俺様の美技に酔いな 65

 リョーマも跡部も、家では苦労する。では、何故家から離れられないのか――いや、リョーマは離れられるが、跡部はどうであろうか……。
 その理由は簡単。金だ。
 親は最高のパトロンだ。ある一定の年齢までは。
(だけど、それが俺は嫌なんだ――)
 だから、出て行く。他の者より少し早くとも。第一、親離れしていなければ、跡部を迎えに行くことだって、出来やしない。父からはテニスを、母からは愛をもらった。それで充分だ。
「リョーマさん、梅煮」
 菜々子のその言葉が魔法の言葉であったかのように、リョーマは我に返る。そうだ。今日からはまた家から離れる。我が家の料理からも離れることになる。
(菜々子さんに料理習っておけば良かったなぁ……ご飯、味噌汁、卵焼きぐらいは作れるけど)
 それから――リョーマにとっては洋食もお袋の味だ。
(お袋の焼いたパン、美味しかったなぁ……)
 その記憶を胸に抱いて、リョーマは住み慣れたこの家を離れる。次帰れるのはいつだろうか。
(あばよ。親父、母さん)
 それから――
 カルピンがすりっとすり寄った。言ってくるよカルピン――そう願いを込めて、リョーマはカルピンを抱き上げる。ふわりといい匂いがした。
 リョーマは席に座ってさんまの梅煮を堪能する。南次郎が、「あーっ!」と大きな声を出す。
「何です。父さん」
 母倫子が眉を顰め、咎めるような口調で言う。
「それ、俺の大好物――リョーマが食っちまったぁ……」
 南次郎が嘆く。
「あなた……あなたの好物ぐらい知ってますから、また作ってあげますよ。夕飯に出してもいいんだし。それに、リョーマは……しばらく私達のご飯食べられなくなるのよ」
 合宿所のご飯の方が美味しかったりして。
 リョーマは心の中で毒づいたが、やはり、我が家の味に勝る物なし、と思った。
(スミスさんの家の食事も美味しかったけど、やっぱり食べ慣れた味が一番なんだよね)
 リョーマがさんまをおかずにしてご飯を頬張りながら改めて思った。
「そ……そうだな。今回だけは譲るか」
「親父も大人になったじゃん」
「――リョーマもな」
 南次郎が目を眇めた。他にも何か言いたいようだったが、ぼりぼりと頭を掻きながら、
「俺の飯はどこかねー」
 と、呟いていた。
「あら、おかずだったら沢山ありますよ」
「ありがてえ! ――まずはたくあんだな」
 南次郎が席に着き、手を合わせてからたくあんと共にご飯を食べる。
「旨いか? リョーマ」
「菜々子さんも手伝ってるんでしょ? 不味い訳ないじゃん」
「あら、リョーマ。私の立場は?」
「母さんも上手だけどさ、洋食の方が得意でしょ?」
「あら、わかってるじゃない」
 跡部家も洋食だろうか。前に手紙で好物を聞いたら、なんとかかんとかという訳のわからない、多分イギリスの方だと思う料理の名を言ってきた。調べれば思い出すだろうが、そんな無駄な時間を費やしたくなかった。
 イギリス料理って不味いと評判なんだけどね――。
 前に高口先生が、イギリス料理は口に合わないと言っていた。その時は「ふーん」と聞き逃していたが。
(イギリスには行ったことないからな――)
 イギリスは今、寒いだろうか。どうでもいいことだが――リョーマはアメリカの方が身近に感じる。でも、テニスはイギリスが発祥の地だから、一回ぐらいは行ってみてもいいかもしれない。
「親父――帰ってきたら対戦な」
「望むところだ! ――と言いたいところだが、お前は俺より強くなるよ」
「怪我がなければ、親父だって充分強かったんじゃない?」
「ああ、そうだな――」
「リョーマは父さんの夢なのよ」
「おう。俺はアメリカに行ってでっかい夢を二つも抱えて戻って来たぜ」
「二つ?」
 成長期のリョーマには、まだ足りないんじゃないかと倫子がまたおかずを作っている。米は沢山残っているらしい。皿を出している菜々子が訊いた。
「母さんとリョーマだ!」
「ふーん……」
「『ふーん』て何だ? もっと喜べや」
「別に……」
 リョーマも、嬉しくない訳ではなかった。けれど、表情に出る喜怒哀楽がそんなに激しくないのは思い出せる限り、結構前からだった。あけすけな南次郎からどうしてこんなリョーマみたいな子が生まれたのか。それは誰にもわからない。
