俺様の美技に酔いな 7

 リョーマはしばらくぼーっとしていた。南次郎が目の前で手をはたはたと振って見せる。
「おーい。リョーマ。父ちゃんだぞー」
 いつもの優しい、頼りになる父親。ちょっとエッチだけど、大らかスケベなところは馬鹿にしながらも認めていた。
「リョーマ。泣かないで――」
 南次郎を夫と心に決めた、気高く美しい母親。
「リョーマさん……」
 優しさと可愛らしさを兼ね備えた従姉。
 俺だけ――汚い。
 どうして越前家に生まれることが出来たのだろう。テニスの才能が与えられて、家族に恵まれて――。
 もう、思い残すことは何もない。いや、まだ残っている。跡部景吾のことだ。
「俺、もう寝る!」
 リョーマがどたどたと階段を上がって行った。
(母さん――リョーマが恋をしているぞ。それも熱烈なヤツをな)
 ドアを閉めたら階下での声は聞こえないはずなのに、何故か南次郎の声が脳裏に響いた。
(俺も経験あるからわかるが、こういう時は日記や詩を猛烈に書きたくなるんだ。――読み返して黒歴史ってことも少なかねぇが)
 リョーマはぎくりとした。確かに心の底の方から衝動が起き、南次郎のいう日記だの詩だの、そんな何かを書きたくなっていたのだから。
(ふぅん、あなた、どれぐらいそんな恋をしてきた訳?)
 今度は倫子だ。
(よせやい。母さん。――昔の話だ。母さんにも本気で恋したぞ。あの頃はテニスがあったからその情熱をテニスに全てぶつけていたがな――母さんは俺のテニスの女神様だった)
(まぁ……)
(倅はさしずめテニスの王子様ってところか。ま、王子様って柄じゃねぇけどな。後、あいつがあまり思いつめてなければいいがな)
(じゃあ、私が見に行ってあげましょうか?)
(――頼む。母さんならあいつも少しは素直になるだろう)
 トントントン。階段を上がる音が響く。母倫子だ。
 ――ノックが鳴った。
「リョーマ。開けるわよ」
「どうぞ。勝手に入って」
 きぃ、と扉の軋む音がした。リョーマに似た顔の倫子が入って来た。リョーマにはわからないが、倫子は美人だと学校でも専らの評判だ。
「どうしたの? リョーマ」
「別に……」
 早く一人になりたい。
「一人になりたいのね。顔に出てるわよ」
「う……」
「リョーマは嘘が下手ね。父さんと違って。――父さんは世界一の大嘘つきだもの。リョーマは私に似たのね」
「テニスの女神様って……あれ?」
「やぁだ。聞いてたの?」
 倫子はころころと笑う。
 じゃあ、あれは空耳じゃなかったんだ……下での会話なんて聞こえる訳ないのに……。
「父さんには気をつけなさいよ。くせものなんだから――」
 そう言いながらも倫子は満更でもなさそうだった。
「青学にもくせものって呼ばれてる人がいるけど――」
「桃城くんのことね」
「うん――」
 不思議だ。桃城の名前が挙がった瞬間、リョーマは些かほっとした。桃城は頼りになる兄貴のような存在だ。
「ずばり訊くけど――リョーマ、あなた恋してるの?」
「――う……」
 してるとも言えない、してないとも言えない。どう言おうかと思案していると――。
「私、嬉しいわ。リョーマが恋を知って」
「か、母さん、俺、恋してるなんて――」
「今の態度はそう言ってるようなものよ」
「う……うん」
 やっぱり母さんには敵わないな――リョーマはそう思った。父さんもくせものかもしれないが、母さんだって充分くせものだ。似たもの夫婦ということだろう。
「頑張ってね。そうそう。あまり思いつめないようにね。相談だったらいつでも乗るわよ」
「う……うん……」
 リョーマの初恋は倫子だった。南次郎との関係を知るにつれて、一人で寂しく泣くこともあったが――。
(おとうさんはいいな。おかあさんがいて)
 ひっそりそう思ったこともあった。今は昔の話だ。だから、つい最近解散した国民的アイドルグループの歌っていた『らいおんはーと』を聴くと胸が苦しくなる日がしばらく続いた。アメリカでもその曲は有名だったのだ。
(跡部さん……)
 俺のハートは跡部に奪われてしまった。もうこの先、普通の穏当な恋愛は出来ないだろうと思うくらいに。
