俺様の美技に酔いな 66

「あ、お皿片付けていい?」
「あ――うん」
 菜々子は水を流しながら、倫子と何か話し合っている。もう、この風景ともお別れなんだ。寂しくない訳じゃない。ただ、この風景は久々でもあるのだ。
 ――スミス家を思い出す。鼻歌を歌いながら、上機嫌でご飯を作っていたスミス家のおばさん。
(またスミス家に遊びに行くか)
 スマホにも菜々子のお洒落着姿の写真がある。それを送ってやろうとリョーマは思っていた。ケビンは喜ぶだろう。――ケビンの父も。
 クスッと、リョーマは笑った。
「あらぁ、なぁに? リョーマさん。思い出し笑いなんかして」
「何でもないよ。菜々子さん」
 まだ、朝食の残り香のする食卓。南次郎が煙草をふかしながら新聞を広げている。やに臭いとは思いながらも、不思議と嫌な気分はしなかった。
「じゃ、行ってきます」
 と、リョーマ。
「おう、そこまで送ってくよ」
 南次郎が立ち上がる。
「いいよ。別に」
「送らせてくれ。そのくらいしたいんだ」
 リョーマと南次郎は外に出た。陽の光が昇ろうとしている。リョーマは思わず手をかざした。
「頑張れよ」
「わかってる」
 南次郎とリョーマはグータッチをした。
 ――リョーマはくるりと背中を向ける。南次郎の声が聴こえる。
「いつの間にかいっちょ前に育ちやがって」
 リョーマは『聴こえたよ』と合図をするかのように手を振った。でも、リョーマもまだまだ伸びしろがある。
(――まだまだだね)
 リョーマが口癖のように言い慣わしていた言葉。今もまた、繰り返した。背丈も伸ばさないといけないし。自分はあの南次郎の息子なのだ。きっと立派な体格に育つであろう――と期待する。
 いろいろ問題もあるけれど――自分はあのサムライ越前南次郎の息子だ。
 今は――まずそのことを誇りに思おう。そして、この世に生まれて来たことを。
(俺は――負けない。親父にも……跡部さんにも)
 跡部が何故か自分に好意を持っているらしいことをリョーマも気づいていた。跡部とは、傍にいる戦友よりも、油断のならない敵でありたい。きっと、跡部もそうであろう。
(まぁ、樺地さんが羨ましくない訳じゃないけどね)
 じゃりっとスニーカーで石を踏む。これからも、戦いは続く。
 手塚、幸村、そして跡部――こちらは勝ちを拾っただけ。彼らも手強い敵になっているはず。成長しているだろう。
 楽しみだね――。
 リョーマは帽子のつばを直した。日の差して来た道にリョーマ一人。そのリョーマの口元には、小さな笑みが浮かんでいた。

