俺様の美技に酔いな 73

「足元、気をつけてくださいね~」
 齋藤がのんびりと間延びした声で言う。草木の匂い、枯れ枝の匂い――齋藤とリョーマと金太郎はしばらく森林浴としゃれ込んでいた。木漏れ日が暖かい。
「あの――齋藤さん?」
「は~い。何ですか~?」
「どこへ向かってるんスか? 俺達……」
「何や、コシマエ。心配なんか? 大丈夫や。この兄ちゃんが案内しとくれてるんやから」
「そういうこと。ボクを信じてついて来てくださ~い」
「……よっと」
 リョーマがパキッと枯れ枝を踏んだ。金太郎が根元に蹴躓いて転んだ。
「ふぎゃっ!」
「ほら、気をつけてって言ったばかりでしょうが~」
「うわ~ん! 擦りむいた。痛い~」
 金太郎が泣き出した。やれやれ――と、リョーマが溜息を吐いた。これでは先が思いやられる、と。
「ねぇ、俺達、不戦敗だったんだよね。――俺、結局南さんと戦わなかったから」
「は~い、そうですが……強くなりたければ負けた方が良かったかもしれませんねぇ……」
 齋藤は意味深なことを言う。リョーマはハテナマークを飛ばす。――それよりも気になることがあった。
「あの……跡部さんは……」
「あ~、あのイケメン君ですか。――彼は勝ったみたいですね」
「……そっか」
 ほっとしたと同時に悔しかった。自分で降しておいてなんだが、跡部には敗北は似合わない。いや、似合い過ぎるのかもしれないのだ。似合い過ぎて――似合わない。
(また、跡部さんと再戦出来るかな)
 向こうはきっとそのつもりでいる。彼もリョーマのライバルなのだから。
(ライバル……だよな)
 リョーマは口元を手で押さえた。彼の唇の感触がよみがえる。
 唇へのキス。跡部もリョーマも帰国子女だし、リョーマだってそんなことでうろたえる程初心ではない。ケビンの母もよくキスをしてくれた。――でも、違うのだ。根本的に。何かが。
(跡部さん……あれ、告白だよね……好きって言ったし、俺に恋してるって言ったし……合意の上でキスしたし……)
 けれど、テニスは自分の全て。こればっかりはリョーマも譲れない。例え、相手が跡部であったとしても――。敵として立ち塞がるなら、誰だって倒すのみだ。それが、リョーマのテニスだった。けれど――。
(――俺、夢見た訳じゃないよね……)
 リョーマは跡部との口づけの記憶に酔った。ああ、そうか、これも、『俺様の美技に酔いな』なのかもしれない……体の内側が火照ってくる……。
「どうしたんや~、コシマエ~」
 金太郎はいつもの溢れる元気さで尋ねてくる。
「……考え事。アンタは怪我、痛くなくなったの?」
「おん、平気や。かすり傷やし。こんなもん珍しくも何ともないで」
「――じゃあ、どうしてさっき泣いたの?」
「コシマエに心配して欲しかったからや!」
 金太郎がニカッと笑った。
「あっそ」
 リョーマはすたすたと歩いていく。金太郎は面倒くさい。でも、その面倒くささも魅力のひとつであろう。
(俺も大概面倒くさいしね――)
 跡部が心配してくれたら――自分も嬉しいかもしれない。でも、それとこれとは別。
 金太郎とはそもそも友達ですらないし――純粋なライバルだ。背丈だって似たようなものだし、同い年だし。
 金太郎は、年上には好感持てているのではないかと思う。生意気だと言われるリョーマとは大違いだ。にも拘わらず、二人の根っこには同じものがある。それが、ライバルというものなのだろう。
(――ま、そのうちいっちょ手合わせしてあげるとするか)
 遠山金太郎は強い。これから更に強くなるであろう。
「ねぇ、遠山」
「はいな~。――珍しいやんなぁ。コシマエがワイの名前呼ぶの」
「だから、コシマエじゃないって……」
 それに、呼んだのは名前じゃなくて名字だし――。齋藤がクスクスと笑う。
「ああ、ごめんなさ~い。キミ達の~邪魔をする気はなかったんだけど……」
 でも、結果的には邪魔をした。
「――まぁいいけど。遠山って、いつも楽しそうだよね」
「おう、ワイ、テニスが好きになってもうてん。ワイなぁ、昔は浪速で暴れてたんやでぇ。コシマエと喧嘩しても負けへんでぇ」
 金太郎は華奢でチビな外見にも関わらず、かなりの力持ちだ。彼の浪速の武勇伝も各方面から伝わっている。リョーマはあまり興味がなかったが。
