俺様の美技に酔いな 74

 清澄な空気。目の前には――高い崖。
 この崖を登ってもらうと齋藤は言っていた。テニスに何の関係があるのか訝しがったら、世の中には無駄なものは一切ない、と、一般論で片付けられた。
(それにしてもなぁ――)
 崖は、ずおぉぉぉんとド迫力でリョーマと金太郎の前に聳え立っていた。あの崖を登るのは骨が折れそうだ。――だが、不戦敗とはいえ、自分は負けたのだ。試合し合ったら、絶対自分が勝ってたのに――。
 川に流されたことはあるが、崖を登るのは初めてだ。南次郎は、お前の修行になる、と言って喜ぶだろう。あの人も大概変人だから――。
「なんやおもろそうやん。なぁ、コシマエ」
 人の気も知らないで、金太郎が笑っていた。流石は金太郎というべきか――。なるほど、自分とは正反対だ。だからこそ――ライバルになるのかもしれない。
「さぁ、そろそろ来る頃ですねぇ……」
「誰も来なかった時はどうすんの?」
 リョーマが一応訊く。
「その時は二人で登ってくださいね。――けれど、絶対彼らは来ます。ここで待ってみましょう」
 そう言って、齋藤は金太郎とリョーマの肩に手を置く。二人は齋藤に気に入られたみたいだ。
(――自分がでかいから、小さい人が好きなのかな)
 小さい人。――自分で思って、リョーマは少し落ち込んだ。まぁ、これでも、春よりは伸びているのだが……。リョーマはそっぽを向いた。
「あ、ほら、着ましたよ」
(ほんとに来たんだ――まぁ、ただ負けて帰るような人達ではないと思っていたけれど)
 リョーマはそれでも心のどこかで驚いていた。そして、流石だ、と思った。
(跡部さんがここにいないのは残念だけど――)
 けれど、跡部は勝ち組なのだ。それはそれでいいとしよう。彼に勝つのは己しかいない。きっと跡部も強くなった。そんな跡部と対決するのも、楽しみのひとつであった。
 しかし――。
 その前に、この崖を何とかしないといけないらしい。ここからが僕の本当の仕事です――と、齋藤が言った。
「勝ち残った方に差を広げられたくないと思った方のみ、この崖を登ってみられてはどうでしょうか」
 皆が、崖――と目を瞠った。
(そうだよね――いきなり崖登れって言われても、意味わからないよね)
 リョーマも軽井沢で似たような理不尽な修行を南次郎にやらされたが――これもまた訳のわからない条件だ。
 でも、皆、「おーっ!」と声を張り上げた。
(うーん……馬鹿馬鹿しいけど、やるっきゃなさそうだね)
 不戦敗になったのは、リョーマ自身の責任だ。本当なら勝っていたはずだ。山吹中の南。テニス部の部長ではあっても、リョーマはこの男を敵だと思ってはいなかった。同じ山吹中なら、亜久津の方が何倍も手強いであろう。
 ――リョーマ達は崖を登り始めた。
 まず最初に、桃城の怪我が悪化した。桃城は鬼十次郎と戦って手首を痛めたのだろう。スポーツとは非情なもの。敗者に情けをかけても仕様がないのだ。
(にも拘わらず俺は――跡部さんのことが気になる)
 敗者として尚、コートに君臨した王者。あの時はリョーマが勝ったが、この次はどうなるであろう。
 ――いや、弱気になってはいけない。跡部が成長するのと同じように、自分もまた成長した。それよりも、桃城はどうなったのであろう。
「その程度の傷で尻尾巻いて逃げるんなら、帰って後悔でもするんだな」
 海堂が、桃城に喧嘩を売っている? 否。海堂と桃城がまたすぐにいつもの言い合いを始めたが――。
「乗れ」
 海堂が屈んで桃城に言った。
「続きは頂上についてからだ」
 いろいろあって――結局桃城は海堂におぶってもらうことになった。海堂が力いっぱい説得したのだ。一度はリタイアを考えたらしい桃城だが、
「這い上がるんじゃねーのか!」
 この海堂の一言が決め手となって、桃城は海堂に背負ってもらうことになったのだ。
(へぇ……あの二人もやるじゃん。特に海堂さん……見直したよ)
 喧嘩ばかりしていると思っていたけれど、これは理想のパートナーかも知れなかった。この二人が自分の先輩であることをリョーマは密かに誇った。そして、自分も負けていられない、と思った。
 あの二人に負けないように――自分も誰かに世話になったら恩返しをするのだ。リョーマは固く心に誓った。
 鷲が飛んでいる。
「まずいぞ、海堂! そろそろお前も限界だ!」
 乾が叫んだ。データテニスをするだけあって、海堂の状態がわかるのだ。
「う……うるせぇ……」
 海堂は頑張って登ろうとする。自分の体力を犠牲にしてまで桃城を頂上まで連れていこうとする海堂はとても崇高に見えるが、こんなところで潰れて欲しくなかった。
