俺様の美技に酔いな 60

「母さんと菜々子さんが作った茶わん蒸し、美味しい」
 ご飯と茶わん蒸しを頬張りながら、リョーマは言った。倫子は、今度は元気な笑顔で応えた。
「そう? そう言ってくれると嬉しいわね。リョーマが美味しそうに食べる姿は見ていて胸がすくわ」
「うん!」
 もう、後しばらくは母の作る茶わん蒸しも食べられなくなるのだ。リョーマは茶わん蒸しの香りも好きだ。舌触りも好ましい。それに――母の作る茶わん蒸しにはうどんが入っていた。
 それを堀尾達に話すと、変わってんな~、と感心されたが。後で調べたところによると、倫子の作るのは小田巻蒸しというものらしい。
「この、銀杏が入っているところがいいんだよね」
 あんな臭い銀杏から、どうしてこんな美味が引き出せるのか――銀杏て不思議だよな、とリョーマは思う。
「まぁ、リョーマったら――同じことを昔、父さんも言ってたのよ」
 倫子が上機嫌で教えてくれた。
「え~、親父と~?」
「何だよ。嫌そうな顔すんな」
「だって……親父とは一緒にされたくないっつーか、なんつーか……」
 リョーマの南次郎に対する感情は複雑であった。
 尊敬するテニスプレイヤー。軽蔑すべきスケベ親父。倒したいライバル。たまに頼りになる父親。
 ――ま、生んでくれたことについては感謝してるけど、それだって南次郎だけの勲章じゃないし。
「お前、昔から生意気だったけど、更に生意気になったな……」
「リョーマさんも思春期なんですよ」
 南次郎の台詞を受けて、菜々子が言った。母にはあまり反発は感じないが、父親にはやたらと謀反したい気持ちが溢れてくる。あんなに大好きな父親だったのに。――そうか。これが思春期というやつか。
「ま、これもうちょっともらうよ」
「はいはい」
 菜々子がご飯をよそってくれる。得体の知れない何かを潜めた、傍目には和気藹々とした食卓。
 ――親父。もう少ししたら、親父にも、素直に言える日が来るかな。生んでくれてありがとうって。テニス、教えてくれてありがとうって――。
 テニスがあったから、あの人達にも会えた。――跡部景吾や竜崎桜乃に会えた。いろんな人に会えた。
「お、リョーマ。静かになったな。まぁいいか」
 南次郎はテレビをつける。殺人事件のドラマをやっていた。好みでないらしく、すぐチャンネルを変える。
「あんま、面白いのやってねぇな」
「いいじゃない。たまには静かな晩餐でも」
「そうだな。最後の晩餐だしな――あ、縁起でもねぇか」
『最後の晩餐』なら、リョーマも知っている。美術の授業でやった、レオナルド・ダ・ヴィンチのキリスト教の絵だ。イエス・キリストが、『弟子の中の一人が私を裏切る』と言う場面の絵である。
 あの絵はリョーマも嫌いじゃないけど、今話題に出すには相応しくないかもしれない。
「親父は空気読めないんだよ」
「あら、父さんは空気読めないんじゃなくて読まないのよ」
 ――でも、だから母さんは父さんのこと好きになったのよ。そう言って母倫子は小さく笑う。
「母さん……」
 南次郎は倫子の台詞に感に堪えた様子で。だからこそだろう――こう言った。
「リョーマ。お前が合宿から帰って来た頃にはお前にも弟か妹が増えているかもしれねぇぞ」
「もう、父さんたら――」
 倫子は恥ずかしがるように自分自身の火照った頬を両手で押さえた。このスケベ――と、リョーマは南次郎を軽く睨んだ。菜々子なんて、どうしていいかわからなくて困っているようではないか。「ふふ……」と照れ笑いをしている。
 ――でも、反面リョーマはそう言える南次郎が羨ましくなくもなかった。
(俺と跡部さんじゃ、子供出来ないもんな……)
 竜崎とだったら、出来るかもしれないけれど――そう思って、リョーマは気が付いた。
(俺、親父のこと言えないじゃん)
 跡部が女だったら良かったのに――とリョーマは思った。けれど、桜乃のことも気になる。
 ――リョーマ。父さんは昔、浮気性だったのよ。
 リョーマは(へぇ……)と、意外に思った。あんなに倫子一筋に見えたのに。けれど、結婚する前だったらわかるかな。
(それって、結婚する前?)
 リョーマは訊いたが、倫子は寂しげな笑みを浮かべた。もしかして、親父に隠し子がいたとか?
 ――ああ、何だか頭がズキズキする。リョーマが感じた疑念。南次郎も倫子もあまり触れたがらない『何か』。リョーマも知っていたが、どこかに落としてしまった記憶。
「俺、ちょっと外出てくる」
 リョーマはそう言って、食べかけのご飯とおかずを残して立ち上がった。
「何です。リョーマ。お食事中に行儀の悪い……」
「まぁまぁ。リョーマにも思うところがあるんだろう」
 こういうところは、南次郎も子供の心を汲んでくれる良き父親である。――まだ自分が子供の心を残しているから、知っているのであろう。リョーマがいろんな何かを抱えていることを。