「でも、コシマエとの決着はテニスでするって決めとるんや! その方がバアちゃんも喜ぶで」
「アンタの祖母もテニスやってたの?」
「ちゃう。おスギバアちゃんっていう、伝説のプロテニスプレイヤーや。もう死んじゃったんやけどな……そのバアちゃんからラケットもろてん」
「ああ、そのボロいラケット……」
 思い出したことがある。リョーマの父の南次郎が言っていたことだ。
(日本テニス界の礎を築いた大恩人からラケットを託されたガキがいるぜ。――将来、お前のライバルになるかもな)
 それが、この遠山金太郎だと言うのか……! ――可能性は充分あるが。
「ワイ、日本一のテニスプレイヤーになったる。バアちゃんへのお礼代わりや」
「ふん」
 リョーマが不敵に笑った。
「狙うなら世界一……でしょ?」
 リョーマが言うと、金太郎は目を輝かせた。
「さっすがコシマエや! 決めた! ワイは世界一のプレイヤーになったる! コシマエ、覚悟せぇ!」
「……俺も、アンタと戦うの楽しみにしてるから」
「ふふふ、青春ですねぇ……」
 齋藤が密かに笑う。
 テニスだったら誰にも負けない。あの跡部にも――。勿論、金太郎にも。リョーマは追い風が吹くのを感じた。何とも言えない爽快感。今のリョーマにとってテニスに勝るものはない。
(俺は――誰にも負けない!)
 宙を飛んでいる感じだった。リョーマは腕を広げた。テニスが縁で出会った跡部。彼も、もしかしたら自分と同じような感覚を持ち得たことがあっただろう――。
 体中を快感が走った。リョーマは立ち止まった。
「ん? どうした? コシマエ――」
 金太郎が振り向く。リョーマはまたもふっと不敵に笑った。
「――まだまだだね」
「あん?」
 金太郎が首を傾げる。無理もない。リョーマは今、幸せでパンク状態なのだ。この瞬間に生まれ出たような――。金太郎には、リョーマの今の気持ちは理解出来ないかもしれない。
「そっとしておいてあげてくださいね~、遠山クン」
 齋藤がそっと、金太郎の肩に手を置いた。齋藤には、リョーマの今の状態がわかるらしい。
「クールな子かと思ってたけど……ちゃんとハイになることも出来るんですね~」
 こんな感覚は初めてだ……いや、初めてではない。忘れていただけで、過去にもきっとあった。
(テニスをしていた時も、こんな感じだった……)
 初めて試合をした時も……多分、感じていただろう。リョーマはいつもテニスと共にあった。その頃の南次郎は憧れの存在だった。そして、兄リョーガも……。
(兄貴――)
 何か掴めそうで掴めない。リョーガとの思い出もあらかた流されてしまった。軽井沢の川の流れと一緒に――。
(でも、俺には兄貴がいた。頼りになる兄が)
 南次郎も思い出してやってくれと言っていた。確かに自分は薄情かもしれない。けれど――いつも、世話になった存在には、恩返しをしたいと考えていたのだ。――リョーガにも……跡部にも。
「もうすぐ目的地に着きますよ~」
 齋藤が相変わらず緩い感じで喋る。
「もうすぐお仲間が来ますからね~」
 お仲間? 何のことだろう――リョーマと金太郎は顔を見合わせる。森が開けて来た。目の前には――大きな崖。
「わぁ、めっちゃ大きな崖やん!」
 金太郎が叫ぶ。ここでロッククライミングでもするという目的か。――けれど、テニスと何の関係があるのだろう。齋藤がリョーマの顔を覗き込む。
「訝しんでますね。越前クン」
「当たり前でしょうが。こんなところでテニスすんの?」
「今から、君達にはこの崖を上ってもらいます。――負けた人達と一緒にね」
「――だから、それがテニスと何の関係があるの……」
「世の中には、無駄というものは一切ないのですよ。越前クン」
 ――齋藤が黒い瞳をリョーマに据えたままにやりと笑った。読めない人だな――リョーマは思った。齋藤至。背は異様に高いし、長い髪はひとつに結わえてあるし――それはどうでもいいことだが。

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2021.12.25

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