 もう、母に恋い焦がれていた子供の時とは違う。あの季節とは永遠にお別れしてしまった。その次に現れた太陽の季節。跡部さん……。
(跡部さんは、俺の太陽だ……)
 どんなに憎んでも、恨んでも、失った時を惜しんでも、それは変わらない。跡部の存在が遠い過去に消えてしまっても――。そんなことは絶対ないように思えるけれど。
 リョーマは中学生の少年に可能なだけの純粋な思いでもって、跡部に恋していた。
 ――八百屋お七や不二の気持ちがわかったような気がした。恋に身を焼いた人達。それに憧れる人々。――でも、リョーマにはただ憧れることは出来なくなった。
 自分がそうなってしまったのだから。
 テニスさえあれば良かったのに。自分には、テニスだけあれば良かったのに。
 テニスの女神様と恋の女神様が自分を取り合っているように、リョーマには、した。
「じゃ、私はもう行くわね。リョーマ意外と冷静そうだし」
「あ……あの……母さん……」
「何?」
「あの――いつか、全て話せる時が、来るかな……」
「それはリョーマ次第ね。まぁ、私もちょっと心配のし過ぎかな、と思っているけどね。――父さんもね。父さん、あれでいろいろ考えているから」
「うん……」
「リョーマに秘密が出来て、母さん嬉しい。思春期ってそういう時期でしょ?」
「そうなの……?」
「恋は大きな秘密よ。大切にすることね」
「わかった」
 リョーマは大きく頷いた。子供と大人の季節の狭間で、リョーマは確実に成長していた。後は――何らかのきっかけが見つかればいいだけ。
 もう、答えは見つかっているのかもしれない。
「ありがと、母さん」
「うん、うん――明日はリョーマの好きなサバの味噌煮作ってあげるわね」
「ほんと?!」
 思わず涎が出そうになったリョーマは、自分もまだまだ色気より食い気かとほんの少し呆れた。でも、中学生として、大人への階段を着々と歩んで行っている。
(小学校はアメリカのに通えて良かったな――)
 日本の小学校の何が嫌いかと言えば、あのダサいランドセルが嫌いだ。黒や赤しかなかった昔の人達は可哀想だと思う。と言って、水色やピンクなど、もっと嫌だ。
 ――アメリカには良い思い出がいっぱい詰まっている。時々ホームシックにかかることもある。友達も沢山いた。
 そして――兄。
 兄の越前リョーガは、幼い時、自分の前に現れた。南次郎とどういう関係なのかは知らない。でも、リョーガとリョーマは血が繋がっていると言っていた。自分にはわからない大人の事情があるのかもしれない。
 世界は、自分が思っているよりも遥かに複雑でドラマチックなのかもしれない。自分のいた世界だってそうだ。
 そして、リョーマはこの世界を愛している。自分や跡部景吾がいるこの世界を。
 今度は氷帝に行ってみようかな。
 自分一人で訪れる度胸はまだない。跡部だって本当はただのどこにでもいる少年かもしれない。行ったって幻滅するだけだろう。恋の魔力に憑りつかれていても、リョーマは明敏な子供だ。夢と現実の差ぐらい心得ている。
 その現実を見るのが――怖い。
 と、同時に、現実に向き合いたいと言う気持ちもある。
 母はもういなくなっていた。扉がきっちり閉まっている。カルピンが尻尾をゆらゆらさせながら、「ほあら~」と鳴いていた。
 産んでくれてありがとう。父さん、母さん。
 父と母の馴れ初めは聞いたことがある。横暴なコーチから母は子供を庇ったのだ。そのコーチを成敗したのが、南次郎――父であったと言う話だ。
 二人が結婚して生まれたのがリョーマだ。
 日本に来た時も、父や母の話と同じような目に遭った。リョーマは嫌味な高校生から竜崎桜乃を救ったのだ。――テニスで。桜乃に会ったのは偶然だったが。
 桜乃はリョーマに対して控えめながら好意を現している。リョーマも桜乃のことが嫌いではなかった。でも――あれは恋じゃない。自分にはテニスしかなかったのだから。跡部に会うまでは。

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2019.01.22

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