わなかったが、倫子にはリョーマの様子で喜んでいるのがわかったらしい。ぐ~っとリョーマのお腹が鳴った。味噌汁の匂いは食欲を増進させる。
 それにしても、倫子は本当に家族を愛しているのだ。そして、南次郎や菜々子も。
(幸せだな……)
 感激しながらリョーマは久しぶりのご飯をゆっくり味わうように噛み締めた。――リョーマも食べ盛りの少年だ。それに、好物が並んでいるとなると、食器を全部空にしてしまうのは当然ではないか。
「ご馳走様。母さん……手伝いしてあげよっか」
「ありがとう。リョーマ。でも、もうすぐ桃城くんも来るでしょ? 気持ちだけで充分よ」
「そうだ、桃先輩!」
 リョーマがちらっと時計を見た。何だ、まだ時間あんじゃん。
「まだ時間あるよ」
「じゃ、私が洗うからそこにある食器を拭いてちょうだい」
「わかった」
「何だ? 悪ガキ。点数稼ぎか?」
「親父は黙っててよ」
 リョーマは南次郎に向かって、べぇ、と舌を出した。
「あらあら」
 菜々子が手で口元を隠して笑う。菜々子はまだ食べている。彼女は食が細い。けれど、出された物はきちんと食べる。食事の量があまり多くないだけで、特に好き嫌いはないらしい。
 ――食器拭きが終わった時、インターフォンが鳴った。桃城だ。
「はぁい」
 菜々子が玄関に駆けて行く。
「おはようございます、菜々子さん」
 菜々子と快活な桃城の声が聞こえる。
「おはよう、桃先輩」
 ラケットバッグを携えてリョーマも玄関に来る。
「よぉ、元気そうだな、越前!」
 桃城が手を振って喜んだ。――とても後輩想いの優しい男なのだ。リョーマはいつも桃城の自転車の後ろに乗っけてもらう。後ろに荷台はないから立ったままで――危険なんじゃないかという声もあるにはあるが。
「おかげ様で今日は早起き出来たよ」
 跡部さんのおかげで――ね。
 起きたばかりの時はちょっと頭痛がしたものの、ご飯をしっかり食べているうちに癒されてきた。やっぱり和食は最高だ。
「じゃ、越前借りていきまーす!」
「ちょっ、桃先輩っ。俺は物じゃないんですから――」
 ラケットバッグを背負ったリョーマが桃城に引っ張り出される。
「桃城さん、またね。今度は何か食べに家に寄ってください」
「そいつはありがてーなありがてーよ。じゃあな、菜々子さん」
 菜々子はふふっと笑う。どうやら桃城にはえらく好印象を抱いているらしい。
(菜々子さんはこういうタイプが好みなのかな――)
 リョーマは思った。そういえば、菜々子の一目惚れの男もどうやら体育会系の男らしい。しかも、ラケットバッグを持っていたというから、多分テニスプレイヤーだ。
(ま、菜々子さんだったら相手はすぐ見つかるよね。一目惚れしたという男も外見に特徴があるみたいだし)
 ――それにしても、菜々子は面食いではなさそうだなぁ、とリョーマは考える。女の人の方が顔にはこだわらないのかもしれない。
 まぁ、どんな顔にせよ、心の綺麗な人がいいよね。
 菜々子の人を見る目をリョーマは買っている。早く結婚して楽しい家庭を作って欲しいなと願う。菜々子にだったらそれが出来るだろう。彼女は今はまだ二十歳の現役女子大生だけれど。
(菜々子さんの人探しなら、協力してもいいなぁ)
 普段世話になっているから――リョーマは注意深く人を見てやろうと考える。
「今日は怖くねーのな。越前」
「何? 桃先輩、俺が怖かったの?」
「そうだよ。――誰か殺そうとしているような目って俺、言ったじゃねーか。すげぇ迫力あって、見た時ビビったもん。それに――昨日は玄関出る時から何か殺気立ってたし、そのくせ意味ありげに笑ったりして」
「桃先輩でもそう感じることあるんスね……まぁ、心当たりがないでもなかったっスけど」
「さては――恋か?」
 桃城はズバリと言い当てる。リョーマは身ぬちがかっと火照った。

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2019.02.04

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