俺様の美技に酔いな 63

「チビ助……」
「誰? 俺を呼ぶのは――」
「忘れたのか? 俺は……」
 そこで、突然台詞がサイレントになる。リョーマにとって大事な人であったのは間違いない。慕わしい声でもある。けれど――誰だっただろう。
「――だ」
「え? 何?」
 如何なリョーマでも読唇術など心得ていない。夢の中では尚更だ。
「誰? 誰? だ――」
 その時、目覚まし時計の音で目が覚めた。
「夢……か」
 あの人は誰だったのだろう。自分にとって身近な人なのはわかるのだが。父が軽井沢なんぞに連れて行かなければ、記憶喪失なんぞにならずに済んだのに――だが、逆恨みしている暇はない。リョーマはスマホの電源を入れる。
 特に交流がしたい訳ではないが、大事なメールが入っていたりすることもあるのだ。
「――あ、ケビンからだ」
 ケビンからは、『菜々子さんの写真忘れるなよ』との文章が届いていた。
「…………」
 おっと、呆れている場合ではない。もう一通は手塚からだった。手塚はLINEをしていない。多分、日本に帰って来たのは不二辺りから聞いたんじゃないだろうか。
『越前。元気か? 今でもまだ、部員達はお前のことを話している。堀尾達も元気だ。日本に帰って来たのは、もしかしてU-17合宿に参加する為か? 俺も参加する。油断せずに行こう』
 相変わらずだなぁ、手塚部長。リョーマは心がほわんとするのを感じた。堀尾やカツオやカチローが元気なのも嬉しい。
(やっぱりこれには返事出したいなぁ……)
 リョーマはスマホに指を滑らせた。
『心配かけてしまってすみません。合宿には俺も参加します。跡部さんも参加するようですね』
 ――返信、と。
『俺も跡部からメールをもらった。元気そうだった。合宿には来ると言っていたな。青学のレギュラーは全員参加する』
 手塚も返事をしてくれた。楽しみだな。先輩達に会うのが。
 リョーマはパジャマのまま深呼吸した。
(負けませんからね――高校生の連中にも)
 そう固く心に決めたリョーマであった。リョーマの参加した全国大会は、今や伝説となりつつあるそうだ。あのハードな大会を勝ち進んできたのだ。ちょっとやそっとじゃへこたれないぞ。――リョーマはそう思った。
「ほあら~」
「おはよう、カルピン」
「ほあら~」
 カルピンはリョーマが帰って来てくれて嬉しいのか、足元をちょろちょろしている。
「うわっ! カルピン、踏んづけたらどうすんのさ!」
「ほあら~」
「――ま、カルピン踏んづけるなんてドジする俺じゃないけど。親父と違って」
 南次郎はちょくちょくカルピンを踏んづけてしまうらしい――閑話休題。
「ほあら~」
「ほら、俺は顔を洗うから、もうちょっとしたら母さんにご飯もらって来いよな」
「ほあら~」
 カルピンはリョーマの言う通り、たたっと階段を下りて行った。やっぱり、カルピンは人の言葉がわかるんだ。リョーマは思った。――少なくとも、俺の言葉は。
「あ、新しくなってる」
 リョーマ愛用の歯磨き粉と洗顔フォーム。倫子が揃えてくれたのだろうか。リョーマは小さなことに気がつくようになった。
(ありがとう)
 感謝して使う。歯磨き粉独特の味。懐かしかった。
(スミス家で使わせてもらった歯磨き粉の味と似てるけど――やっぱり違うな)
 口内をさっぱりさせると、今度は洗顔フォームで顔を洗う。南次郎とは違う種類のやつだ。
「ふぅ……」
 乾いたタオルで顔を拭く。そして、髪を梳かす。いつもより早いから朝シャンしようかな――と、リョーマは考えたが、昨日、頭を入念に洗ったから、まあいいやと思い直した。
 いつもと変わらぬ爽やかな朝がそのうち来るだろう。ただ、違うのは、ここはスミス家ではないということで――。
(スマホにも菜々子さんの写真があるから、それを送ってやろうかな)
 男として、ケビンやケビンの父の気持ちがわかるようなリョーマであった。自分だって、跡部の写真があったなら……欲しいかもしれない。
(――って、何つまらないこと考えているんだ、俺は)
 リョーマはぱっぱっと煩悩を振り払った。
 それより気になるのは、あの夢の中の人物。
(夢の中のあの人――あの声、あの顔……俺は、あの人を知っている……)
 けれど、倫子に訊くのは何故か憚られた。南次郎は何か知っているだろうか……。後で訊いてみようとリョーマは決めた。