「星、あんま見えないなぁ……」
 リョーマが独り言つ。ロサンゼルスでも星はあまり見なかったような気がする。――友達と話すのに夢中で。
 でも、今はリョーマ一人。
 ケビン達、どうしてるかな。――まぁ、あまり時間も経ってないし、変わりようもないかもしれないけど。
 近くのコンビニの横に自動販売機がある。Pontaが飲みたいな、とリョーマは思った。そして、そちらの方向に足を速めた。
(あ、ないや)
 お気に入りのPontaグレープ味が売り切れになっている。ないとなると余計飲みたい。確か、この近くにもまだ自販機はあったはず。
 飲めないとなると、飲みたくなる。
 仕方ない。――もう少し歩くか。
 お目当ての自販機に近づくと、人影が現れた。それを見て、リョーマの胸が高鳴った。
 まさか――。
「跡部さん!」
 リョーマは思わず叫んでいた。パーカーのフードを頭から被っていた少年が立ち止まる。肩で息を切らしていた。どうやらジョギング中あったらしい。
「リョーマ……?」
「何やってんスか! こんな時間に! こんなところで!」
「あーん? 走り込みってやつだ」
 それはわかるが心臓に悪い。
「お前こそ、こんなところで何してる」
「Ponta買いに来たんスよ」
「へぇー……ま、ここで会ったのも何かの縁だ。どうせだからおごってやる」
 跡部はリョーマに『来い』というジェスチャーをした。リョーマがふらふらとついてくる。
「グレープ味だっけ?」
「そうだけど?」
「ちょうど小銭があって良かった」
 そんなことを呟きながら、チャリンチャリンと小銭を自販機に入れる。ピッ、と、明かりが点く。Pontaグレープ味はあった。
「ほらよ」
「――ありがとうございます」
「俺様もなんか飲むか」
 跡部は缶コーヒーのボタンを押す。
「……アンタ、金持ちのくせに缶コーヒーなんか飲むんスね」
「この安っぽい味がいいんだよ。ほんとはこの自販機ごと買える金はあるんだがな」
「安っぽい自慢ですね」
「ほっとけ」
 跡部はごくっごくっとコーヒーを飲み干す。――すぐに空になったらしい。空き缶をゴミ箱に捨てる。
 もう行ってしまうのかと、リョーマは少し残念に思ったが、跡部は立ち去る気配を見せない。――何でだろう。
 ……リョーマはPontaに注がれる跡部の視線を感じた。
(でも、やらない。これだけはやらないもんね)
 リョーマはわざとゆっくり味わいながら飲む。跡部はまだ見ている。
「……何スか」
「いや、そんなくそ甘ぇもんよく飲めるなって」
 Pontaが馬鹿にされた! ――リョーマは頭に来た。
「じゃあ飲んでみてくださいよ! 美味しいんだから!」
 リョーマはPontaの缶を跡部に差し出す。跡部は受け取って一口飲んだ。
「――やっぱり甘ぇ」
 跡部がPontaをリョーマに返す。飲み口に唇を近づけると、リョーマはここで気が付いた。――これってもしかして、あの、噂の、間接キスってヤツ? リョーマの頬がかっと火照った。

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2020.10.11

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