俺様の美技に酔いな 61

「どうしたんだよ。あーん?」
 リョーマは少なからず動揺した。顔は赤くなっていないか。体が震えてはいないか。――飲み口からはぶどうの甘い匂いがする。
(跡部さんもこの缶から飲んだ……)
 跡部は首を傾げている。
 どきん、どきん――心臓が破裂しそうだ。しかし、心を決めると、
(えいっ!)
 とばかりに缶に口をつけた。跡部の唇の温もりが伝わって来そうだった。飲み慣れたPontaが、さっきより美味しく感じられた。
「ま、不味くはねぇな。Pontaも」
 跡部はわかってくれたが、リョーマはそれどころではなかった。心臓の鼓動が煩い。全く、どうかしている。美技どころか――跡部との間接キスにすら酔ってしまうなんて。尤も、跡部はそんなこと少しも気にしていないようだった。それが、リョーマには少し悔しい。
 ――いつか、跡部さんを俺に夢中にさせてやる。
 リョーマが密かに誓いを立てていると、跡部がのんびりと声をかけた。
「お前、U-17合宿、出るよな?」
「はぁ? 当たり前じゃん。――つか、そのこと伝えたじゃん」
 ――U-17合宿参加。その為に日本に帰って来たのだ。サリーが泣くのにも関わらず、だ。
「まぁ、俺も参加するけどな――ここだけの話、どうやらその合宿、なかなかヤバいらしい」
「ヤバいって?」
「――まぁ、いい意味での『ヤバい』というのではなさそうだな。何しろ合宿から帰った奴らからはいい噂を聞かないもんでな」
「じゃあ、何で跡部さんは行くんです?」
「それはだな――俺様、テニスそう長く続けられねぇかもしんねぇんだ」
「え……?」
 リョーマは目を瞠った。もう少しでPontaの缶を取り落とすところだった。跡部は自分の同類で――ということは、かなりのテニス馬鹿で、だから、テニスを辞めるなんてこと、地球がひっくり返ってもないと思ってたのに――。
「な、何でですか?!」
「俺様は――跡部家を継ぐ話になっている。高校に行ったらな――イギリスに留学するんだ」
 パーカーのフードから跡部の横顔が覗く。自販機の光に照らされた跡部の表情は儚く見えた。
「それで……跡部さんは平気なんスか?」
「――んな訳ねぇだろ。でも、祖父からの要望……つか、命令なんだ」
 嫌だ!
 リョーマは強く強く思った。自分がライバルと認めた男が、テニスを辞めるなんて――。それに――リョーマは跡部の美技に酔ってみたい。以前、散々酔わされたくせに。あの時勝ったのは自分だけど……跡部の粘りはすごいと思った。
 リョーマが勝てたのは、ひとえに仲間達への想いのおかげで――。
 でも、跡部はとてもテニス部員達に慕われていて……リョーマだって、跡部とまた対戦したい。ずっと対戦してみたい。
「『俺様の美技に酔いな』――あれはただの与太だったんですか?」
「まさか……そんな訳ねぇだろ……」
 跡部は泣いているのだろうか。リョーマは思った。涙を流さずに、心で泣いている。多分、そんな心理状況なのだろうと、リョーマは思った。だって、リョーマも同じだったから――。
「跡部さん、あなたの人生はあなた自身のものですよ」
「――ああ、そうだな……」
 この東京ではスモッグで星が見えない。跡部には大切な物が見えていない。リョーマは心中憤慨した。
「――飲まねぇのか?」
「あ……」
 手にしていたPontaの缶を忘れていた。――また口の中に流し込む。炭酸はあらかた弾けてしまったらしい。温度も――ぬるい。
「跡部さん……」
(俺はもっとアンタの美技に酔いたいっス)
 だが、そう言うのも恥ずかしくて、黙っていた。リョーマは自分が如何に恵まれた環境でプレイしていたのか思い知らされたのだから。そんな自分は、さっき跡部に説教じみた言葉を言ってしまったが、そんなこと、跡部自身が一番わかっていることだ。
 跡部は優しい。それに、周りのこともよく見えている。祖父の言いつけも守りたいと思っているのだろう。
 それとも――リョーマが考えている以上に跡部家の当主という地位は重いのかもしれない。
 跡部がまた語り出す。
「最後の我儘にな――U-17合宿に行くことを許してもらった。高校生が殆どという環境でな。アウェイだが、真田や幸村――立海大の連中も誘いを受けたらしい。四天宝寺の奴らも――ほれ、あのチビ、金太郎もな」
「金太郎がねぇ……」
 リョーマが複雑そうに唇を歪める。金太郎はすごいプレイヤーだ。でも、あの『コシマエ』っていうのはどうも……。