 部屋の中に漂う朝餉の匂い――。
「おはよう……」
「お、早いな、青少年」
 南次郎がいつもの黒い着物姿で挨拶をする。あの着物は何着もあるらしい。倫子が愛情を込めて洗ってあげている。
「だって――合宿始まるの早いんだもん」
 時計の針はまだ5時半を指している。南次郎がリョーマを送る手筈になっていたが、リョーマが断った。合宿所はここからは結構離れているが。
 高校生と対決するのが楽しみだ。強い高校生と戦いたい。跡部や幸村らにもリベンジマッチしたいと申し込まれたら受けて立つけど。今度も俺は負けない。――リョーマはぐっと拳を握った。リョーマがアメリカに行って数か月。きっと跡部も強くなったことだろう。
「おはようございます。リョーマさん」
「?! 菜々子さん?! まだこんな時間――え?」
 リョーマは動揺している。菜々子はいつものようにさらさらしたロングヘアーをしている。菜々子からはいつもいい匂いがしている。この髪は手入れするのが大変だろうな―――とリョーマは思う。
「リョーマさんのことを見送ってあげたくって」
「え? いいよ――そりゃ、気持ちは嬉しいけど……」
「うふふ……」
 また、菜々子の髪がさらっと鳴る。もしかしたら、菜々子は本当に、すごくいい女なのかもしれない。自分は慣れているけれど。
「ねぇ、菜々子さん。ケビンが菜々子さんの写真を欲しがってたよ」
 言わなくてもいいことかもしれないが、つい言ってしまった。
「あら、私の写真なんて――」
 こういう慎ましいところも、大和撫子の条件なのかもしれない。菜々子はクスクスと笑っている。
「菜々子さんの写真、撮っていい?」
「別に構わないけど――」
「お。ケビンの坊主も菜々子に懸想か? エロ写真欲しがってんのか?」
「もう! おじ様ったら!」
「そうだよ! そんなの送ったらかえって引くって!」
 菜々子とリョーマがブーイングを発しても、南次郎は飄々としている。新聞まだかな~、と呟きながら。――カルピンが来て、南次郎のところに来たので、南次郎は適当に相手してやっている。
「ねぇ、菜々子さん。本当に菜々子さんは俺の父方の従姉なの? 母さんの方じゃないの?」
「うーん、おば様と血が繋がっていた方が嬉しかったんだけどね――」
 血が繋がっている――
 リョーマの心臓がどくんと跳ね上がった。――何かを思い出しそうだった。南次郎に訊いてみよう――今。
「ねぇ、親父――」
「んー、何だぁ? 坊主……」
「俺の記憶喪失には後遺症があるかもしれないって言ってたよね――」
「ああ。忍足先生がか。うん。お前は大切なこと忘れてる。お前には――」
「待って! やっぱり言わないで!」
 リョーマが焦る。本当のことを知ったら、今までの家庭が崩れそうで――。菜々子とも遠くなりそうで。ほら、菜々子も困ったような顔をしている。真実は眠らせておくことも大切なのだ。
「いつか――時が来たらわかることでしょ?」
「そんなに大層な話だっけかな?」
 南次郎がとぼけて言いながら、煙草を取り出して火を点ける。
「そうですよ。あなた。――リョーマが知りたくないと言うのなら、今は黙っておくのも必要ですよ」
「でもなぁ――そうなるとあいつが気の毒だしなぁ。……リョーマに忘れられたままじゃ」
 知りたいけれども――知りたくない。でも、あの人からは悪い感じはしなかった。あの人は好きだと思った。――それから、リョーマは子供の頃のことも忘れている。断片的には覚えているけれども。
(俺には兄がいた)
 それとも、兄貴分に当たる誰かが。記憶喪失になった時、あの人のことを忘れてしまったのだろう。忘れたのは薄情だからじゃない、とリョーマは必死で考える。いつだって、俺の中にはあの人がいた。
 跡部とは違う意味で、大切だった人。大切だった思い出。それを覚えていないなんて――と、少々忸怩たる想いを味わった。でも、真実を知るのは、怖い。例えそれが大したことではなくとも。――倫子が儚げな笑みを浮かべた。
「リョーガのことは、いずれリョーマもわかりますよ」

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2020.12.16

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