俺様の美技に酔いな 64

「リョーガ……?」
「おいおい、母さん……」
 リョーマが言うのと、南次郎が倫子を窘めたのはほぼ同時だった。
「あら、やだ。私ったら……」
「ま、隠さなくってもいいだろう。リョーマとあの子とは血が繋がっているんだから……」
「そうだけど……」
 倫子は舌を滑らせたのに、まだ秘密にしておきたいらしかった。
「いいよ、母さん。無理して言わなくても――」
 そうなだめながらもリョーマは、血が繋がっている大事な存在の人のことを忘れているなんて、やっぱり俺って薄情なのかもな――と少し寂しく思った。それが自分の性分なのだとしても。
 それでもその人の存在のことは、リョーマにとって、心の支えになっていたはずである。そんな記憶がうすぼんやりとしてある。
(それもこれも、親父が修行になんて連れ出さなかったら――)
 リョーマは南次郎を恨んだが、逆恨みであることはわかっている。それに、軽井沢行きだって断ろうと思えば断れたはずなのだ。南次郎に反感を持っても、どうしても従ってしまう自分が悪いのだ。
 だから――家族への説明もそこそこに再びアメリカへ単身飛んだ。南次郎から離れる為に。
 それに、中学テニスの頂点は極めたと思うのだ。跡部もやっつけたし。
「お、目つき悪いな。坊主」
 南次郎は何にも知らない。リョーマの父親に対する錯綜した想いを。
(やっぱり、俺は親父にとっては玩具でしかないんだ――)
 けれど、よく父親業をやっていると言えれば言えるだろう。大事にしてくれるし、ちゃんと注意をしてくれるし、力を合わせて危機を脱出しかけたこともある。結局失敗して記憶喪失になってしまったが。
 ――でも、敵わない。まだまだ。南次郎には。
 南次郎が、テニスに出会わせてくれた。
 そして、跡部達が、自分を引き戻してくれた。
(テニスって楽しいじゃん)
 その想いが、テニスにリョーマを結びつけてくれた。リョーマにはテニスが一番合っていた。一番縁のあるスポーツだった。生まれた時から傍にあった。テニスのラケット、ボール――。
 友達もテニスをやっている人々ばかりであった。そして、今も――。
 沈黙が辺りに落ちた。
「――なぁ、何か言えよ」
 沈黙に耐え切れず、南次郎が言った。
「ああ、はいはい。――リョーマ。今日はあなたの好きなお味噌汁とご飯と……それからさんまが安かったから。菜々子さんも手伝ってくれたのよ」
「おば様、洋食の方が得意なのに、リョーマさんが今日、また家を出ていくことになってしまうからって――」
 ああ、そういえば、さっきから味噌や梅の香りとかがしていたっけ――。
「私も寂しくなるけどねぇ……菜々子さんがいるから大丈夫よ」
「あらやだ。おば様ったら」
「ほーんと、菜々子がいて良かったよ。男なんてすぐに外に出て行っちまうんだからよぉ。――まぁ、リョーマの自立は少し早かったような気がするけどな。もう少し、俺達の可愛いリョーマでいて欲しかったぜ」
「どうせ今の俺は可愛くないですよーだ」
 リョーマはあかんべをする。
「こういうとこはまるきり子供なんだけどなぁ……」
「まぁまぁ。自立が早いのもいいことですよ。――私達の家は、少し訳ありですからね。あなた……サムライ南次郎が家長として治めているということからして既に、ね」
「ねぇ、母さん。父さんは浮気でもしたの? だとしても驚かないけど」
「リョーマ……」
 倫子は悲し気に首を振った。
「わかった。無理して訊かないって言ったばかりだもんね。――ご飯食べるよ」
「いずれ、時が来たら、ね」
「うん」
 実は、すごく知りたかった。けれど、冷めている部分のあるリョーマは、好奇心に流されることなく、テニスに生きようと決め、下に置いてあったラケバをまさぐった。忘れ物はないか調べているのである。
「それよりも母さん、気になることがあるんだけど――」
 と、倫子。
「何?」
「リョーマ、あなた、いつまでパジャマでいるつもり?」
「あ、いっけね」
「着替え終わるまで待ってますからね」
「うん――ありがと」
 カルピンがついて来る。
「あ、何だよカルピン」
「ほあら~」
 カルピンは遊んでくれるものと勘違いしているのかもしれなかった。けれど、そんな猫の無意識の本能がリョーマの心に出来た冷たい塊を溶かして行った。
「邪魔だよ、もう、カルピン……」