 ――けれど、実は負けず嫌いなところなどは南次郎に似ている。テニスで人を傷つける者を許せない気持ちも。
 だって、テニスは楽しむものだ。
 だから、手塚を傷つけた跡部にも当時は怒っていた。だが――あの時は二人とも真剣だった。
 手塚は肩を、そして跡部は魂を賭けた。
 それは、今は中学テニス界の伝説でさえある。リョーマは跡部と――あんな試合がしたかった。その後、見事、跡部を破った。――持久戦の得意な跡部を。
 髪を刈ったのは流石にやり過ぎかな、と思ったけれど、あの完璧な美貌を壊したかった。
(まぁ――ミイラ取りがミイラ……だけどね)
 あの時、リョーマは存分に跡部の美技に酔っていた。
(――俺様の美技に酔いな)
 また、あの声が聴こえてくるような気がする。
 U-17合宿で、またあの人に会えるんだ。また、あの腰に来るような美声を聞くことができるんだ。今度もまた――跡部の美技に酔いたい。
 跡部は国内でも海外でもたいそうな人気者で、一部では『実力の越前、人気の跡部』と呼びならわされているらしい。実力を認められているのは有り難いけれど、人気の点で劣るのは癪に障る。
(でも、跡部さんて、本当はいい人だもんなぁ……)
 跡部だったら許せる。そんな気がする。
「リョーマさん、卵かけご飯食べる?」
「うん。頂くよ。菜々子さん」
「俺も食べたいな」
「はいはい。わかりましたよ。おじ様」
 菜々子がクスクス笑う。そして、作業に戻る。ひらひらの可愛いドレスが舞っている。菜々子はさながら越前家の蝶だ。
(跡部さんが菜々子さんに一目惚れしたらどうしよう)
 一瞬危惧したが、それは杞憂だと思った。菜々子は本当は気は強いけれど、跡部は菜々子の趣味じゃない。――良かった。菜々子さんに跡部さんを取られなくて。リョーマが一人で納得した。
「リョーマ。あんまり食べ過ぎないようにね」
 倫子が言う。リョーマが答えた。
「大丈夫だよ。俺、運動するし、胃腸は丈夫だし」
 健康な体は南次郎と倫子に授かった。それだけでもよしとしないと。両親に少しばかりの反感を持ちながらも、自分が大いに恵まれていることはリョーマ自身わかっていた。南次郎も倫子も、リョーマを優しく見守ってくれている。
 卵に醤油をかけてかき混ぜる。それを温かいご飯にかける。単純だけど、飽きの来ない味だ。目玉焼きを乗っけても美味しい。
「よく噛んでね」
「わかってるよ。母さん」
「それから――」
 倫子は何か言いかけたが、口を噤んで顔の向きを変える。きらり、と涙が光ったような気が、リョーマはした。
(母さん……すぐに帰って来るのに……)
 それでも、母の涙に胸打たれない訳ではなかった。全国大会の終わってすぐ後に日本を離れ、アメリカに出国したリョーマである。放浪癖があるのは、リョーマは自分でわかっていた。
「――元気で帰ってくんだぞ。リョーマ」
 南次郎も言った。きっと、母が言いたいことと同じだったのであろう。
 これも、親の愛というものかなぁ。
 少し前だったら、鬱陶しいばかりだったそれ。でも、今のリョーマには、ほんの少し、気持ちがわかるのだ。
 俺にも、愛する人が見つかったから――。友達も大勢いるし。
 跡部さん、竜崎――。
 どっちがより好きかなんて答えられない。何か、ジャンルが違うのだ。
(はは、俺って最低――。あの二人を両天秤にかけるなんて)
 どちらも人間として優れているのは確かなのだ。竜崎桜乃なんて、リョーマくんのおかげでテニスを始めた、なんて嬉しいことを言ってくれた。
(まぁ、どちらを選んでも退屈はしそうにないけどね)
 桜乃は自分は悪くなくとも、トラブルを引き寄せる体質によって。跡部はそのはちゃめちゃな性格によって。
 俺の周りって変な人ばかりだなぁ――自分のことを棚に上げて、リョーマは呆れて溜息を吐いた。

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2021.02.02

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