(『エチゼン』だって言ってんのになぁ……)
 でも、どうも憎めないキャラクターだ。それは認める。何だか弟のようで、可愛らしいところもある。リョーマにはそれを上手く伝える方法がないだけで……。
 リョーマはぐびりと、また一口ジュースを飲んだ。
「話、聞いてくれてありがとな」
「ううん……でも、跡部さん、テニスって楽しいっしょ?」
「当たり前じゃねぇか! だとしたらやってねぇ!」
「ねぇ――自分の気持ちに正直になれば? 跡部家の問題とか、お祖父さんの言いつけとか、全部うっちゃってさ――」
「リョーマ……」
「ねぇ、ずっとテニスしてようよ! ――少なくとも、俺はそのつもりだよ」
 言うつもりのなかった言葉。跡部には跡部の事情がある。どんなに理不尽でも従わなければならないことがあるのは、中学生のリョーマは知っている。跡部だって、本当はテニスをしたいこと、痛い程によくわかる。
 リョーマは自分からテニスを取ったら何も残らないのを自覚しているから――。
(己のテニスも業かもしれない)
 けれど、跡部だって、リョーマと『同じ』なのだ。テニスがなければ生きていけない。跡部はテニスを甘く見ている。跡部はテニスの呪縛から逃れられない。――リョーマもそうなのだから。
(まぁ、俺も、テニスに関しては似たようなものなんだけどね――)
 季楽靖幸はどうだったのであろう。南次郎の後輩の息子と聞いてはいたが――。季楽の父は、ただ息子とテニスがしたかっただけらしい。南次郎も、きっとそうなのだろう。
 けれど、リョーマは南次郎に感謝している。テニスのおかげで、毎日が充実している。季楽もテニスへの情熱に火が点いたらしい。季楽の父はきっと喜んだことだろう。
(『慣れ』ってやつかな。こういうの)
 けれど、単なる慣れでないのも、リョーマは知っていた。テニスという生き甲斐を与えてくれたのは南次郎だ。けれど、テニスでは負けたくない。
 そして、もう一人――。
 テニスで絶対勝ちたい人がいたのであるが――。
(――誰だったかな)
 忘れてはいけない人物だった気がする。その人物の名前や顔を思い出せないのは、記憶に障害が出ているからかもしれない。だが、他の点ではまるきり普通なのだ。昔通りの越前リョーマだ。
 それとも、やはり自分は薄情なのだろうか。
「誰だったかな――」
「ん?」
「跡部さん、俺ね、忘れてはいけない人を忘れている気がする」
「あーん? 誰だ?」
「それがわかったら苦労はないんスけどね――」
「記憶にまだ障害が残ってんのか?」
「それは俺も考えたんだけどね……」
「俺様がいい病院紹介してやろうか?」
 跡部の申し出をリョーマは緩やかに首を横に振って断った。
「幸い、今は支障はないし――」
「忍足の親父も確か医者だったけど――」
「え」
 リョーマは眉を寄せた。忍足はいい人だけれど、でも――ライバルなのだ。テニスではなく、恋愛の。忍足はよく跡部の傍にいる。忍足は多分――跡部のことが好きだ。
 忍足侑士。四天宝寺の忍足謙也の従兄弟である。謙也もテニスプレイヤーなのだ。
「な……何だよ……」
「別に。ただ、あの人苦手なんだ」
「いいヤツだぞ。ま、ちょっと変わってるけどな」
「ふん」
 飲んでいた缶の中身はとっくになくなっていた。リョーマも缶を捨てた。
「じゃ、俺行くね」
「ああ――次会う時は合宿だ」
 跡部は手を差し出す。リョーマもその手を握る。ジュースの甘い液体でべとべとしていないか、多少気にしながら。
「またな」
 そう言って、跡部は手を振った。――リョーマが歩き出し、振り返ると、跡部は走り出していた。
 意外と泥臭い努力、続けてるんだね。アンタ。
 リョーマは、跡部を愛しく思いながらくすっと笑った。
(跡部さん、アンタにテニスは捨てられないよ)
 それは、同類だからこそわかる事実――いや、真実であった。お互いの言葉といえば、ただテニスがあるだけ。
 リョーマは自分の考えを頭の中で箇条書きにした。テニスをやっていて良かったと思うこと。テニスのおかげで出来た目標。テニスが出来たおかげで起こる嬉しかったこと。自分を磨くこと。仲間が出来ること。――そして、リョーマは上へ行く。

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2020.11.05

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