 ――合宿所までは歩いて行こう。
 リョーマは思った。バスを降りてからのことである。
 バスの中ではいろんなことを考えた。青学の仲間のこと、跡部のこと、そして、八百屋お七のこと――。
 皆、懐かしい思い出である。青学の皆も元気だよ、と、不二が伝えてくれた。桃城と海堂は喧嘩ばかりしているらしい。仕様がない先輩達だなぁと、リョーマは密かに苦笑した。
 来年は桃城武と海堂薫――二人が主軸となって青学を引っ張らなければならないだろうに……少々、先行きが思いやられる。
 そして――
(約束、破っちゃったかな。手塚部長)
 お前は青学の柱になれ――。
 高架下のテニスコートで言われた言葉。手塚は不二でも新部長となった海堂でもなく、リョーマを選んだのだ。青学の柱として。
 けれど、自分はアメリカに渡って行ってしまったから――。
 柱のなくなった青学。堀尾がしばしば様子を伝えてくれるけれど。――だから、リョーマもそんなには心配していなかった。
 不二のメッセージから、八百屋お七のことを思い出した。
 一生懸命、勉強した。あれから、現国も古典も少しはステップアップした……だろう。成績は相変わらずに見えたが、花沢先生は喜んでくれた。越前くんは人間関係の機微について詳しくなったと言ってくれて――。
 勿論、アメリカ人にも、人情の機微というのはあるのだが――。
(アメリカ人の感覚は、こちらと違うのかなぁ――)
 そう思ったのは、八百屋お七の話をスミス家の人間達にした時――。三人ともしょっぱい顔をした。ケビンの父など、
「お七はクレイジーだね」
 などと言っていた。その感想に異論はないが、リョーマには何となく、お七の狂気がわかるのだ。
(跡部さん――)
 桜乃がいるくせに、八百屋お七と言ったら、跡部景吾を思い出す。
 俺はお七の気持ちがわかるよ。
 お七がもし吉三に会うとしたら、心が躍って仕方がないはず。今も、心の臓が躍っている。あの美技をまた見てみたい。
 ――テニスって、勝ち負けだけじゃないんだよね。
 跡部のプレイは確かに美しい。跡部は顔かたちが美しいだけではない。プレイスタイルも――あの青く燃える目も美しかった。
(また酔わせてよ。跡部さん。アンタの美技に――)
 ま、勝つのは俺だけどね。リョーマは心の中で呟く。
「どっこいしょ」
 リョーマの近くにあった岩におばあさんが座った。
「ふぅ、今日は暑くなりそうだねぇ」
 そう言って、おばあさんはハンカチで汗を拭いている。
「――?!」
 すごい荷物だ。このおばあさん一人で運んで来たのだろうか。
「おばあさん、あの、これ――」
「ああ、何だね。可愛い坊や」
 自分は可愛くないと思ったが、今は吃驚が先に立った。
「これ、全部おばあさんが?」
「ああ、そうだよ。私は体力だけはあるからねぇ。昔、テニスもやってたからね」
 おばあさんがにこっと笑った。温和そうな人だ。テニス、と聞いて、リョーマの緊張も解れた。
「おや、坊やもテニスプレイヤーかい?」
 あ、そうか。ラケバ持ってたんだっけ。
「はい、そうですけど」
「テニスは楽しいよ。うちの家族は皆、テニスが好きでねぇ……私もテレビでよく見ていたものよ。私はサムライ南次郎が好きだったねぇ――豪快で繊細で。勿論、南次郎は私より遥かに年下だけどねぇ」
「サムライ南次郎?!」
 リョーマは思わず叫んでいた。こんなところに父のファンがいたなんて。確かにサムライ南次郎は大したテニスプレイヤーに違いない。――越前南次郎はエッチなただの生臭坊主だとしても。
「おや、坊やもサムライ南次郎知ってんのかい。まぁ、有名だから、名前だけは知ってるだろうが……そういえば、坊やは南次郎に似てるわねぇ」
 似てるも道理――
「俺、越前リョーマと言います!」
「越前……もしかして……サムライ南次郎の息子かえ?」
「ええ――」
「それは奇縁だねぇ。私は岡村玲子。テニスで今のだんなに会えたようなものだよ。――まぁ、だんなは南次郎程かっこよくはないけれどね」
 岡村のおばあさんはそう言ってはんなりと笑う。
「いやいや、親父なんてそんな大したもんじゃ――」
「謙遜なさらずとも。サムライ南次郎の出現は、一言で言ったら『衝撃』だったねぇ」
「はぁ……」
 リョーマは少し悔しく思った。こんな通りすがりのおばあさんでさえ、南次郎のことを知っている。リョーマは知名度に関してはそう興味はなかったけれど――。
 リョーマが羨ましく思ったのは、南次郎のことを語る時の玲子おばあさんの表情であった。まるで、恋でもしているような――。
 玲子おばあさんは上品そうな外見である。一挙手一投足にも優雅さが現れている。それに、荷物もよく整頓されている。最初はその量にびっくりしたけれど。
 南次郎は、こんなおばあさんにも影響を与えている。しかも、いい思い出として。
(親父は、やっぱりすごいんだなぁ――)
 昔、南次郎を知っていた人に出会った時のことを思い出す。その人は、嬉しそうに南次郎と話した後、握手とサインを求めた。南次郎は相手が女でないのが残念そうだったが、快くサインを渡した。
(お父さんて、すごいんだねぇ)
 幼いリョーマが言うと、南次郎はこう返事した。
(いやいや。俺を支えてくれた人がすげぇのさ。――現役時代は母さんや、アリッサちゃんに支えてもらったなぁ)
 昔は父がどうして女の話しかしないのかわからなかったリョーマも、もう年頃ではある。父の性格を端的に言うと――『テニス馬鹿の女好き』だ。倫子と結婚していなかったら、アリッサとやらと結婚していたかもしれない。そしたら、リョーマも生まれて来なかった。そのことを思うと、リョーマはぶるりと戦慄いた。
 リョーマは玲子に、『テニスの合宿に行く』と話した。なら、今のうちにサインもらわなくちゃねぇ――せっかく南次郎さんの息子さんに会えたことだし、と玲子は嬉しそうに言った。いずれ、有名になったら価値が出るだろうから――と。

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2021.04.25

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