「海堂……俺はもういい、もういいぜ海堂!」
「馬鹿野郎! 海堂薫をなめんじゃねぇ!」
(海堂先輩――)
 この瞬間、リョーマの頭の中を天啓が閃いた。――次の青学の部長になるのは海堂薫だと。それは、そこにいる皆が思ったことだった。
 その時、パチィンと指を鳴らす音がした。そして、低めの美声。
「樺地、桃城を担いでやれ」
 この声は――跡部さん?!
 樺地は、ウス、と答えて言う通りにした。だが――跡部は今はここにいないはず。ということは――。
「プリッ」
 声の主は仁王だった。声色も使えるとは流石である。樺地でさえ騙すとは――。
 いや、樺地は騙されたのではない。もし、跡部がここにいても同じことをするはず。樺地は――命ぜられたことをやったまでだ。
(すごいね、先輩達――)
 さしものリョーマも舌を巻かずにはいられなかった。
 ようやっと中腹まで来た。誰かが言った。
「頂上に待つのは、天国か、地獄か――」
 リョーマは思った、天国ということは有り得ないだろう。ということは――。
(きっと地獄が待ってるっスね――)
 しかし、ここまで来て逃げることは出来ないし、逃げる気もない。災難よ、どんと来い! ――というところである。
「仁王さん、樺地さん、海堂――ありがとうございました!」
 桃城が三人に向かって礼をした。
「――ふん、礼を言うのはついてからにしろ」
 海堂がぼそっと言った。彼の頬がほんのり赤くなっているのをリョーマは見逃さなかった。
「ワイ、先行って見たるでぇ~」
 金太郎はいつも元気だ。リョーマでさえ肩で息をしているというのに。ああいうのを自然児というのだろう。いつも元気いっぱいで、皆に可愛がってもらえて――。
 そういえば、俺も生意気だと言われてる割には、皆に良くしてもらってたな――リョーマは思い出に浸っていた。その時、ボールが崖の上から転がり落ちて来た。
 リョーマ達は崖の上へと打ち返した。そうした方がいいと思ったからだ。
 そうしなかったら、今頃、崖の上で特訓していた少年達はボールを拾いに崖を降りなければならなかったのだ。中学生達が苦労して登った崖を。
 ――崖の上には、酒を飲んでいる男がいた。男が言った。
「遅いぞ。ガキども」
 中学生の他に、脱落した高校生の何人かも、崖の上で特訓をしていたらしい。その意気や良し! ――リョーマは思っていた。
「負け組諸君――地獄へようこそ。わしがここのコーチの三船じゃ」
 この崖の上のコーチは、三船入道と言うらしい。
(あの人、こんな酔っ払って大丈夫かなぁ……)
 リョーマは密かに危惧した。だが、三船にはおっさん臭さもあったが、それによるカリスマも確かにあった。
 穴を掘らされ、その穴にジャージを埋めさせられた。常識外れではあったが、この人には何かある。そう思わせるものが、三船にはあった。
(ただの酔っ払いでないといいんだけどね――)
 しかし、酔っ払いなだけだとしたら、齋藤が中学生を託す訳はない。しかしこの男、相当無茶苦茶なこともやりそうだ。
「次は中学生と高校生の試合じゃ。負けた方は今晩は洞窟で野宿せい!」
 中学生は、最初は足場の悪い慣れないコートで戸惑っていた。だが、乾と柳が見事なコンビネーションを見せた。後少し――後少しで中学生チームが勝つ。だが、そこで無情にもタイムアップである。

 中学生は寝袋で野宿をさせられた。
 お化けが出そうや、と金太郎が騒ぐ。
「ば、馬鹿馬鹿しい。何がお化け……」
 海堂の声が震えている。マムシと仇名された男も、幽霊には弱いらしい。そこで――海堂は何かを見たらしい。
「うわぁぁぁぁぁ! 出た~~~~!」
「落ち着け。海堂。それは山吹中の東方だ」
 乾が冷静に突っ込む。というか、まだ寝ていないようだった。
「先輩達……静かにしてください……」
 リョーマはそう言って夢の中に陥って行った。寝袋は一応寝心地が良かった。皆、寝静まった――ちょうどそんな時間に、ガンガンガンと大きな音が鳴った。
「中学生ども! 夜練じゃ! 素振り一万本じゃ!」
 三船コーチであった。それにしても、夜三時に素振り一万本とは――やはりリョーマの第一印象通り、三船入道は型破りなコーチであった。リョーマも練習に向かおうとすると、忍足謙也や田仁志慧と共に呼び止められた。

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2021.01.01

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