 そう言って、リョーマは苦笑しながらカルピンを抱き上げる。カルピンがリョーマの頬を舐める。
「リョーマさん、嬉しそう」
「ふん。あいつはツンデレだからな。特に俺にはツンツンツンツン……」
 ――親父は煩いな。ほんと、よくグレなかったよ。俺。
 けれど――何となく嬉しい。南次郎も倫子も悪い人間ではない。菜々子は天使だ。そして――リョーガとやらも、きっと、悪い人間ではない。そして、リョーマにはカルピンまでいる。
 訳ありな家庭なんて星の数ほどある。問題はそこでどうやって過ごすかだ。リョーマはもうこの家を出るけれど。
 きっと俺は幸せなんだ。リョーマはそう言い聞かせた。幸せを感じることが出来れば、後はもう、些末なことだ。
 俺には――テニスがある!
 今日の為に準備した私服を着る。カルピンと一緒に階下へ行くと、南次郎が微妙な表情を浮かべた。
「おい、お前――」
「何? 家庭の事情ならもう聞かないよ」
「いや、あのな――そのペンダントだがな……」
 リョーマは海苔巻きの上に河童のマスコットが乗っているペンダントをつけていた。
「何? このかぱちゃんがどうしたの?」
「――名前までつけてんのか。もういい……」
 南次郎は頭を抱え、倫子と菜々子は笑いを堪えているようだ。リョーマだけがどうしたのだろう、と不思議がっている。かぱちゃん――そういえば、樺地のことを樺ちゃんと呼んでいる人はいなかっただろうか。
(かぱちゃんとかぶるよな――まっ、いっか。俺、あの人のこと嫌いじゃないし。――全く我儘キング跡部さんの元でよく頑張ってるよね)
 樺地に惚れた菜々子は目が高いと思う。
 まぁ、跡部さんも魅力的なんだけど。
「母さん。あいつやっぱり中一だぜ」
「何言ってるんですか。当たり前でしょう」
「だけど、あいつはやることなすこと大人びていたからなぁ……」
「あなたと同じように暴れることのどこが大人びているんですか。昔のあなたにそっくりよ。リョーマの血の気の多いところは本当に――」
「母さん、それは言いっこなしだぜ。そういうところが良くて結婚したんだろ?」
「もう、あなたってば本当に仕様のない人……」
 そう言いながらも倫子は満更でもないようだった。
(リョーガとか言う人より、この二人をどうにかしたいよね)
 そう思っているリョーマも自分が微笑んでいるのがわかる。もう、早く合宿所に行って皆と会いたい。帰ってきた時には、本当にきょうだいが一人か二人増えているかもしれない。
(ま、この家に生まれたのも運命か――)
 でも、高齢出産はきついよ、母さん。
 リョーマが密かに倫子の心配をしていると、菜々子がリョーマの肩をちょんちょんと突いた。
「リョーマさん。今のうち。さんま、おじ様のもあげるから」
「ほんと?」
「そうよ。さんまの梅煮。リョーマさんも好きでしょ?」
「大好き!」
 食事で釣られるなんて、我ながらちょろいなぁ――リョーマはそう考える。こういうところは、南次郎に似たのかもしれない。
 その南次郎と倫子は思春期の息子の前だと言うのに、まだいちゃついている。リョーマは少し複雑な気分になった。
 親父は本当に浮気したのかもしれない。
 それとも、倫子と結婚する前に誰かと付き合ってたとか――南次郎は女好きだから、そんな浮き名が流れるのも仕方ないと頭ではわかってるのだが――。
(親父のフケツ!)
 ――心では納得しきれないものらしい。リョーガというのは何者なんだ。リョーマは今すぐ詰め寄りたい気分に駆られたが、傍には倫子がいる。倫子を困らせたくはない。というより、リョーマは南次郎より倫子のことが苦手なのだ。
(この家は母さんでもってるからな――)
 南次郎とは別の意味で、リョーマは倫子に逆らえなかった。倫子はああ見えて女傑である。流石、南次郎と結婚しただけのことはある。
 俺は、早くこの家を出なくちゃならないんだ――リョーマはぶちぶちと心の中で文句を言いながら跡部のことを考えた。跡部は跡部財閥の当主の子息である。自分とは違うだろうが、跡部もまた、家のことでは苦労しているだろう。

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2021.01.15

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